すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

旅の目を持つこと

2018年08月21日 | 読書
 こんな問いがある。「旅と旅行の違いは?」。旅はよく人生に喩えられたりもするし、かなり広範囲な意味を持つ。旅行は広辞苑にあるように「おもに観光・慰安などの目的」と限定されるようだ。まあ自分の場合は旅行としか言えないな、と思いつつも「旅情」「旅心」はどこかで感じる。目的の有無とは別のようだ。


2018読了80
 『旅だから出逢えた言葉』(伊集院静 小学館文庫)




 著者が主に仕事上で訪れた地(多いのは欧州)を振り返りながら、「言葉」を拾い集めている。単なる紀行文とは言い難いが、この作家にはやはり「旅」が似合い旅情を感じさせるのは、無頼な魂の持ち主というイメージからか。しかしその無頼は、有名無名を問わず多くの人の言葉や援助に支えられて見守られている。


 絵画などへの造詣も深いし、野球、ゴルフなどのスポーツにも詳しい。専門的な目を持つことは、旅にとってプラスになることを思い知らされる。本物に逢いに行く旅、本物が生まれる場や環境などを見つめる旅…漠然とそれらを受け止めるのではなく、知識を持ち凝視することは醍醐味だ。自分は既に遅いのだが…。


 アンリ・マティスという画家が、若い人たちに美術を教えているときに言って聞かせた言葉が紹介されている。「あなたの目前にあるすべての事物を、あたかも始めて見るかのように、それも幼い子供の視線で見つめること、それがもっとも大切なことです」。そういう感性の取り戻し方こそ、意識して続けるべきだろう。


 「旅だから出逢えた」とは、ふだんなら見過ごしてしまう言葉が旅の景色に触れ、立ち上がってくるという意味だ。著者が考えていることは、月並みだが伝統、人間の滋味である気がする。小泉信三の有名な言葉を冒頭にあることがその証左ではないか。「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」。旅で見たいものが定まる。

風に流されず、風流を

2018年08月19日 | 雑記帳
 先日「風情」という言葉を使ったら、結局それは何かと気になり始めた。再放送されていたNHKBS「京都人の愉しみ」で、京都人は梅が好きで桜以上に風情を感じるという場面にも引っかかっていた。辞書には「風雅・風流、おもむき・あじわい・情趣」等とあるが、今一つはっきりしない語だ。「」が根なのか。


 「風(ふう)」とはふだん意識しないが、ビックワードだ。辞書では日本国語大辞典の記述がやはり詳しい。「①ある範囲での共通の様式、方法など」「②人の姿や物の形」「③出来事、情勢など」「④世間的な体裁、評判など」。何か人間世界のたいていのことが、この「風」一つで表わせる。私たちは風の中で生きている。



 そして「規律・慣習」に関わる意味と、対照的である意味も同時に持つ。新明解には次の記述がある。「それに接する者を自ら惹きつける独特の魅力」。さらに「生活者・観光者に精神的影響を与える者と考えられる、山川草木のたたずまい」という解説も載っているではないか。それに関わる「風〇」の熟語は多い。


 そのまま「風流」の項を開くと、これがまたユニークである。他の辞典では「落ち着いた趣」などと同義反復のような記述に留まるが、そこはさすが新明解サン。「①利害打算を超えた世界の事柄に心の交流や安堵が具現し、その間だけ、煩わしい俗世間的交渉から解放されて余裕を楽しむこと(様子)」。お見事である。


 「風流な趣味をお持ちで…」は、俗世間ではやや皮肉めいた言い方に聞こえる。それだけ「利害打算」に満ちていることが日常的だからだ。しかし、誰しもが欲する心の余裕に目を向ければ、高級ではなくとも風流な世界に触れることこそ意識するべきだ。それも頻繁に継続的に!冷たい風に流されるだけではいけない。

アルルカンに試される

2018年08月18日 | 読書
 「涼介は気を取り直し、オールを握った。水を斬る度に、夜光虫が光った。船の航跡が、無数の命の炎によって仄白く輝いている。」小説の結びの文章として典型的な表現と言えるかもしれない。読者いや少なくとも自分は、こういう情景への共感を呼び起こしたり、より震わせたりしたくて読むなあ、と頁を閉じた。



2018読了79
 『ピンザの島』(ドリアン助川 ポプラ文庫)

 久しぶりのドリアン作品。小説は名作『あん』以来かな。「ピンザ」とは、宮古島におけるやぎの呼称という。舞台は架空だがいずれ南方の小島である。ある目的を持ち島へやってきた主人公涼介の、いわば「生還」の物語だ。それは物理的に厳しい自然、現実をくぐる抜けることと、人生の浮き沈みがリンクしている。


