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桜と絵本と豆乳と

なかみのある「なかみ」を…

2018年08月30日 | 読書
 この著には見覚えがあった。ブログに感想は残していないが、発刊された頃(99年)読んでいるはずだ。短歌作品集ではなく、言葉と歌に関するエッセイである。「ダンボの耳から」という前章は、当時の日本語の使い方などについて言語学者とはまた違う感性でとらえていることが新鮮だった。今読んでも納得できる。



2018読了83
 『言葉の虫めがね』(俵万智  角川書店)

 特に「彼氏とカレシ――どっちが本命?」は興味深い。アクセントの平板化が話題である。平板化はもう普通で、取り上げることが珍しいほどだ。当時典型だった「彼氏」や「かなり」という語は、アクセントによって使い分けられていた。語頭を強める言い方と平板化で使い分けする感覚は、若者からしか発しない。


 「パソコン通信」という言い方はもはや懐かしい。しかしコミュニケーション手段の進歩の位置づけとしては、かなり現在形に近づいた時点の話だ。ここでは「なかみ」と「そとみ」という考え方が提起される。人間同士のやりとりで、結局PC等で文字や画像を通して伝わるのは、「なかみ」ということを再認識する。


 画像から当然相手の顔かたちや声も知ることができるが、機器を通している意味では、真の実像ではない。「そとみ」のようで結局他者に伝わるのは虚実ない交ぜの「なかみ」と言ってよくないか。「書き言葉」主体の自分としては「日本語の、足腰が鍛えられなくては」に込められた著者の希いを、重く受け止めたい。


 後半は「言葉の味」と題された歌にまつわるエッセイ。万葉集から現代歌人の作品まで様々な切り口で語られる。歌集など読む機会が少ないので、歌人に対する興味を持つきっかけとなった。著者の師匠とも言うべき佐々木幸綱の歌が久々に心に響いた。「昨夜の酒残れる身体責めながらまるで人生のごときジョギング」。