すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「IKIGAI」を読む生きがい・壱

2018年08月10日 | 読書
 中学生だったはずだから言葉は知っていただろう。だからその歌謡曲の題名にはちょっとした違和感があった。1970年、由紀さおりが「生きがい」という曲を歌った。別れた恋人を今も思っているというだけの詞なのだが、作詞家山上路夫はそう表現したのだ。これは未練ではなく、思い続ける些細な毎日の糧であると。


2018読了78
 『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』
 (茂木健一郎  恩蔵絢子/訳 新潮社)



 かの茂木健一郎がロンドンの出版社からオファーがあり、英語で執筆した本である。30か国、28言語で出版されるという。局所的かもしれないが、日本ブームの中で食べ物や歴史的な文化だけでなく、価値観や生活形態への関心も高まっている。いわば外国人向けに書かれたこの文章と着眼点は、非常に面白かった。


 読み始めてふと得心したことがあった。定年退職後に思うのも変だが、何故自分が学校教員を続けてこられたか、である。それはきっと「小さな喜び」があったから、学校という場所はそれを得やすかったから、に違いない。子どもと接し、働きかけていく仕事には「小さな喜び」につながる実に多くの要素を含む。


 この本は「すきやばし次郎」の料理人小野二郎の例から始まる。名誉と輝きに満ちた現在の成功を得るまでの追求や忍耐を強調するのではなく「『生きがい』という最も日本的な精神性を磨いていった」ことに焦点を当てる。それは仕事の手間についてはもちろん、日常の些細な物事への対応、習慣などに関わる内容だ。


 社会的な評価に関わりなく、自分に頑張る力や生きる目的を与えるものの探し方に、日本人は長けている、有利な環境に恵まれていると言っていいかもしれない。ふだんの何気ない事、当たり前に接してきた事の特殊性が、著者の着眼で鮮やかに存在感が増した。農に支えられてきた歴史、質実奨励を促した習慣等々。

「事実の素性」を想像する

2018年08月09日 | 読書
 『テレビの嘘を見破る』の著者今野勉氏が秋田出身だとは知らなかった。この方はあの長野五輪の開・閉会式プロデューサーも務めている。
 さて、この新書で考えるべきことはいくつかあり、前回書き残せなかった下記のことが特に印象強く、メモしておきたい。

Volume115
 「厳しく問われはじめた事実の素性」


 「事実」を扱うドキュメンタリーには、作品に取り込まれる事実もあれば、そうでないものもある。
 
 事実は一つではないという、もはや慣用的な言いまわしを今野氏は現場に照らし合わせて次のように分割してみせた。


・カメラの前で自然現象のように起こる事実

・意味を担って撮られ、選ばれた事実

・撮影のプロセスの記録としての事実

・典型としての事実

・カメラが発見する未知なるものとしての事実

・撮影という行為が引きおこしたもう一つの事実



 おそらく現在のテレビ界は、おそろしくコントロールされたものが大きいだろう。
 バラエティっぽい旅番組や食番組が全盛なのは、親近感や意外性への近道と考えているに違いないが、そこに映し出されたものが「演技」ではなかったとしても、上のような背景があることは、心に留めておきたい。

 不祥事報道などにしても、画面に映し出されることを鵜呑みにするのではなく、どういう「素性」なのか、想像してみることが大事だ。


 私達を騙そうとしている輩は、様々な層になって存在している。


雑草たちよ、甲子園でオガレ

2018年08月08日 | 雑記帳
 真面目な甲子園ファンではない。しかし御多分に洩れず地元チームは応援する。ただ出場する高校によって、思い入れの強さの違いがあることは認めよう。金足農はやはり県内出身者のみによって構成されているし、今までの歴史からして期待度は大きい。本県では金足農と聞いて野球を連想する人が圧倒的ではないか。


 自分もちょうど5年前に、スポーツ雑誌の記事を見て少し因縁めいたようなことを記している→「甲子園と繋がる細い糸のような」。あの時の水沢投手もなかなかだったが、今年はさらに注目を浴びている投手である。勝ち進む大会はやはり好投手活躍が基盤にあるし、可能性を感じる。と、テレビ前で開始を待った。


 夏の甲子園の本県代表は、平成10年からなんと13年連続で初戦敗退しているので、なんとなく負けパターンが頭にある。個人的には、先取点をとられる時その取られ方があっさりしている。先行していても相手が反撃に出ると突き放しの攻めができない。この二つだ。従って、試合冒頭と終盤は注視して観戦した。


 この二つのポイントクリアで、勝ちをものにした!世間的には評判の高い吉田投手の14奪三振が話題になるだろうし、それは認めざるを得ない。ただ初めのスクイズ失敗を引き摺らずに、その後の送り、スクイズを確実に決めたところにチーム力の高さをみた。相手校より実力が上回っていたと堂々と言えるだろう。


