すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ドクダミのような言い草

2017年07月10日 | 読書
 「ドクダミ」は字面だけだと「ドク」(毒)の方が強調される感じがして、いいイメージは持たれない気がする。
 しかし語源からいうと「毒を矯める(正しく直す)、毒を止める」から来ている正義の味方なんだと改めて思う。

 言葉そのものが、悪や正義ではないけれど、いろんな時に「力」にはなるのだと…今日も掬い上げてみる。



Volume59
 「この、繋がってしまった世界で、仲良く、足るを知る、心静かな暮らしはどうしたら可能か」

 作家森まゆみの言葉。
 「繋がる」は一般的にはいい響きで用いられる。しかし「しまった」という表現でわかるように、それによってどうしようもない縛りに陥る場合もある。
 仕事上のこと、家族や身近な範囲のことだけでなく、県や国や世界中の出来事が、実は繋がっている。

 見えるか、見えないか。もしくは想像できるか、思いもしないか。
 個々の様相は様々なれど、もはや、繋がりに無意識ではいられなくなっている。


Volume60
 「『大人を経た子ども』になること」

 あのラッキー池田の著書を、明治大学教授齋藤孝がそう題して書評を書いている。
 齋藤はこんなふうに解説している。
 「気を使い過ぎて消極的になるところは日本人の弱点ですから、私たちは『大人を弁証法的にくぐり抜けた子ども』を目指すのが、いいと思うんです。

 よく「子どものような心を持った人」とは言うが、その表現がおそらく近いのだろう。
 しかし、現状はまた皮肉な状況にあるようにも思う。
 最近の「大人」(自分を棚上げして)を見ていると、単に「子ども」ではないか、と思えることが多くないか。

 「大人」をくぐり抜けていない、いやそれは、もっと前の「子ども」をくぐり抜けていないことだ。

 社会、教育の責任は大きい。
 もちろんそんな単純な分析、批判をしている時でないこともわかっている。

満月カステラへの細道

2017年07月09日 | 雑記帳
 幼い頃カステラはごちそうだった。もちろんカステラに限らず、特別な日の食べ物はあったが、カステラはシンプルな形や色なのに美味しい。飾りつけたお菓子とは違うところが特別だった気がする。しかし少しずつ食生活が豊かになり、自分の舌も結構肥えたような気になって、少しずつ関心がなくなっていった。


 カステラよりケーキ等のスポンジ部分の方が柔らかくしっとり感じることもある。それでもたまに食べたくなり、近くの店から買い求めるとぱさぱさしていることが多く、身の周りの普通のお菓子屋さんの品には、まず目が向かない(ごめんなさい)。それでも全国的に有名なB堂の品はまずまずかなと思っていた。


 そんな頃、たまたま東京駅でおみやげとして買ったF屋のカステラの味には、驚いたものだった。あれは20年前ぐらいだったろうか。「五三焼き」が発売されて食べたときは、あの何重もの包装も驚いたが、その味にはもう虜になってしまった。しかし価格はそれなりに高く、いつも上京するたびに…とはいかない。


 連れ合いが初めてカステラ作りに挑戦したのは、そんな時期だった。真四角の木枠を手に入れ、慎重に取り掛かったけれど、思ったほどの仕上がりではなかったことを覚えている。それでも2,3回は続けたと思う。結局遠ざかったのは、シンプルゆえに技術的に難しい点があるのだ。市販品のレベルも合点がいく。


 それから十年近くが過ぎ、再びの挑戦が始まった。そのアイデアは「米粉」の活用を考えたことから始まった。今の時代「グルテンフリー」を求める方もいるし、真四角という基本形を崩しても面白いという発想で仕上げた。「カステラはちぎって食べるとより美味しい」(by『ごちそうさん』)。それが実感できる味と価格だ。



状況依存する強さ

2017年07月08日 | 読書
 「自分は死んでも困らない」…先日の講演会ではそう語られた。自分が死んで困るのは周囲の人であり、自分ではない。養老先生の本は、新書を中心に何冊か読んでいるが、半分も理解できないなと思うことがしばしばだ。しかし時々どきっとするような、今まで考えてもみなかった知見に遭遇する。この本もそうだ。


(もう、しっかりと飛んでいる蜻蛉)

