すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

覚悟の揺らぎを自覚する

2018年08月14日 | 雑記帳
 先週末、野口芳宏先生が当町においでになったので、現役の先生方に混じり講座を拝聴した。模擬授業は俳句の読解。教材として取り上げられた一つに、先生が見つけられた素人の句があった。「まだ恋も挫折も知らぬ水着かな」。話者の場所を問う発問から始まり、いつものように楽しく深い、充実した時間となった。


 パッと思い浮かべたのは、海辺の風景であった。小学生中学年くらいの女児を見つめる父親の視点かな、というイメージを持った。しかし結句に「水着」がある以上、モノにフォーカスするのが常道であると言われれば、確かにと頷かざるを得ない。どうしても「人」に囚われる我が癖が、風情に乏しいのは否めない。



 頓珍漢な妄想にとらわれる自分はさておき、この「水着」が男女いずれのものかを確かめた折、ある参加者が男児のものと予想したことが興味深かった。もちろん感覚として女児だろうと解釈される。その話題が、会終了後の懇親会の居酒屋で出た。そういう雰囲気は実に国語人らしくていい時間を過ごせた気がする。


 早い時点からの美酒で酔いが回ったせいもあり、LGBTの話題等を例に「そういう解釈もあり得る世の中になった」と自論を話すと、隣席の野口先生に首を傾げられた。それは文学的な感覚、いわば美に関わる問題なのだろう。しかし、男児という解が合理的解釈として全く成立しないわけではない。何が問題か。


 きっと「普通」と「特別」の区別が横たわっている。思想や価値観の問題なのだ。リベラルとパターナルという方向性の持ち方と言っていいかもしれない。社会全体として「幅」が拡がりつつあることは自明でありながら、その向き合い方については、個の見定めや覚悟が揺らいでいる。改めて自覚する夏となった。