すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

圏外思考宣言その1

2019年03月21日 | 読書
 どんな文章でも想像力は鍛えられる。

2019読了30
 『圏外へ』(吉田篤弘  小学館文庫)


 シンプルな題名だが、600ページ近い長編小説である。奥付によると2013年発行(単行本は09年)となっていた。昨年のマイ「吉田篤弘year」では手に取れなかった。それはページ数に気後れしたこともある。だが読み始めたら、それ以上に、これはいったい…とため息が二つ三つ。実に難解、奇天烈な印象を持った。


 著者の友人で小説家三浦しをんの解説は、次のように書き出される。「本書のあらすじを説明するのは、非常にむずかしい」。主人公は一応、小説家ということになろうが、現実と虚構が絡み合う展開で、読みながら像を描くに困難な話であった。「複雑なメタ構造を持つ物語」である。しかし、相変わらずフレーズは光る。


 第一に「圏外へ」という題が象徴的である。その語で浮かぶいくつかの事がある。携帯電話を皆が持ち始めた頃、山間部の学校ではまだ電波が届かない場所が多かった。同じ校舎内であっても届く届かないの違いがあったりした。「ここは(アンテナが)立つよ」などと教え合ったものだ。「圏外」の語が一般的になった。


 その頃、高校生だった下の娘と一緒にとある温泉に出かけた時、「えっ圏外なの」ととたんに不機嫌さを滲ませたので、驚いたことがあった。その時期の者にとって大事な「」が、この小さな機器に支配されているのかと思った。今はどんなに僻地であれ、圏外を指すことはほとんどないが、それは、本当に良き事か。


 小説が書かれたのは10年ほど前。その中で主人公の作家は、携帯電話を「圏外探知機」として名づけ考えを巡らす。かつてはそんな発想を持った人もいるのではないか。携帯端末がつながる圏から一時も離れられない日常を作りあげたのは誰か。それを手放せないのはどうしてか。圏外にこだわり、少し見つめてみたい。

ある世代として残すべきこと

2019年03月20日 | 読書
 なんとなくこの頃は世代論が流行らなくなった気がしている。
 年齢層人口の不均衡もあるだろう。
 そして急激な社会変貌が、全体を呑み込んでいて、あまり世代区分が意味をなさなくなったということもあるのではないか。


Volume.154
 「これからは、自分の年代じゃないと分からない過去を素材に作ろう、いや作らないといけないのかな、と思っています。僕は戦争が終わって10年目に生まれた人間ですから、そこから逃げるつもりはない。」


 劇作家野田秀樹と同齢である。
 間違いなく、我々世代のトップランナーの一人だろう。
 野田が上のように語っている文章を読み、少し考え込んでしまった。

 ノスタルジックな思いを越えて、残したいモノ、コトいや残すべきモノ、コトをもっと冷静に考え、顕在化させる役割があるのかもしれない。
 モノ、コトを残すとはココロを残すことでもある。

 まだ戦争の跡が感じられた世の中が急速に発展を遂げた(真の意味での)高度成長時代に、たくさんの日本人が頑張った証しはたくさんある。
 様々なメディアでも取り上げられている。

 それらの事物を実感として捉えることができた世代として、単なる歴史の記憶にしないで、そこにあった精神の普遍的な部分を抽出すべき、伝達すべきということになるだろう。

 野田のような一流の表現者でなくとも、全国様々な場所に数多く居る戦後10年目世代は、来し方を振り返り、今からでも出来ることを数えてみよう。そんなことを考えた。

損得勘定で不寛容になっていく

2019年03月19日 | 雑記帳
 日曜午後『あまちゃん』総集編を放送するとあったので、久しぶりに見たいなと思い録ろうとしたら、番組表に「前半のみで、後半の放送はしません」といったクレジットが…。ははあん、ピエール瀧問題か。とすぐ気づく。それにしても自粛が半端ない。坂本龍一のように発言する人もいるが、どうも流されている。


 芸能人の不祥事問題は、起こればすぐに放送禁止、発売禁止、再収録などと騒々しくなる。関心がなくとも溢れ出すように情報が流され、なんとなくそれが普通と思わされてしまう。しかし、今の社会の反応はおかしいと感じる人も少なくないだろう。暴力や不適切な言動が拡がらないためという理由は、薄っぺらだ。


 おそらくは、制作側や発売する側が様々なクレームに対抗するため、イメージを悪くしないために自粛している。情報化社会の進展が大衆個々の感情を垂れ流す場をどんどん拡げ、あっという間に、作りあげられるダーティーな印象に染まらないように、最終的に「被害」を最小限にしたい損得勘定ではないだろうか。