2017読了72
 『骸骨考』(養老孟司  新潮社)

 レヴィ・ストロースの「人類社会は交換からはじまる」という言葉の意味を、ああ確かにそうだ、とこの本を読んで初めてそう思った。つまり、「交換」をするのは人間だけだという、ごく当たり前のことに思いめぐらせた。それは物々交換やお金のことだけでなく、「相手の立場に立つ」という認知の場でも成立する。



 意識と身体は、著者にとって理論の核だろうし、頻繁に登場してくる。結論として「身体が意識を根本的に左右している」が挙げられるが、凡人はその逆のように考えたりする。怖いのは意識の肥大化だろうか。個性が持てはやされることを尻目に、この超個性的な著者はこう書く。「要するに私は状況依存なのである


 これは痛快。さんざんバカにされてきた状況依存や「空気で決める」ことに対して、ひどく寛容である(もっともそのレベルは判らない)。そして「状況依存ほど『客観的な』決め方はない」とも言い切る。つまり、それは「いまを生きる」という覚悟だ。情報化に振り回されるな、直観を鍛え、信じよ、ということか。


雨にうな垂れ沙羅の花

2017年07月07日 | 雑記帳
 あれは2009年の7月下旬。夏休みに入ってすぐに休暇をもらい、家人とともに5泊6日の九州旅行へ向かった。仙台空港から福岡空港への直行便を利用しお昼頃に着く。レンタカーを借りて、最初に向かったのは太宰府天満宮。熱く強い陽射しから急に薄暗く曇りだし、突然のにわか雨に見舞われたことを覚えている。



 その夜は福岡に泊まり、屋台の店などを廻った。強く降りだしたのは夜も更けてからだったか。翌朝、九州自動車道を使って長崎へ。通行止めはなかったが、途中ずいぶんと強い雨に叩きつけられた。正確な場所は忘れたが自動車道の下がまさに洪水状態になっている景色を、驚きの目で見つめながら走った記憶がある。


 もっと驚くことを、その夜のニュースで知った。自分たちがレンタカーで走った自動車道の法面が崩落し2名が死亡する事故があった。私たちが通った30分ほど後だ。しかも2人は夫婦で、教師だった。全く見知らぬ人とはいえズキンと心が痛んだ。人の一生はわからない、紙一重というが、実感せざるを得なかった。


 楽しく印象に残る旅だったがその時の痛みも覚えていた。今回の九州豪雨被害を画面で見つつ、ふとまた思い出してしまった。死者、不明者が多く痛ましい災害となった。当事者の方々は、二日前までまさか自分が自宅がとは考えていなかったろう。私たちはそこに想像を巡らし心備えをすることぐらいしか出来ない。合掌。

冷たい麺の季節です

2017年07月06日 | 雑記帳
 蒸し暑くなってきて、麦酒とともに冷たい麺が美味しい季節になってきた。

 久々に麺食い野郎として投稿してみる。


 昼食をかなりの頻度で麺類にしている者にすれば

 夏は「そーめん、(冷)そば、冷やし中華、冷麺」あたりが定番で

 その繰り返しの週もあったりするのだが、

 この頃は売っている商品でも結構なバリエーションになっている。


 
 これは「冷やし担々麺」。

 袋麺としては秀逸な「行列のできる店のラーメン」シリーズである。

 宅ラーつまり、家にある食材調理であることが「ナルト」で証明された(笑)

 ラー油を多めにかけて、抜群の美味しさになる。



 次は先週出かけた県都の某激安スーパー内のラーメン屋で注文したもの。



 「味噌ネギ冷やし中華」。

 冷中評論家として、そして味噌ネギフリークとして

 絶対に食べておかなくてはと思い注文する。

 ビジュアル的にはどうかと思う仕上がりだったが

 味はなかなか、ネギとワカメの組み合わせもいいものだ。

 冷中の具の発展性について、あれこれ考えさせらる。



 そして、昨日の昼食には「冷天そば」。



 これはたとえそばが乾麺でも、天ぷらを添えることでぐっと美味しくなる。

 油と野菜の力を感じるときだ。

 最初は天ぷらをほぐしつつ、徐々にスピードアップしていく典型である。



 とまあ最近の麺事情を書いてみたが、

 「冷や麦で間に合わせる」日もあってこその、プチ御馳走感だなと納得している。

 

