すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

光は、そこにある。

2017年12月21日 | 読書

(UGO 冬晴れ近景 何? 2017.12.21①)

 録画して観た『リバース』というドラマは、湊かなえの原作。初夏に文庫を読了していたが、あまりにも脚色されていて別物になっていた。読んでいなければそれなりに楽しめただろうか…。こんなふうに偏った小説読みとしては、もう少し範囲を広げたい。あっこの人、去年の本屋大賞の人だねと一冊手にしてみた。


2017読了126
 『田舎の紳士服店のモデルの妻』(宮下奈都 文春文庫)


 ぱっと見て「モデルをしている妻」と思ったのだが、「モデルをしている人の妻」だった。解説によると、この小説は『イナツマ』と略されているほど有名らしい。そうした業界で知られているのは、きっと売れたか、中身が特徴的かのどちらかだろう。判明しないが個人的にあまり読んだことのないタイプの小説だった。


 東京から夫の故郷へ移住した妻。夫の鬱病から物語が始まり10年間が描かれる。恋愛ものでもミステリでもなく、いわば日常的なありそうな暮らしと葛藤がその内容だ。特徴的な面白みはないけれど、するうっと読ませてしまうのは筆力なんだろう。男女の違いはあるにしろ、誰にも潜んでいる心理の描き方が上手だ。


 人は、自分を普通と言いながらどこか特別と思っている。それが本当に普通と得心できるまで、結構長い年月がかかる。その過程の中でつかむ「本当」こそ支えだ。メールをやりとりするかつてのママ友は、ある意味鏡のようでもある。その彼女に「めでたし、めでたし」とメールした主人公の心境は、かくのごとしだ。

「胸を張ってめでたいことなど、きっと一生のうちにも数えるほどしかないだろう。しかも、めでたさの渦中にいる人は、それほど栄えあるわけでもしあわせなわけでもないのではないか。それよりも、めでたいと意識していないときのめでたさを愛でたい。」


 これは「自分はひとり」だと深いところで気づいた主人公が持ちえた心境だ。そこからどう家族に向き合い、周囲と接し、地域社会と折り合っていくか…女性には特に参考になるかもしれない。「手ぶら」が一つのキーワードになりそうだ。解説者は「この小説は光だ」と締めている。「光」の正体はそこにあると考えた。

ソレゴソ、問題ダベ。エッ?

2017年12月20日 | 雑記帳
 かつて秋田を「ソウスレバ王国」と密かに名づけたことがある。こんな文章も書いていた。この頃、あるラジオ番組を聴いていて、パーソナリティが「それこそ」を乱発していることに気づいた。「ソレコソ」(発音はソレゴソ)、この言葉も結構無意識に使っている人が多いんじゃないか、ソレゴソ、貴方の隣の人も…。



 「それこそ」という語は、見出しとして辞書にあるのか。手元の紙版の大小2種の辞書には載っていなかったが、電子辞書の3つには入っていた。広辞苑では「①「それ」を強める言い方 ②そうであれば。そうなれば。まさしく」となっている。私たちのソレゴソは、②に該当するように思うが、それだけでもない。


 「〇〇さんって□□だよなあ」に対して「ソレゴソ△△でないの」といった返しがある。その時、□□と△△の関係は相対性より類似性が強いパターンが多いだろう。相手の声を引き継ぐ形で「そうであれば」とつないで、自分の述べる事柄を強調するニュアンスが出る。指摘、概括、要約などいくつか考えられる。


 会話のつなぎ言葉として「それこそ」は、ソレゴソどうなの?と自問してみたら、やや詰問調になることに気づく。例えば「貴方はどう思う?」は「ソレゴソ、オメェはドウダナ?」と言い換えられても不思議ではない。つまり、話題になっている事項だけでなくその場の状況的な要素も含むので、つかい回しがいい。


 「大相撲界も大変なごどなってるなあ」に対して「ソレゴソ」と受けてどんな会話になるか。「ソレゴソ、外部の人たちにやってもらったら」「ソレゴソ、悪いな白鵬だ」「ソレゴソ、どこの業界も同じ」「ソレゴソ、俺の家よりマシだ」等、どんな応えもありなので、いわば自分優先の会話引き取り常套句と言えそうだ。

