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詩が姿を現わすとき

2019年03月28日 | 読書
 少し恥ずかしい話だが、高校から大学にかけて詩のようなものを書き散らした時期がある。大学に入って最初に参加したゼミが「詩と音楽」だった。「詩論」の本を意識的に読んだこともある。しかし十分に理解はできないままだが…。先日「役割と詩」の件を書いて、ふと思いつき書棚から一冊引っ張り出してみた。


2019読了32
 『詩の力』(吉本隆明 新潮文庫)



 単行本は2003年に出ている。「現代日本の詩歌」という新聞連載を集約したらしい。従って、いわゆる現代詩が中心だが俳句、短歌も、さらには歌謡曲、ポップスの歌詞まで取り上げられている。編集者の要望もあったらしいが、中島みゆき、松任谷由実そして宇多田ヒカルの章もある。著者の読み方には触発された。


 「歌詞という表現」という章に優れた歌詞の観点を「言葉の強い選択力と行と行の続き具合のすばらしさ」とずばり記してある。平易な言葉を用い、心情や風景を強くイメージさせる詞は、多くの現代詩人たちには書けないとも言っている。抽象度の高い語句や着想の方向性、強靭さだけで「詩」の力は語られない。


 現代詩といえば「わかりにくい」が定番だった。その点を著者は吉増剛造の章で、このように言い表す。「読者の側からいえば、詩の価値が文字の上に現れておらず、詩人の内面に隠されているわけで、その価値を受け取るのがとても難しくなっている」。昨秋に聴いた吉増剛造の、あの強烈な朗読の意図ともつながるか。


 単純に音声化したから価値が伝わりやすくなるわけではない。しかし、エネルギーは見えやすくなる。「詩の力」を様々な過程でとらえる時、その力が最大限に高まるのは口にした段階だろう。そう考えると、あらゆるモノに「詩」があるとは、おそらくそれを褒め称えた時明らかになる価値が出発点だ。詩が姿を現わす。