もう一度注意深く

2017年07月05日 | 読書
 ネットの怖さは、質や量がもはや無限大になっていることだ。
 誰しも自分に都合のいいように利用しているつもりだが、その実、利用されているなあと思う瞬間を感じている人も少なくないだろう。
 さらに利用の仕方や思考方法まで、知らず知らずのうちに操作、誘導されている現実も見えてくる。

Volume58
 「ネットは議論のプラットホームではなくなりつつある。自分が信じたい結論が先にあり、それに合致する情報を探し出す。」

 「共謀罪」をめぐっての報道の中で、ネットが二極化したことを評論した津田大介の言葉。
 ネットという場が議論をするにふさわしいかどうかは、意見の分かれるところだろう。
 どこまでも拡大するメディアは、拡散そのものであるが、集約、収斂とは反する性格を持つだろうから、その役割を担うことはできない。



 かつて、ネットが広がり始めた時期に、欠かせない要件として「信頼」という言葉を掲げたのは、私の知る範囲で言えば、糸井重里と向山洋一であった。
 信頼をベースにして築くべき社会であることには納得する。
 しかし、あまりにも情報過多になり過ぎた現実ゆえに、注意深さや辛抱強さを忘れ、単純な「盲信」が日常的になっては困る。


 信じたい人間がいる。
 それは当然であり、認められることだ。
 しかし、信じたい人間のいうことをそのまま結論にする安易さは危険でもある。

 媒体の限界や弱点にもう一度目を向けたい。

付加価値も突き詰めれば

2017年07月04日 | 読書
 日本って国はなんていい所だ、本当に至れり尽くせりだよな、と南独旅行の最初にそう繰り返し思った。しかし二日も経つと、慣れたわけではないが、なんだか様々な不備にも対応していくようになった。広大な景色や伝統を重んじる空気感などもちょっぴり体に馴染む気もする。この復習本でその訳が少しわかった。

2017読了71
『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』(川口マーン恵美  講談社+α新書)


(ミュンヘンの広場。若者たちは便利なモノを使いこなしていたが…)

 著者はドイツ在住が長い作家。日本の大学の客員教授も務めている。第一章が尖閣諸島へ向かうことから始まったのには少し驚いたが、一面で著者の関心の優先度もわかる。領土や言語、通貨の問題が今なおシビアなヨーロッパに暮らすことから見えてくる、この島国の本質に迫っている。書名とは裏腹に結構重い。


 「日本の発展の原動力は、実はこの、便利さと快適さの追求、つまり、品質の改良であり、サービスの果てしなき拡大だった」とする著者の指摘は当たっている。著者はそれらを一面で「誇り」としながらも、それらについては「付加価値であり、なければ済むということだ」とも言い切る。旅行での体験とも重なった。


 フランクフルトに着いた日は日曜日。ある面で異常な静けさに驚いたものだった。それは「聖なる休息日」が徹底していることであり、「休みなく動く街」が日常化している我が国との違いを痛切に感じた。最終的に元気でいられるのはどちらか、結論としては明らかだと思う。少なくとも個の舵取りはそうありたい。


 とはいえ、びっくりしたのは鉄道運行のいいかげんさ。フランフルトは始発、終着駅と聞いたので興味深かったが、乗る機会があったら混乱したか。著者が体験している酷さを読むとそう思う。「便利さに背を向ける」人が多いのだという。それはやはり、自意識が濃く他者意識の薄い国民性の一つの結論かもしれない。

「負けました」の姿

2017年07月03日 | 雑記帳
 将棋の藤井聡太四段公式戦連勝の報道は、ちょっとエスカレート気味ではないか、注目され過ぎて少しかわいそう…そんないわば俗な感想しか抱けなかった。しかし連勝ストップの場面やニュースに接して、改めて凄いことなんだなと(これまた俗な言い草だ)と思ってしまった。何より「負ける姿」がいいなあと感じた。


 「負けました」と片方が言い、そこで終わる試合はめったにないだろう。スポーツで「ギブアップ!」と叫んで終了は確かにあるが、静的に落ち着いて口から発することとは訳がちがう。かの時、藤井四段はきちんとジャケットを着たうえで、その言葉を口にした。礼儀正しく、潔く…観ている者の感性に訴えかける。