 今後にも夢が膨らむ。隣県岩手で監督をしている元巨人・中日の中尾孝義氏が吉田投手を「桑田二世」と評したという。球速はもちろん、投球のテンポの速さ、牽制球やフィールディングなどセンスを感じる。従って、今試合で時折みせた不安定な球筋を、いかに抑えられるかが焦点か。強豪校との対戦が楽しみだ。

テレビ世代の参考書

2018年08月07日 | 読書
 スマホばかり見てると…と今の子は言われ、一昔前はゲームばかりしていると…と言われ、大昔はテレビばかり見ていると…と言われ、似たように時代は流れていくものだ。肝心なのは、その使い方やつきあい方である。そのためには時々離れること。それからその対象の内側を覗くこと。そう考える、我テレビ世代。


2018読了76
 『テレビじゃ言えない』(ビートたけし 小学館新書)


 この頃、雑誌や週刊誌をめったに買わなくなったので、たまには「毒舌」に触れるのもいいなと思い購読した。

 放送禁止、自主規制の渦の中でオモシロクナイ思いをしているビートたけしのうっぱん晴らしの場のようだ。
 「本来、オイラのような芸人の漫才やコントなんていうのは、『表現の自由』なんてもので守られるようなエラいもんじゃない、もっと低~いところにあるものなんだ。」という視線に、どこまでもしなり強くメディアで生きるたけしの矜持がある。

 だから、様々なことの本質がよく見渡せるのだろう。何事も自分をどこに置くか、それが思考の源になる。


2018読了77
 『テレビの嘘を見破る』(今野 勉  新潮新書)


 昨年の『文藝別冊』に是枝裕和特集があり、その中に収められている対談相手が、この新書の著者である。テレビ界ではずいぶんと著名な方だ。

 ドキュメンタリーを取り上げて、著名な作品や実際の番組作りに迫っている。何年かおきに必ず話題にされる「やらせ」について、その本質を考えさせてくれる内容だ。
 視聴者の1人としては、「やらせ」と聞くと視聴率を稼ぎたい、売れるようにしたいという作り手側の倫理観を批判しがちだが、それはいかに単純で浅薄かが気づかされる。

 「事実とは何か」「映像とは何か」「再現、やらせとは」様々なことについて認識が深まった。
 もう15年くらい前の発刊だが貴重な新書だ。是枝発言も興味深かった。

落語のマクラで凌ぐ

2018年08月06日 | 雑記帳
 一雨来たなと思ったら、隣県では豪雨被害も出ていて、その極端さに呆れてしまう。また猛暑は中部地方など続いているようで、さらにまた台風接近もあったりする。以前から軽口を叩いていたが、正直「ほんとにオリンピックなんて開いていいの、この時期に」と考えるのは私だけではないはず。リスクだらけだ。


 一庶民が考えても詮無い事である。ここは、下々の者らしく面白おかしく、いや「集中しない思考」を前面に出して、くすっと笑えるようなことを思い出してみようと…先月、鈴本演芸場に行ったときに大笑いした落語のマクラをメモする。東京が39℃を記録した日、その暑さをネタにしたのは、権太楼白酒でした。


 「どうにも暑くて、池袋演芸場を出たところにある帽子屋に入って、ストローハットをね、買おうと思ったのよ。2700円ばかりの手頃なのがあったので、それに決めてそのまま被っていこうと思い、値札がついていたから『その値段、切ってよ』ってお願いしたらね、そこの主人が『じゃあ、2000円!で』と言うのよ。千円札を3枚出していたから、驚いて『えっ、2000円?』と言ったらね、『んん、じゃ1000円で!』と言うんだからねえ…、皆さん、あの帽子屋使ってくださいよ」


 「この時期ね、あの皇居の周りなんかを走っている人を見かけますけれど、…あれは、いったい何ですか、あの人たちは何してるんですかね。身体を鍛えているということはないでしょ。この暑さで。あれは、何かの新しい罰ですかね。ブラック企業の〇〇〇あたりが、ヤレーッなんてね」


 自称「隠居見習い」として(笑)、こういう語り口は、思い出してみるだけで価値がある。だんだんと「ダマシダマシ」の効用を感じるようになってきたし、今夏だと何より「凌ぐ」の大切さを強調したい。「凌ぐ」は明鏡国語辞典によると(満足のいかない方法で)と意味付けられるが、その道に光が見えることもある。