 扉に記された印象的な詞がある。

 しななければ いきる
 しんでも いきる
 そう あわてるない
 あめふらしは うみのそこ
 いろとりどりのあんぶれら

      ―――遠い島のアルルカン



 この言い伝えのような詞の意味はなんとなくわかるが、「アルルカン」とは何を指すのか知らなかった。フランス語で「道化師」という意味だが、ピエロとは違う。アルルカンはピエロよりずっと悪賢く、「日常を引っかき回す」役割を持っているらしい。そんな目でこの詞を読むと、ずいぶん怖い印象がついてくるが…。


 そうなのだ。遠い島であっても大都会であっても、アルルカンはきっと傍にいる。そして日常を引っかき回す。思った通りにならないことなんて当たり前だ。しかし「そう あわてるない」と、もう一つの冷静な目で見ている。似たような事象であっても心身の処し方によって見え方は違い、行く手の希望も大きく違う。

リアルを伝えるための演出

2018年08月17日 | 雑記帳
 昨日はあるイベントで、写真家の本間さんからお話を聞き、少し実技のポイントなども教えていただいた。カメラは趣味といってもいいが、何年やっても技術向上は果たせず(結局、機能の進歩に頼りきり)足踏み状態なので、一歩脱け出したいと思う。しかし要は撮ることを楽しめればそれでOKと改めて得心した。


 カメラに品質の差があるように、とられた写真にも質の違いは当然ある。しかし「撮る」という行為だけをみれば、そこにプロもアマも大人も子どもも原点は同じだ。つまりファインダーかモニターを覗き、シャッターをきる。心地よい、心熱い景色をモノ化せよ。他者に伝えるという前に、自分の心が指を動かす。


 演習で、部屋の中のモノをテーマに撮った一枚。窓外に意外性を求めて(笑)

 SNS全盛期で画像・映像は氾濫しているのだが、撮る行為をそれだけ楽しいと感じている人が多いのだろうと、好意的にはそう解釈できる。ただコミュニケーション手段として使える気軽さは、あまり量が増えるとかえって重くなったり、煩わしくなったりするものだ。写真は、やはり空間的、静的な媒体だと思う。


 さて、「主役・たし算・ひき算」というキーワードから始まった講座では、ナルホドと思うことがいくつもあった。今まで無造作だった「」「」ということについても考えさせられた。また逆光の生かし方、簡易なレフ板の使い方などちょっとした知識があると、ずいぶんと作品に差が出る。やはり写真も演出なのだ。


 目の前のリアルを伝えるため、その感覚が見る人(自分も含めて)に届くためには技術が必要だ。どの世界にも共通するか。リアルを伝えるための工夫?として紹介されたハミダシ情報にはアララ!と思わせられた。「宿の食事の写真を撮影する場合、その食事にはほとんど味がついていない。」そうか、撮影には邪魔だ。

「正しい」は、その先にある

2018年08月16日 | 雑記帳
 町成人式の記念講演を聴き始めて3年目。密かに(笑)講演ウォッチャーを自称する者として、今回もメモを残しておかねばなるまい。まず会場に行き、すぐ目に入った演題に、おっと思った。『二つの正しい生き方』とある。新成人に向けた直球のような題名に思えるが、ひっかかる。そして興味深い。「正しい」の一言が…。


 講師は、株式会社あきた総研の代表取締役須田紘彬氏。本町の式では30代講師が続いている。当然だろう。キャリア十分の年配者よりバリバリの現役世代の話はエネルギーがあるし、似た内容でも伝わり方は有効だ。年齢が近い親近感に加えて機器使用にも長けている。今回もプロジェクターをスマホで操作していた。



 さて、『二つの正しい生き方』である。「二つの生き方」として「計画的な生き方」「偶然を大切にする生き方」を挙げた。講師は自ら前者であったことを、それまでの学歴、職歴等を振り返りながら語った。起業を目的として「逆算して考える」生き方であったことを認め、逆にもう一つの生き方の価値を強調した。


 それは講師の今の仕事姿勢と重なるようだ。「偶然を大切にする生き方」のポイントとして、次の五つを示す。「①好奇心 ②持続性 ③楽観性 ④柔軟性 ⑤冒険心」。それらは「計画的偶発性」を引き寄せるために重要視したいことである。結局、目の前の事象や自らの興味関心に対してアクティブな動きが求められる。


 「二つの生き方」のどちらも「正しい」か、と問いを立てる。例えば前者をこれまでの正しさ、後者をこれからの正しさと方向付けることはできる。また、前者にも正しさがあり、後者にも正しさがあると、選択やバランスに置き換えることもできる。しかし「生き方」とはそれほど単純ではないとも言えるだろう。


 計画と偶然が背中合わせと知るには、もう少し歳月が必要か。キャリアの積み方について講師は「やりたいこと・できること・むいていること」の三つの中で、20代で増やしたいのは「できること」と語った。これはかなり昭和的にも聞こえるが、圧倒的事実だ。講師が冒頭に語ったのも「量が質を生む」ことだった。