自然も社会もなかった世界

2017年12月19日 | 読書
 コトバって、不思議なものだ。
 時折「この頃あまり使われなくなった方言」を家人と話題にすることがあるが、コトバが消えていくにつれて、そのモノだけでなく、動きや感情などまで薄くなっていることに気づく。
 だから、今ふだん何気なく使っているコトバも、実はいつかどこかで出来ていて、そのモノやコトやカンガエが生まれてきたと改めて思う。



Volume90
 明治中葉から、私たちが使う言葉は大きく変わっていった。たとえば「自然」。それまでの日本語には自然は存在しない。なぜなら自然界、人間界という二分法的に世界をとらえる発想を人々はもっていなかったからである。(中略)たとえば「社会」。この言葉も伝統的な日本語には存在しない。なぜなら社会を客観的な構造体としてとらえる発想が人々にはなかったからだ。


 『ぼのぼの名言集(下)』の解説を書いた哲学者内山節の言葉である。

 いわゆる明治期に大量につくられた「翻訳語」として、自然や社会があることは知識として持っていたが、他の様々な言葉(自由、権利、個人、恋愛など)と同様に、ふだんそんなことは意識しない。

 簡単に口にするとすれば、本当なら自分がそのことをよくわかっているべきだけど、自然や社会なんて、実は一番つかみきれないものではないか。

 自然と人間、社会と人間(個人)、これらは対立する関係か。けしてそうではないだろう。
 しかし、私たちはそんなふうに思考することに慣れてしまった。

 山があり川があり、鳥がいて花が咲く…それらと同等に人がいる。
 人と人とはつながって暮らす。関係性の違いをことさらに構造化した、別の何かを、まるで「神」のように君臨させることはあるまい。

 少し寝ぼけたような戯言を並べているのかもしれない。
 しかし、そんなふうに生きられた世界を夢想してみると、どことなく「懐かしさ」が湧いてくることも事実だ。

 そういう時間に浸ってみるぐらいは、赦されていいことだ。
 「ぼのぼの」の名言はそんなことも考えさせてくれた。

師走の諦観、期待、警戒など

2017年12月18日 | 雑記帳
 先週末は二日続けて宴会に参加。飲み過ぎることなく無事に帰宅できたので、自分を誉めている。もちろん酔いの及ぼす影響を怖れての消極性と言えばその通りだが、二日間とも(初日は主に若い方々、二日目は同期生ら)それなりに楽しかったので、そんなふうに続けていけばいい。無理して無理することもなし。



 「道の駅うご」が来客100万人を突破。50万人時はちょうど居合わせたが、今回はタイミングを失した。それにしても目出度い。我が家「菓子ラボ順」も数ミリは貢献できているか。実は今年も「運勢と甘味研究所」(笑)を開くべく、材料仕入れに出かけたら使用できるサイズの袋が見つからず、断念せざるを得ないのが残念。


 年末恒例の様々な番組が放送される季節だ。特にお笑いはM-1だけでなくいくつか見るが、やはり「勢い」を感じる芸がある。テンポが速くなっているのは全般だが、そこに変化や緩急を入れてこそ輝きが増す。何を「笑い」とするか、芸人はある面で提案している存在なのだと自覚してほしい。見続けていきたい。


 お笑い絡みで少し心に留まった記事が…。首相が芸能人と食事をすることは悪いとは言えないだろうが、どこか胡散臭く感じるのは自分だけだろうか。大物芸人と言える松本人志。その独特のセンスも最近翳りが出てきたと思う。ワイドショー的な番組をあまり観ることはないが、ずいぶんと発言もしているようだ。


 『芸能人寛容論』で武田砂鉄は、そんな松本の発言をこのように警戒している。「ニュースに対して見解を示すというよりも、そのニュースを受け止めた世間の反応や見解に対して異議を申し立て、結果として、問題の主体となる側の論旨を補強しているきらいがある」。お笑いが投げつける毒は、誰に向けられているか。

名言ハンター③~人生指南

2017年12月17日 | 読書
 わが師より、学校教育の本質には「予防」という観点があると聴き、納得したことがある。そうでなくとも人は、日常に災いが及ばぬよう様々に動き、心がける。
 しかし同時にその限界も知っている。
 準備や予防を仕切れぬことに対してどう振る舞うか。何を培っておくか。

2017読了124
『ぼのぼの名言集(上)』(いがらしみきお 竹書房新書)
2017読了125
『ぼのぼの名言集(下)』(いがらしみきお 竹書房新書)




 パート3~人生指南編~


後でこまるん
だったら
後でこまれば
いいじゃねえか
(アライグマ)


