すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

風に流されず、風流を

2018年08月19日 | 雑記帳
 先日「風情」という言葉を使ったら、結局それは何かと気になり始めた。再放送されていたNHKBS「京都人の愉しみ」で、京都人は梅が好きで桜以上に風情を感じるという場面にも引っかかっていた。辞書には「風雅・風流、おもむき・あじわい・情趣」等とあるが、今一つはっきりしない語だ。「」が根なのか。


 「風(ふう)」とはふだん意識しないが、ビックワードだ。辞書では日本国語大辞典の記述がやはり詳しい。「①ある範囲での共通の様式、方法など」「②人の姿や物の形」「③出来事、情勢など」「④世間的な体裁、評判など」。何か人間世界のたいていのことが、この「風」一つで表わせる。私たちは風の中で生きている。



 そして「規律・慣習」に関わる意味と、対照的である意味も同時に持つ。新明解には次の記述がある。「それに接する者を自ら惹きつける独特の魅力」。さらに「生活者・観光者に精神的影響を与える者と考えられる、山川草木のたたずまい」という解説も載っているではないか。それに関わる「風〇」の熟語は多い。


 そのまま「風流」の項を開くと、これがまたユニークである。他の辞典では「落ち着いた趣」などと同義反復のような記述に留まるが、そこはさすが新明解サン。「①利害打算を超えた世界の事柄に心の交流や安堵が具現し、その間だけ、煩わしい俗世間的交渉から解放されて余裕を楽しむこと(様子)」。お見事である。


 「風流な趣味をお持ちで…」は、俗世間ではやや皮肉めいた言い方に聞こえる。それだけ「利害打算」に満ちていることが日常的だからだ。しかし、誰しもが欲する心の余裕に目を向ければ、高級ではなくとも風流な世界に触れることこそ意識するべきだ。それも頻繁に継続的に!冷たい風に流されるだけではいけない。