あの春、語ったことを…

2018年08月15日 | 雑記帳
 町の成人式に列席した。長く町内に勤務したので、ほとんど毎年見覚えのある氏名が並ぶ名簿を頂く。もちろん担任としてではないが、それでも印象深く覚えている子も少なくない。今年の成人は、震災の年に卒業を迎えた者たちである。あの三月の卒業等をめぐる様々な出来事や思いは、今でも時々浮かんでくる。


 あれほど綿密に「式」の進行を検討したことはなかった。余震が続く中、行政からの指示等もあったし、式の前後、最中を問わず、いつ、どの程度の地震がきても戸惑うことなく判断が下せるように、何度も頭の中でシュミレーションした。防災、減災に向けた取組が一般化するなかで、原点はやはり危機意識にある。



 地震当日から四日後の卒業式では、どんなことを語ったか。式辞の中で直接的に震災に触れず、以前集会で紹介したある絵本を読んだ。それは『じぶん あなたへ9』というレイフ・クリスチャンソン(スウェーデン)の著した本当に小さな本だ。「考えたことがありますか じぶんにできることを」と、言葉は始まる。


 「目は 世界をしっかりと 見ることができる」と続き、耳、口、足…とそのはたらきについて述べ、「考えてみませんか じぶんにできることを」と結ばれる。一人の女の子が、家の内から窓を通して夜空を見ている場面が描かれている。あの頃考えねばならないことだった。今もまだ、考え続けねばならないことだ。


 もう一つ、祝賀会の代わりに開催された卒業生、父母らとの集まりで語った。新聞に寄せられた養老孟司の文章を引用し、「安全・安心な環境の中では本当の学ぶ態度は身につかない」という反語的表現とも取れる言い方で、今後の学びを激励した。あれから七年、実感を持って語った言葉は霧散していないか自問する。

覚悟の揺らぎを自覚する

2018年08月14日 | 雑記帳
 先週末、野口芳宏先生が当町においでになったので、現役の先生方に混じり講座を拝聴した。模擬授業は俳句の読解。教材として取り上げられた一つに、先生が見つけられた素人の句があった。「まだ恋も挫折も知らぬ水着かな」。話者の場所を問う発問から始まり、いつものように楽しく深い、充実した時間となった。


 パッと思い浮かべたのは、海辺の風景であった。小学生中学年くらいの女児を見つめる父親の視点かな、というイメージを持った。しかし結句に「水着」がある以上、モノにフォーカスするのが常道であると言われれば、確かにと頷かざるを得ない。どうしても「人」に囚われる我が癖が、風情に乏しいのは否めない。



 頓珍漢な妄想にとらわれる自分はさておき、この「水着」が男女いずれのものかを確かめた折、ある参加者が男児のものと予想したことが興味深かった。もちろん感覚として女児だろうと解釈される。その話題が、会終了後の懇親会の居酒屋で出た。そういう雰囲気は実に国語人らしくていい時間を過ごせた気がする。


 早い時点からの美酒で酔いが回ったせいもあり、LGBTの話題等を例に「そういう解釈もあり得る世の中になった」と自論を話すと、隣席の野口先生に首を傾げられた。それは文学的な感覚、いわば美に関わる問題なのだろう。しかし、男児という解が合理的解釈として全く成立しないわけではない。何が問題か。


 きっと「普通」と「特別」の区別が横たわっている。思想や価値観の問題なのだ。リベラルとパターナルという方向性の持ち方と言っていいかもしれない。社会全体として「幅」が拡がりつつあることは自明でありながら、その向き合い方については、個の見定めや覚悟が揺らいでいる。改めて自覚する夏となった。

「IKIGAI」を読む生きがい・了

2018年08月13日 | 読書
 この本に載せられているエピソードは本当に面白い。高価なフルーツ生産、相撲力士のキャリア、伊勢神宮、明治神宮の歴史、行きつけのバーの素晴らしさ。外国人向けに書かれたが、日本人であっても知識として一般的でない、気づかなかった内容も多いのではないか。その意味では日本自体を考える著とも言える。


2018読了78
 『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』
 (茂木健一郎  恩蔵絢子/訳  新潮社)



 最も印象深いエピソードに、皇室に仕える雅楽のことがある。特別な場合にしか耳にすることのない雅楽、その演奏の機会は皇居内では頻繁にあるというのだ。そして、そこに聴衆はいない。もちろん一つの職業として存在するが、その音楽、舞踊が高度なレベルで演じ続けられることに、深い精神性の神髄を見る。