脱「集中力信仰」日常編

2018年08月05日 | 読書
 『集中力はいらない』(森博嗣 SB新書)を糧として、もう少し。甲子園が始まった。「本気の夏、100回目」が今大会のキャッチフレーズということだ。今日の選手宣誓の締め括りにも使われていた。昨日からの流れで考えれば、「本気」はどうも「集中力」と似通っている。そういうイメージが付きやすい言葉だろう。


 「本気」つまり「まじめな心」(広辞苑)が求める価値は大切に違いない。同時に人間はいつも真面目ではいられない。ずっと本気だったら疲れてしまう、いや身体上、それは絶対無理であるとみんな知っている。つまり、緊張と弛緩、集中と分散を繰り返して生きているはず。とすると要は「けじめ」ということか。


 いや、その「けじめ」という言葉も現状では何か、最初に集中ありきの印象をぬぐい切れない。そうではなく初めから「分散力」を鍛えようと考えてはどうか。頭脳も身体も一つである人間は、実は細かく見れば一つのことしかできない。つまり集中力など初めから備わっていて、その持続だけを求められているのだ。


 著者は、人間の頭脳が生命の維持以外の様々なことを考えるようになった歴史に言及する。「目の前にあるものだけではなく、ここにないもの、別人のこと、未来のことなどを想像することができる」と書く。これはまさに分散する力ではないか。そして分担、協力することを覚え集団を形成し、余裕を生み出してきた。


 社会の画一化に不満や不安を感じている人は多いのではないか。それはある面で「集中力信仰」に支えられている。連日報道される災害、不祥事などに対する反応も何かに集中していく傾向を見せる。そして異なる見解を排除する様相は顕著だ。何が大事なことなのか見極めていくために、もっと分散を意識したい。

脱「集中力信仰」基本編

2018年08月05日 | 読書
 うすうす気づいていたことだ。学級担任の頃「集中」という言葉は毎日のように使っていたし、集中力と持続力の二つを正面から据えたこともある。しかし、それは何の目的、どういう意味を持つかとあまり考えてこなかった。自分もまたそんなふうに教育されたことも関わるだろう。もう一歩認識を深めるべきだった。


2018読了75
 『集中力はいらない』(森博嗣 SB新書)



 「集中とは『機械のように働く』こと」という一文は、ある意味多くの人が納得するのではないか。脇目もふらず、一心に目的に向かってねらいを達成しようとするのだから、人間が機械を作ったことと合致している。社会がそのことを要求してきたわけは、やはり戦争勝利や効率的生産のためと言ってもいいだろう。


 もちろん、著者は能力としての集中力を全否定しているわけではない。しかし「要求」される集中とは、やはり画一的であり、やはり個々のやり方は抑制されているのが現状であろう。発達段階に応じた心理学的なアプローチとして幼少期に培うべき能力だと考えるが、その範囲限定や適用場面を十分考えるべきだ。


 発想という点で教師側から見て集中に欠ける子が優れていた事例を思い出す。また勤務した職場の中に、そういった要素を強く見出せる同僚もいた。集中することは確かに必要不可欠ではある。しかしそういう点だけが素晴らしいと思い込むことは危険であるし、他の能力、資質等に影響していることに目を向けたい。


 結論の一つは「集中は、思考停止を促す」ことの危険性を自覚すること。ただ私達は例えばWカップでも甲子園大会でも、人が集中する姿に感心するし、感動する。それは否定できない。だからそれらは極めて一部分であることを、もう一つの目で冷静に捉えたい。著者が最終章を締め括った下記の文章に深く首肯する。

 「優れた人格は、できるだけ沢山の人の人格を尊重しようとする。そのために必要なのは、集中することではなく、分散し、発散する視点によって、優しく周囲から包み込むように考えることなのである。」

失敗の数だけカットバン

2018年08月04日 | 読書
 著者が「失敗学」の権威であることは知っていた。ビジネス雑誌などで文章を読んだこともある。この新書を読む前、ふと「失敗の反対語は?」と呆けた問いが浮かんだ。「成功」と思い出すまで考えたのは、「失う」「敗れる」の逆だから「得勝」…そんな熟語はない。だが、失敗の対語範囲は、結構大きくはないか。


2018読了74
 『回復力 失敗からの復活』(畑村洋太郎 講談社現代新書)



 何を失敗と考えるかは、成功の基準を何に求めるかで大きく変わる。自分が関わってきた初等教育の場で、「成功」とは何かを考えること自体難しい。判断する内容はきっと何層にも分かれるだろうし、そして真の意味で客観視が困難とも言える。現状のみを細分化して評価することが精一杯で、その範囲の話に留まる。


 この著には、失敗に負けないために何をしておくべきか、失敗した時どんな方法があるか、どんな対処がいいのかなど、かなり当事者目線に立って書かれてある。だから「逃げる」「他人のせいにする」なども、自分が「潰れない」ための手立てとなると明記している。そこには人間の「回復」する力を信ずる心がある。