 商売に関わることに限らず、政治家、公務員、有名企業人などの不祥事の場合も同等だ。何かちょっとした問題があれば、まるで全人格が否定されるように、世の中が動く。集団で足を持って引きずり落とすようなイメージが浮かぶ。足引っ張りは昔から根強くあったが、ネットによって雪玉のように膨らんでいくのだ。


 こうした不寛容な社会の危険性は高くなる一方だ。些細なミス、思わず犯した過ち…反省や代償の場を与えるよりまず先に攻撃し沈没させるような意識を高揚させている人だらけだ。ハラスメント社会とはよく名づけた。人を嫌がらせることで自分を納得させ、満足する。それは他者への想像力の貧しさの裏返しだ。

渾身とまでは言えないが

2019年03月18日 | 教育ノート
 久しぶりに書棚の整理をしようと思い立った。整理下手を自認しているので心配だが、三年前の大整理で減らしており、その時点からどのモノを捨て、買い取りに出すか検討すればいいのだから、気楽だ。ただ平日の多くは邪魔をする可愛いギャングがいるので無理。従って勤め人並みに週末の限られた時間になる。


 ほんの少し教育系も残っていて、その中に齋藤孝氏の著書もある。「〇〇力」というネーミングがお得意の氏の本に原稿用紙10枚を書く力』があり、他の『コメント力』『段取り力』等と一緒に処分するかな、と思いパラパラとめくってみたら、なんと表紙裏に著者サインがあるではないか。こりゃちょっと保留かと思う。


 2004.10.13と日付が入っている。この本の出版が同年10月10日なので、発刊直後に今のにかほ市で講演した時に、直接書いていただいたものだ。サインをいただく間に、二言三言話をかわすことも出来た。表紙裏に名前と共に書いてくださった語は「渾身」だった。齋藤メソッドの根幹の精神と言ってもいいだろう。


 その年は教頭職であったが、一年間6年生の国語科を受け持つという幸せな機会に恵まれた。22名だった。どちらかと言えば消極的な子が多かったが、真面目で理解力に優れ、テストの点数など抜群だった。表現力を上げたいとずいぶんネタを作った。紙芝居実践が印象深い。国語科通信も担任の了承を得て続けた。


 書棚に40ページほどの小冊子がある。「明日を書く 今を書く」と題しその子たちの卒業時に集約した。「20年後の手紙」という定番と、通信に載せた作品や活動の様子等に「由利本荘市長さん、お願いです」という意見文がある。我ながらバランスがいい。「フィクションの中の本当」とした後書きの拙文に感動した(笑)

よく見つめ、見渡す

2019年03月17日 | 雑記帳
 昨日の地元紙朝刊に、某小学校卒業式で校長が卒業生の似顔絵を贈った微笑ましい話題が載った。専門分野を持つ強みを生かしたことに感じ入った。記事にはそのきっかけになったのは、中学での生徒の自画像制作・展示にあると記されていて、そう言えば自分も高学年担任時に自画像を描かせたなあと思い出した。


 あれは、絵の具の三原色だけを使うキミ子方式という手法に取り組んでいた頃だ。もやし、葱、バケツ、樹木の風景画など様々な題材を扱った。確かPTA授業参観時には掲示できるように計画した。顔の中心つまり鼻を一番先に描き、そこから拡げていく手順だったと思う。顔を触り、鏡を見て、3時間程度だったか。


 出来上がりの詳細は忘れたが、完成した作品を見てどこか満足しきれない様子の子どもたちを見て、こんなことを言った覚えがある。「家族の誰かに似ていたら、それはとても素晴らしい作品だ」。そしたら子どもたちは「あれ」「えっ」と口々に言い始めた。親との懇談時にはそんな話題を出して、一緒に見入った。


 図工の内容も様変わりし、今はじっくりと絵画に取り組むことも少なくなっているだろう。まして自画像などは少ないだろう。しかし高学年であればその時間は、自分をよく見つめ直すいい機会になるように思う。絵もそうだが「名前」を取り上げて、語の意味を探るなかで行動や性格などを振り返る時間を持てる。


 最近のトピックスでは例の「王子様」の改名にはさすがに唸った。キラキラネーム全盛期だったとはいえ、その子がどんなふうに名前と過ごしたかを想像すれば、笑い話では済まない。ずばり言えば、自分と向き合ってこなかったのは親だ。個々の責任のみならず時代が作りだした落とし穴か。見つめ見渡す時がほしい。