 著者は「人生では、我々は時に、優先順位や価値の置き方を間違える」と書く。報酬や他からの評価に目を奪われがちな生き方を、時に振り返り「自分の幸福の第一の源」を自らの行為の中に見いだす姿勢を心がけたい。そのためにも、小さな喜びを感じられることを、小さく始めてみる「今、ここ」を意識してみる。


 さて歌謡曲の曲名から始まり、小野二郎、小さな喜び、この国の特殊な環境、こだわり、好奇心、マッカーサー、アニメ、宮崎駿、生きがいの五本柱、オノマトペ、宮沢賢治、持続可能性…キーを打つ指の趣くまま書き散らした。自分で読んでも独りよがりの感が強い。しかしこの行為自体にもわずかな喜びはある。


 読書メモや雑感のネットへのアップはある面自己顕示に違いないが、混沌とした状況の中では、表現をコントロールする篩いのような役割も果たしているだろう。書き留めるなかで、内省したり新たな気づきを得たりすることも少なくない。恣意的に始め、長期間となった。ささやかな「こだわり」は色づいているか。

「IKIGAI」を読む生きがい・参

2018年08月12日 | 読書
 この著では冒頭に、読者への覚え書きとして「<生きがい>の五本柱」を挙げている。「小さく始めること」「自分からの解放」「調和と持続可能性」「小さな喜び」そして「<今ここ>にいること」。それらに順番や序列はない。絶対的でもないと記している。自分の好奇心が引っかかる箇所から「小さく始め」ればよい。


2018読了78
 『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』
 (茂木健一郎  恩蔵絢子/訳  新潮社)



 「生きがい」につながる日本人の文化的特性の一つとして、「オノマトペ」を挙げていることが実に興味深かった。日本語はオノマトペが豊富で、特に「とんとん」「ぶらぶら」といったように同じ二音の繰り返しが目立つ。こうした表現は、いかに日本語が得意な外国人であっても完全に習得することは難しいと言う。


 「日本人は、経験の様々なニュアンスの違いを、さまざまな種類の感覚の質に注意して区別しているようだ」として「細かな感覚的ニュアンス」の重要性を指摘している。それは、伝統的な職人の存在や先端機器製造に長けていることと結びつくだろう。そうした精神文化への尊重、共感は私たちの内部に確実にある。


 オノマトペの特異な遣い手として宮沢賢治を思い浮かべる人は多いはずだ。偉大なる人物に何を今さら「生きがい」論とも思うが、彼のあの奔放にも思える表現が「世界を感知する方法」であったことは間違いない。それは細部への注意をどこまでも追求した表現であり、時代が変わっても揺らがない魅力の源なのだ。


 賢治の生き方に近づくなど到底叶わないが、細部に向ける注意を維持する努力を見習い学ぶことはできるし、それは「生きがい」に結びつく。「控えめで抑制された自己表現」を持つことは、競争と勝利至上のグローバルな文脈の中で、「持続可能な生き方を見つける」ことに有効だと筆者は言う。一段高い「」である。

「IKIGAI」を読む生きがい・弐

2018年08月11日 | 読書
 「生きがい」を考えるうえで重要なポイントになる「こだわり」について、著者はこんなふうに記している。「<こだわり>の重要な点の一つは、市場原理に基づいた常識的予測のはるか上を行くところに、自分自身の目標をおくことである」。現在の経済優先世界に振り回されないための「重し」と考えることもできる。


2018読了78
 『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』
 (茂木健一郎  恩蔵絢子/訳  新潮社)



 「こだわり」という語はもともと否定的なニュアンスで使われていた。しかし現在はどちらかというと肯定的と言っていい。日本人の多くはそれぞれに何かしらのこだわりを持っているという言説は頷ける。特性と呼んでいいだろう。こだわりの源を好奇心に置くとすれば、出自を問わず、好奇心を持つのが日本人だ。


 その好奇心は、古代から現代まで大陸や諸外国の様々なモノを取り入れて、加工したり編集したりして、新しい価値を生み出してきた。例を挙げるまでもない。そしてそれらは社会化や産業発達として根付くと同時に、国民性や個々の人間性に強い影響を及ぼしている。小さな好奇心の塊が形作ってきたことは大きい。


 太平洋戦争後GHQ最高司令官として来たマッカーサーが、日本人を「12歳の少年」と語ったことは有名である。著者は、その言葉を当時の民主主義の未熟さを指摘したと同時に「好奇心という言葉で表現される若々しい思考的態度」という見方もできると書く。戦後失われた美点は多いが、根強く残った部分もある。


 こだわり、好奇心が凝縮している典型的な一つにアニメが挙げられることは、納得できることだ。著者はジブリの宮崎駿を取り上げ、「この人物は、子供の心理を理解し尽している。そして、それはおそらく彼自身の内部に小さな子供が生きているから」と看破した。「仕事」がそんな形で降りてくる人は、引退できない。