 将棋は並べる程度の知識しかない。身近にそんな趣味を持つ人がいたか、記憶をたどってみると、母方の祖父が将棋盤を前に正座で指していた姿がかすかに目に浮かぶ。三十年近く前に亡くなった祖父だが、寡黙で世の中を達観していたような風情があった。自分も幼い時に少し習っていれば…と思ったことがあった。


 あれはある小規模校に勤務していた頃、なかなか教室に入れず難儀していた男児がいた。その子の趣味の一つに将棋があることを知り、ではということで、何故かその子自作の紙で作った将棋の駒で、連日のように校長室で対局していた。男児のレベルは初心者であり、私がつき合いながら指すには格好の相手だった。


 本気を出さず、ある程度まで指して負けるという繰り返しを続け、その子に自信を与える配慮をしていた。嬉々として数週間続け、そろそろ一回ぐらいこちらが勝ってもいいかと「甘い一手」を繰り出したのが運の尽き。次の日から姿を見せず、紙の駒もどこかへ追いやられた。「負けました」と痛感した一コマである。

笑い・お笑い・アマくない

2017年07月02日 | 雑記帳
 県内外に名高い!「人星亭一門」の演芸発表大会を初めて聴く。FB上での情報も知っていたし、知り合いの方も演ずるというので楽しみだった。ローカル色を出しながら、各々に専門分野の持ち味を発揮していた。自分にはパフォーマンス才能はないが、つい考えてしまう「笑い研究」熱は結構高いと改めて思った。



 一門の師匠である人星亭喜楽駄朗氏は「日本笑い学会」秋田県人会会長だという。ここで、あっ「お笑い」ではないのか、「笑い」とは確かにニュアンスが違う、では「お笑い」って何だ…というように思考が動いた。日常的に使っている「お笑い芸人」という言葉に象徴されるように芸能、商業ベースの用語なのか。


 辞書をひくと「御笑・御笑い・お笑い」と漢字表記の見出しもあり、意味も大きく二つに大別されている。「①滑稽な演芸、落語や漫才など ②人から笑われるような事柄」。①を取り上げると「笑い」に含まれる多様な感情(嘲り、蔑み等)の部分がないのが「お笑い」だ。②は「お笑い種(ぐさ)」と通じることになる。



 「笑い学」の対象範囲はわからないが、「笑わせる芸」としての「お笑い」も中心だと思う。英訳すると「the art of making people laugh」ということか。きっとlaughhappyにつながる。プロのお笑いが時に暴力的、侮蔑的になるだけに、アマとしての活動に爽やかさを感じた時間だった。ただ笑いはアマくないけど…。

クマも梅雨に打たれているか

2017年07月01日 | 雑記帳
 最近あてにならない「梅雨入り宣言」は、今年も確かにその通りのようで、ここ数日はからっとした晴天が続いた。昨日の午後から降り出し、ようやく来たかとなぜか少しほっとする気持ちになったりもする。数日前の夜、自宅周りでも蛍が数匹行き交っていた。短い季節にわずかな光を放っている生物たちが眩しい。


(食べられなくとも…ここに居ります)

 大相撲に終始した五月(笑)に比べて、六月は結構目まぐるしかった。いずれ私的な海外旅行が大きかったのは確かだが、それ以外に多少あてにされている仕事があったり、会議参加も数回あったりで、一つ落ち着いて取り組むという時間はとれなかった。まあ、何でも目標設定する悪い癖を忘れたことは逆にいい傾向か。


(これから、七変化…)

 世間に目を移せば「クマ騒動」。ニュースでは小学校児童への安全対策など流れていたようだ。しかし不審者対策と同様な面、異質な面があり、問題は結構複雑だ。そういえば…と思い出したのは、若い頃ある民間教育研究団体の全国合宿に参加し自己紹介をしたとき「クマから身を守る方法」を話したことがあった。


 中味のないウケねらいで、しかも全く反応なく気落ちしたことだけ覚えている。ただ確かなのは当時(約30年前)もクマ出没が頻繁であるゆえの話題選定だった。結局、この問題は繰り返されているし、問題にするのは人間だけ、作りだしたのも人間だ。他の棲息動物も同様だろう。抜本的な考え直しが必要ではないか。