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「決める側」になる勉強不足

2018年08月27日 | 教育ノート
 ほぼ日「今日のダーリン」(8/27)で糸井は次のように書き出した。

 子どものころから、ちょっとずつ、
 家庭ででも学校ででもいいので、
 「決める側」になるという勉強をできたらいいよね。



 様々な場で生じる意見の違いを理解しつつ、限られた時間で解決するために、そうした場の経験を豊富にしたいということだろう。
 複雑でめんどうくさいことも多いけれど、物事を進めていくために「決める」ことが必須だし、それは直接携わらないと、なかなか身につかない。
 だからこんなふうに文章を締めくくったことも、納得できる。

 「少しゆずりあう」だとか「別の選択肢を探る」だとか、
 多少でも前に進む方向が見えやすくなるんじゃないかな。
 (略)
 学校の授業で、ディベートとかよりも、
 「決める側」になる練習をしたらいいのになぁ。


 ただ「本当にしていないのか」と首を傾げる気持ちも半分はある。

 学校現場ではずいぶんと意識していることではないか。それなのに…。
 そう考えるのは、やはり身内意識だろうか。

 どのような経緯で糸井の頭に、こんな想念が浮かんだかは知らない。
 しかし実際の場で物足りなさを感じ、その打開策を求めているのは確かだと思う。   
 やはり、学校での「練習」は量的に少なく、現実社会には反映しないのか。


 小さなエピソードを思い出す。

 新任教師時代の「学級会」への取組みを、このブログにあっさりだが記したことがある。

→「学級会への取り組み、表と裏」

 その後、名称が「学級活動」と変わっても、自分の関心は結構続いていた。
 学級会の司会・記録について「全員による輪番制」も取り組んだし、それがある時期から上からのお達しでも主流となる動きを見せて、非常に頼もしく感じていた。

 しかしある頃から、どうも現実の流れが少しずつ変わり始めたと意識するようになった。
 特別活動の研究会の機会はそんなにないのだが、ある時の全県規模の授業公開にはびっくりしたものだった。
 整然とした進行、用意されたシートの活用など、実にスムーズに運ぶが、そこには真の意味での「話し合い感」が少なかった。
 その事実は、お上からの指導が反映された結果とも言えるのだ。
 
 もちろん「決める」場はあった。司会・進行の子たちは(全員輪番制かどうかはわからないが)、経験できたに違いない。
 ただそこで力が養われたか、というと残念ながらそんなふうには見えなかった。


 学級会に割ける時間は、おそらくは減り続けているのが現状ではないか。

 そして、量が減らされるから、質に結びつく実践はきわめて困難になる。

 それでも外部は、質を要求するから、ますます見栄えのみが優先されてくる。

 と、悲観的なことばかり並べても仕方ない。

 「選択」は、今もって教育のキーワードの一つには違いないだろうし、学級会に限らず、教科指導の中でも「決める側」の経験を積めることは確かだ。

 ただ、その重要性を理解し、推進する意志を指導する側が持てるかどうかが鍵だ。
 現場の賢察と底力に期待したい。