すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「民」は見たい姿を描けない

2019年03月04日 | 雑記帳
 天皇陛下の在位30周年の記念式典で、陛下がお言葉の中で「民度」という語を使われた。あまり一般的ではないが意味はわかる。広辞苑には「人民の文化や生活の程度」と出ている。他には「生活の貧富や文明の進歩」「生活水準・文化水準」などもある。陛下には「この国の持つ民度のお陰」と感謝していただいたが…。


 最近盛んに使われる「民意」。これは民意を問うのフレーズで、沖縄県民投票の件で毎日見聞きしている。辞書には「国民の意思」「人民の考え」と載っている。さて、熟語としての「民〇」は非常に多くごく普通に使われ、日常的にそもそもの意味を考えたりはしないが、民度や民意の語の響きには意外と強く残っている。


 「」とは、どの辞書にも載っているように「おさめられる人々。臣民」という意味を持つ。そして民の「字の成り立ち」そのものに、その意味が見いだせる。若い頃から漢字指導実践は重点としてきた一つであり、結構調べたりしたが、この字の出来方を知った時は軽く衝撃をうけた。学研漢和大字典にはこうある。

 ひとみのない目を針で刺すさまを描いた象形文字で、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。

 上部が目で、下から針で突かれている図から出来上がった。「目が見えない→物がわからない→支配下におかれる」という流れで意味が出来た。しかし今「民」は目が見えないわけではない。上からの圧力や操作で、巧みに見づらくされている感がある。そしてまた、あまりに拡がる風景に何を見ればいいか戸惑っている。


 「民意を問う」は、間違いなく為政者側の表現である。問う前から答えが決まっていると思わされることは、民主主義そのものの信頼を大きく揺らがせている。民の目は見えすぎるようになったのか。いや、見たい姿を描けなくなっているのではないか。「民度」が高いとは、そんな世の中を指しているわけではない。