 その心構えは様々な場合に当てはまる。人間への深い信頼がベースにあるからだ。だから、ある会社の「隠蔽」工作を、「インチキのように見えますが、本質的な解決策を実行できないうちに形式的な処理を行うことを防止した、真の組織運営をした例」と紹介してある。それは「絶対基準」に照らしているからだろう。


 その絶対基準を「結局は『お天道様に向かって堂々と話せるかどうか』ということではないか」としたことに深く頷いてしまう。いかなる場合も本質、原点を忘れないこと。現役時代のあれこれを思い出すが、心の中で照らし合わせても恥はないなと思い嬉しかった。いやもしかしたら、忘れているのかもしれないが…。


 実はこの新書を中古書店で求めたのだが、手にとってパラパラとめくった時、何か挟まっていることに気づいた。しおりやメモ書きということはたまに合ったが、今回挟まっていたのは、なんとカットバン。あれええ「回復」のためにはやはり手当が必要ということか、絆創膏は何かの象徴、そういう役割は大事だ。

落穂から可塑性復活?

2018年08月03日 | 読書
 ここ10年ほど、ほんのメモ程度の日記をどうにか(まとめ書きもありつつ)継続できている。それ以前は全く三日坊主の典型。数日前からその書き散らしたノート等を処分していたら、結構な「キニナルキ」も残っている。身辺雑記は用なしだがこちらはピックアップして転記する。


 「物質的なゴールの見定め」(倉本聰)


 「悪貨に駆逐される良貨は、実は良貨の偽者である。それの存在すること自体で悪貨を駆逐するもの。それが良貨の本物である」(むのたけじ)


 「正解を求める態度は、複眼的思考とは対極にある考え方」(苅谷剛彦)


 「柔らかさとは、変化の可能性の豊かなこと」(野口三千三)


 「言ってもどうにもならないことは言わない」(某氏・元同僚)


 「縛解一如(ばっかいいちにょ)」(木下竹次)
 (「縛るのと解くのは同じ」ということ。例えば、帯は身体を束縛する。しかし帯がなくては腹力がなくて活動自在にならぬことがある…)


 「大切なのは『心の変身』」(藤岡 弘。)


 「たまたま(安打を)200本を超えて打てたことと、計画的に200本を超えることには、大きな違いがある」(イチロー)


 これらをメモした頃はまだ40代後半。ネットのプロバイダー変更をし、「キニナルキ」というページの更新が出来なくなったから、日記にメモしていたのだろう。そのノートにつけた題名が「可塑性の権利の行使」。池谷裕二の脳科学に影響された題付けだ。可塑性、残っているか。

真夏に「かるた」も乙なもの

2018年08月02日 | 読書
 「まったく世の中のためにはならないけれど、ときどき向こうから勝手に吹き出してくる、あまり知的とは言いがたい種類のへんてこな何か」を「かるた」形式で表わした一冊だけれど、数多いるだろうファンの方々はどう読まれるのだろう。村上春樹小説にやや苦手意識のある自分にとっては、やはり難しかった。


2018読了73
 『村上かるた うさぎおいしーフランス人』(村上春樹 文藝春秋)



 難しいと感じるのは、なんとなく、単に「ワハハハ」とか「クスッ」とかできないイメージを抱いているからか。へんてこな何かに意味付けがあったり、裏の裏があったりするのですよお…ハルキストなら気づくはず、という人が必ず居るだろう…と、これはコンプレックスか。いっそもっとシュールならいいのに。


 「犬棒かるた」の中味は日本人ならほとんど耳にしている。そして大人の多くはその意味も知っている。それに比べたら「村上かるた」を知る人は圧倒的少数だろうが、その意味を自分のものにしたら、ちょっと世界は拡がるかもしれない。解説文まで紹介はできないが、私の気に入った読み札をいくつか挙げてみよう。


「き」キミがよくてもシロミがまずけりゃ
「ほ」ホットケーキのおかわりも三度まで
「ろ」ローリング・ストーンズに、大事なことはみんな教わった
「ひ」大船に乗ったつもりが、平塚で降ろされる
「な」何回読んでも難解だ
「ふ」フロイトの夢は夜開く
「ま」まったく不幸中のわいわいだった


 とまあこのように「おふざけ」とみるか「揶揄」とみるか、はたまた「ギャグ」とみるか。でもこれ使えそうだな、と明石家さんまが手に書く真似をしそうなものもある。作り方の一部パターンも見えた。では拙句を披露する。「阿呆は寝て待っている」「マツモトキヨシのどん底を知りたい」「さんざん、オールスタッフ