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脱「集中力信仰」日常編

2018年08月05日 | 読書
 『集中力はいらない』(森博嗣 SB新書)を糧として、もう少し。甲子園が始まった。「本気の夏、100回目」が今大会のキャッチフレーズということだ。今日の選手宣誓の締め括りにも使われていた。昨日からの流れで考えれば、「本気」はどうも「集中力」と似通っている。そういうイメージが付きやすい言葉だろう。


 「本気」つまり「まじめな心」(広辞苑)が求める価値は大切に違いない。同時に人間はいつも真面目ではいられない。ずっと本気だったら疲れてしまう、いや身体上、それは絶対無理であるとみんな知っている。つまり、緊張と弛緩、集中と分散を繰り返して生きているはず。とすると要は「けじめ」ということか。


 いや、その「けじめ」という言葉も現状では何か、最初に集中ありきの印象をぬぐい切れない。そうではなく初めから「分散力」を鍛えようと考えてはどうか。頭脳も身体も一つである人間は、実は細かく見れば一つのことしかできない。つまり集中力など初めから備わっていて、その持続だけを求められているのだ。


 著者は、人間の頭脳が生命の維持以外の様々なことを考えるようになった歴史に言及する。「目の前にあるものだけではなく、ここにないもの、別人のこと、未来のことなどを想像することができる」と書く。これはまさに分散する力ではないか。そして分担、協力することを覚え集団を形成し、余裕を生み出してきた。


 社会の画一化に不満や不安を感じている人は多いのではないか。それはある面で「集中力信仰」に支えられている。連日報道される災害、不祥事などに対する反応も何かに集中していく傾向を見せる。そして異なる見解を排除する様相は顕著だ。何が大事なことなのか見極めていくために、もっと分散を意識したい。

脱「集中力信仰」基本編

2018年08月05日 | 読書
 うすうす気づいていたことだ。学級担任の頃「集中」という言葉は毎日のように使っていたし、集中力と持続力の二つを正面から据えたこともある。しかし、それは何の目的、どういう意味を持つかとあまり考えてこなかった。自分もまたそんなふうに教育されたことも関わるだろう。もう一歩認識を深めるべきだった。


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 『集中力はいらない』(森博嗣 SB新書)



 「集中とは『機械のように働く』こと」という一文は、ある意味多くの人が納得するのではないか。脇目もふらず、一心に目的に向かってねらいを達成しようとするのだから、人間が機械を作ったことと合致している。社会がそのことを要求してきたわけは、やはり戦争勝利や効率的生産のためと言ってもいいだろう。


 もちろん、著者は能力としての集中力を全否定しているわけではない。しかし「要求」される集中とは、やはり画一的であり、やはり個々のやり方は抑制されているのが現状であろう。発達段階に応じた心理学的なアプローチとして幼少期に培うべき能力だと考えるが、その範囲限定や適用場面を十分考えるべきだ。


 発想という点で教師側から見て集中に欠ける子が優れていた事例を思い出す。また勤務した職場の中に、そういった要素を強く見出せる同僚もいた。集中することは確かに必要不可欠ではある。しかしそういう点だけが素晴らしいと思い込むことは危険であるし、他の能力、資質等に影響していることに目を向けたい。


 結論の一つは「集中は、思考停止を促す」ことの危険性を自覚すること。ただ私達は例えばWカップでも甲子園大会でも、人が集中する姿に感心するし、感動する。それは否定できない。だからそれらは極めて一部分であることを、もう一つの目で冷静に捉えたい。著者が最終章を締め括った下記の文章に深く首肯する。

 「優れた人格は、できるだけ沢山の人の人格を尊重しようとする。そのために必要なのは、集中することではなく、分散し、発散する視点によって、優しく周囲から包み込むように考えることなのである。」