ひとり芸の多様な進化

2019年03月16日 | 雑記帳
 お笑い全般が好きだが、どちらかと言えば「ひとり芸」に興味が強い。落語はさておくと、M-1よりはR-1である。これも結構な回数を数え、その時点での流行り廃りをよく見せてくれる。実はここ数年、決勝を見てると突飛さだけがウケている印象もあったので、つまらなく思えた。しかし今年は見所があった。


 爆笑とまではいかなくとも、ファイナルに出場した芸人たちそれぞれの個性が光ったように感じた。自分が人前に立って喋る機会は明らかに減ったが、こうした芸人の手法には、人を惹きつけるエッセンスがあり、思わず学習モードで観てしまう。客層は若者主体だし、学校の授業などに取り入れる要素は溢れている。


 優勝した「霜降り明星 粗品」は、フリップ芸のテンポの良さが際立つ。ネタの組み合わせの変化が面白い。学校の授業パターンで言うと、超高速のユニット学習に似ているかもしれない。「だーりんず 松本」は準決勝のネタが面白く笑った。「かつら芸」を今までにない見せ方で提示した。かつらの概念を崩し拡げた


 「三浦マイルド」は漢字の例文を広島弁で語る。日常ネタ、暴露ネタを織り交ぜ、教室空間とのギャップを強調する練られた展開だった。「セントライトスパ大須賀」は、いわゆる「あるあるネタ」なのだが、設定を特異な形にし小声で無声音的に語ることを通した。今までにない形にびっくりする。新奇さが際立った。


 個人的に好みの「マツモトクラブ」が予選からの復活で上がってきたのが嬉しい。一人芝居形式で常に工夫がある。今回は、真実を見通す犬とでも称したらいいだろうか。初めと終わりを結ぶ展開、布石が見事だ。お笑いのパターン化、類型化は進んでいるけれど、同時に多様に枝分かれし進化しているように感じた。

今日の用は、教養

2019年03月15日 | 読書
 年配者の集まりに行くと、挨拶で「必要なのは、キョウイクとキョウヨウだ」と話される方がよく居る。流行みたいなものだ。教育教養を「今日行く所と今日の用」に引っ掛けている。笑いも出たりするが、肝心の教育と教養が身についているかと問われれば、レベルの高さは知れている。流行で済まされない。


2019読了29
 『おとなの教養』(池上彰 NHK出版新書)

 そもそも「教養」とは何かを考える時、辞書の意味では今一つぴんとこないだろう。この書の冒頭から使われている「リベラルアーツ」(一般教養、実用から離れた教養の意)を基にしてみたい。リベラルアーツの意味は「人を自由にする学問」だという。この意味を砕いて説明している箇所を引用し、定義づけてみる。


 「人間をさまざまな偏見や束縛から逃れさせ、自由な発想や思考を展開させる学問」と言えそうだ。ヨーロッパの大学では19~20世紀までこのリベラルアーツが七科目教えられていた。それに倣い著者は「現代の自由七科」と称し次の科目を挙げる。「宗教・宇宙・人類の旅路・人間と病気・経済学・歴史・日本と日本人」。


 この分類はやや便宜的(実際の講義のため)かもしれない。しかしいずれ、宗教・宇宙・経済・歴史あたりは異論はないだろう。そして副題「私たちはどこから来て、どこへ行くのか?」という、おそらく読み手の多くが持つだろう問いへのヒントになることは確かだ。みんな自分の源流や立ち位置を知りたいのだ。


 それが見えれば、一つ落ち着くだろう。情報化社会の進展は、学ぶ内容も学び方も変化させている。一般教養など知らなくても調べればいいといった風潮もある。しかし「すぐに役立つことは、すぐ役立たなくなる」という名言の裏を返せば、「すぐには役立たないこと」の価値は、鈍くいつまでも輝き続けるはずだ。

大人の語るキニナルキ

2019年03月14日 | 読書
 「大人のことば」を言えるようになりたいと時々思うが、いかんせん、どうにも成熟できないようだ。
 相変わらずことば集めのようなことを続け、何かが溜まっていくことを期待するしかないか…。

 と、今日は年齢もそれなりに大人の人の、キニナルキ。


Volume.152
 「鮨は口に入れると、新鮮な種を食べているように思うが、実は職人の気力を口に入れているのである。だから私は、そういうものを子供に食べさせるべきではないと常々言っているのだ。」