かっこいい
悪いをヌキにして
生きられると
思うか?
(カシラ)


オトナがたいへんなのは
いつもオトナをやって
ないといけないのに
オトナをやれなくなる時が
あるから
たいへんなんだろう
(ぼのぼの)


考えることは
いつもひとつ
多い時でふたつ
みっつは余計だよ
(ヒグマの大将)


誰かを探しにいくのは
なんだかいいぞ
なんだか
かっこいいぞ
(アライグマ)





名言ハンター②~自然も一緒だ

2017年12月16日 | 読書
 「そのままに見る」という大切さを想う。
 また、好きな音楽をどんなふうに聞くか。そう言えば学生時代に尊敬していたサークルの先輩が「ぼんやり聞いているときが一番よくわかる」と語ったことを今でも覚えている。
 受けとめるも受け流すも自分、肩に力を入れなければ、きっと必要なことだけが身体に残る。

2017読了124
『ぼのぼの名言集(上)』(いがらしみきお 竹書房新書)
2017読了125
『ぼのぼの名言集(下)』(いがらしみきお 竹書房新書)





 パート2~自然も一緒編~


春の一番いいところは
春が来ることだ
(シマリス)


欠けている方が
おもしろい
(アライグマ)


花も鳥も
風も月も
移り変わる
ところが
おもしろいのさ
(スナドリネコ)


誰も見ていない
暗闇の中でさえ
ちゃんと石は下に
落ちるんだぞ
(アライグマ)


空は高かろうが
えじゃないか
地面にゃちゃんと
花もある
(アライグマ父)




名言ハンター①~暮らしを受けとめる

2017年12月15日 | 読書
 「ぼのぼの」の本はこの秋に初めて知り、少しはまってしまった。
 「名言」を集めた新書まで発刊されていて、「おおぅ、これは何だ。相田みつをよりいいぞ」と言ったとか言わないとか……

 

2017読了124
 『ぼのぼの名言集(上)』(いがらしみきお 竹書房新書)
2017読了125
 『ぼのぼの名言集(下)』(いがらしみきお 竹書房新書)


 特に気に入った句を抜き書きしてみる。何かのお役に立てれば。

 パート1~暮らしの受けとめ編~

不自然なことを
やるから親子に
なれるんだよ
(子持ちリス)


誰かといっしょにあるくのは
たいへんだね
ぶつからないように
はなれないように
(アライグマ)


何か探すんだったら
道をまちがえちゃあいけないよ
ひとつでもまちがえると
もう見つからないよ
でもまちがってもだいじょうぶ
別なものが見つかるから
(ぼのぼの)


こういう風にどんどん
増えるものって
あるだろ
そういうのは新しくなる
のと同じじゃない
かな
(ボージャンさん)


あたたかいものが
一番のごちそうだね。
毎日あたたかいものを食べられたら
とても幸せだろう
(ぼのぼの)


 人を支えていく物事はたくさんある。物理的に多くのことを頼る乳幼児や病人を除けば、結局のところ「他からの働きかけ」に対して、自分がどう感じ、どう動くかによって、安定の加減が決まってくる。受けとめる自分のフィルターやレンズを掃除し磨いておくと、ずいぶん違うような気がする。

王道が引き寄せる決断と結果

2017年12月14日 | 雑記帳
 リオオリンピック、男子陸上競技400Mリレーの話である。関心が高い人はすでに知っている事かもしれない。先日送付されてきたある冊子にオリンピック強化コーチである苅部俊二氏のインタビュー記事が載っていた。日本チームのハイライトともいえる、あのリレーの件が語られていて、その事実にううむと唸った。


 (小学5年はこの程度)

 報道されていることに「予選と決勝の間に作戦修正」がある。具体的にはこうだったという。予選記録が37秒68。これは通過順位2位だが、他国の選手温存を考えるとメダルを獲れない可能性が高いと判断した。確かに決勝記録を今見ても、米国の失格がなければ予選タイムを出しても4位に留まった結果となる。


 そこで苅部コーチは選手たちに選択を迫る。「無難に4位か5位をねらうか、それとも惨敗覚悟で攻めるか」。その重要な決断を選手たち自身に任せたのだ。「士気を高める」ために、コーチとして心がけていることを口にした。「予想どおり」に、選手たちは後者を選ぶ。そこで走り出しのタイミングのマークが変えられた。