 伊集院静が、鮨屋で子供に鮨を食べさせるなと書いていることは前から知っている。
 そうした贅沢なモノを子供のうちから食べると…などと軽く考えていたが、もう一つ奥があった。

 「職人の気力」は子供の口には伝わらない。

 特別な場合を除いては、年相応のものと接することが社会の規範を支えていく道理といえよう。


Volume.153
 「『自分らしい仕事』というものがあると思っているだろうけど、どこにていても自分らしく働くことこそが自分らしいということなのよ」

 木皿泉の書いた脚本のなかにある台詞らしい。
 対談した羽海野チカが、気に入った台詞としてメモしてあると語った。
 ちなみに、ドラマの中では浅丘ルリ子が口にしたようだ。情景が浮かぶ。

 これは一時期「自分探し」のように「仕事探し」をした多くの若者に対して向けられているだろう。
 しかし、現在でも耳を傾けてほしい人はたくさんいる。

 自分らしく在ることがなかなか難しい世の中だ。
 どこかに自分を丸ごと受けとめてくれる環境があるというのは、幻想だ。

 環境にしっかり参画しようという意図を持ってないかぎり、周囲は自分から遠ざかるのみだ。

知らないから、ですむのか

2019年03月13日 | 読書
 ノルウェーの社会学者ガルトゥングが『日本人のための平和論』という本に、日本人が現政権を支持する訳を「代替案を知らないから」と書いていることを、ある書評で知った。基地問題や領土問題に関わるが、その著は「米軍撤退」を提案する。今の世の中では絵空事のように聞こえるが、我々に思い込みはないか。


2019読了28
 『知らないではすまされない 自衛隊の本当の実力』(池上彰 SB新書)


 そんな思いが残っていた時に見つけた一冊だ。憲法を巡る動きの中心にある自衛隊。その実状をどれだけ知っているかと言えば心許ない現実で、こういう時はやはり池上さんかと思った。読み進むと、この書名にもポイントが見つかる。「実力」とは二重の意味を持つことだ。言葉通りの意味と、「戦力」との関わり方だ。


 憲法9条をめぐって「戦力」の語が、歴代総理等により様々に語られてきた経緯がある。自衛隊の働きとして災害派遣などを否定する人は誰一人いないだろう。しかし国連の平和維持活動への参加に始まり、武力装備が必要で前面に出る場についての是非は意見が分かれる所だ。法のもとで自衛隊の姿は乖離している。


 という根本的な問題を棚上げしつつ、レクチャーされている「実力」は結構凄い。軍事力で世界7位は聞いたことがある。1機140億円のF35A戦闘機を42機揃える予定だという。それよりびっくりしたのはそのパイロットヘルメットが一つ4500万円ということ。最新は下を向くと光景が見える赤外線カメラ付きだ。


 知らないでいた様々な情報が確かに得られたが、それより妙に納得した自衛隊の出来た経緯だった。結局は、朝鮮戦争休戦による米軍の残った兵器の始末だったと記されている。こんなふうに武器や装備等の売り込みが、いつも国と人心を騒がしている。イージスアショアも同様なのである。属国認識が深まっただけか。

いてよしおちつけ

2019年03月12日 | 読書
 短いシリーズを始めたら、いろんな言葉をメモしたくなってしまった。

 今回はこの二つを!


Volume.150
 「いてよし!」

 先日、読了した本のこと。
 『木皿食堂』という題をつけなかったら、おそらくこの一言になるかもしれない。木皿泉の脚本にあるセリフだ。そして本の第二章の小見出しとして挙げている。
 「『いてよし!』って言ってあげられるようなドラマを!
 つまり、作家の願いが象徴されている。

 自己肯定と流行りのことばとはちょっと違う気がしている。
 これは、他者に対する声かけでもあるし、同時に自分への信頼でもある。
 大きくなるが、排除しない世界の宣言でもある。


Volume.151
 「おちつけ」

 「落ち着け」である。

 ごく普通に使われる日常会話の一つでもあるが、糸井重里はこの言葉を折にふれて口にし、「ほぼ日」でグッズまで売り出してしまった
 書家石川九楊の掛け軸なんか、すぐ売り切れてしまった。

 商売のことはともかく、なぜ今「おちつけ」なのか

 みんな落ち着いていないから。
 すぐに感情的になり、すぐにスピードを求め、すぐに決着をつけようとし…

 みんないったいどこへ向かおうとしているのか。

 「おちつけ、じぶん」