 2走と3走の間を7㎝遠く、そして3走と4走の間を14㎝遠くにマークを置くことに決めた。ただそれは「事前練習なし」。それでもクリアできたことが培った力なのだ。今までの練習と検討の積み重ねであることは言うまでもない。結果として、決勝で36秒60の記録で走り、その0.08秒の短縮がメダルを引き寄せた。


 リレー競技が日本人に合うことは、よく語られる。それは「個の力を結集させて、より大きな成果を挙げる」ことに気質があうからだ。封建的な縦社会でも可能にも見えるが、今の時代、上意下達的方法では限界がある。そう考えると苅部氏が語る「教えすぎない」「個の力の把握」を徹底する指導法が今、王道と判る。

欲しがらない怖さ

2017年12月13日 | 読書
 「欲望」の語意は「不足を感じてこれを充足させようと望むこと。また、その心」である。「ほしがること」の前提は不足や不満であるから、『低欲望』とは個人にとって望ましいのではないか。そんな思いが浮かぶ。ただ、その状態が、今風に言えば「持続可能」なのかどうか。その果てには、どんな明日があるのか。



2017読了123
 『低欲望社会』(大前研一 小学館新書)


 著者は、書名である「低欲望社会」を批判しその改善を目指してこの新書を出した。副題は「大志なき時代の新・国富論」。正直「難しい」本だ。そして「怖い」本でもある。文庫『質問する力』を初め、いくらか本や雑誌論文を読んではいるが、今まで以上の迫力、ズバッと言い切るパワーに少し圧倒されて読了した。


 「難しい」のは、アベノミクス等の政策を酷評、批判する経済理論内容もある。ただ、それ以上に読者である私たちが、その政策に流されて佇んでいる状況の改善を促されても、踏み出すための決断事項があまりに多い、抵抗も予想される「現実」が見えるためだ。著者が「心理を和ませよ」と強調する訳もそこにある。


 「怖い」のは、ずっと以前から喧伝されている国の借金漬け状態を繰り返し語るからである。そこからの脱出条件をまたズバリと指摘されることは、頭で分かっていても、やはり絶句だ。「戦争勃発」か「歳出40%オフ」か「消費税20%」か。そして最終的にはそうでない時のハイパーインフレ。想像したくもない未来だ。


 危機的状況の到来を思い煩うことは益々「低欲望社会」につながり、国を支えていく若者を「内向き・下向き・後ろ向き」にするかもしれない。そこが一番の問題とも言える。同質的社会の居心地の良さの果てに何が待っているか。自分たち世代がどうあれ、異質性・多様性との折り合いに成長を見つけねばならない。

「北」はキタけど背を向けて…

2017年12月12日 | 教育ノート
 思わず「キターーーーッ」と叫びそう(笑)。何の因果か、北に住む私たちが暴風雪の日に「今年の漢字」が「北」に決まった。別に予想もしていなかったが、その内訳を見るとなるほどね、という感じがする。挙げられた理由をみると、キビシイ・ツメタイ系が多いようだ。語自体が放つイメージ通りと言ってもいい。



 「」を手元にある辞書で調べてみる。5つ開いてみたが意外にあっさりしていて「四方の一つ」である他、地名や姓名などに留まっている。一つだけ明鏡がこんな意味を書いている。「北極点に向かう方向」…定義的な解釈とでも言えばいいか。その説明は、厳しさや冷たさが感じられるので個人的なベストとしよう。


 全校集会などで「漢字の話」をするのが定番の一つだったが、この「北」は絶好のネタだった。それは象形文字や会意文字のでき方として、人間の身体を使う例がいくつかあるが、該当するのである。大体の流れを言えば、一人の子を使って、「大」や「立」という漢字の成り立ち(体を広げさせて)を説明してから……


 「二人の体を使って出来た漢字もあります」と言い、形をとらせクイズにする。それは「」と「」。(二人がどんな姿勢をとるか、想像できるだろう)。簡単な図と正解の漢字を用意しておいて示す。そして次に二人で「」という形をとってもらう。ステージ上でやらせるので、演ずる子どもたちもニコニコだった。

 
 「」の形を左右対称に配置する。「北」とは「左と右の両人が背を向けてそむいたさまを表す」会意文字である。「背」の漢字に「北」があるのもそこに由来する。背を向ける寒い方角も表し、背中を向けて逃げることを「敗北」とも言う。ただ、核心の「北」の問題(我ながら上手い)には背を向けられないよ、と戒める。