すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

この「食堂」に通いたい

2019年03月11日 | 読書
 「木皿泉」という脚本家(夫婦ユニット)に注目したのは結構遅くて4年ほどしか経っていない。NHKドラマ「富士ファミリー」が最初だった。その後、小説も読んだが、代表作は『すいか』『野ブタ。をプロデュース』等となっている。その頃はあまりドラマを観る余裕もなかった。この本で俄然興味が湧いてきた。


2019読了27
 『木皿食堂』(木皿泉  双葉社)



 第一章はエッセイで、2011年から神戸新聞へ連載している文章の集約である。実にしっくりと入ってきた。価値観が似ているというのはおこがましいだろうが、心の中の頷きが多くて、ちょっとびっくりした。そしてナルホドと感じる知見も多かった。「日本人のホンモノ好き」という言葉も、言われて胸を衝かれた。


 日本におけるエンターテイメントの軽視に触れつつ、「しかし同時に”裏”の文化としてアニメや漫画は発展し続けている。それはみんなが嘘を必要としてきたからではないか」と鋭く指摘する。そして、どれほど私達がニセモノや嘘を頼りに生きていかなければいけないか、その現状を常に自分に引き寄せて語っている。


 「食堂」の文字がタイトルにあるように、食べ物好きの夫婦は話題も豊富だ。「ほろ苦い春」と題された回は、ふきのとうなどの苦さから語りだし、苦味の意義を「自分の体に、活を入れてくれる」とした。社会の苦味が増すにつれ甘い食べ物は欲しくなるが、やはり身体に苦味を入れて乗り切るしかない。Beerだね。


 作家稼業の実態も面白い。第三章に『三月のライオン』で有名な漫画家羽海野チカとの対談があり、ずいぶんと親和性の高い話をしている。驚いたのは、「お風呂嫌い」という共通点。他にも多いらしい。これはめんどうくさがりやという面があるにしろ、集中力を切らさないための結果…つまり没頭力だと読み取った。

どこでその「キ」を作動させるか

2019年03月10日 | 読書
 短いことは価値になる。
 覚えやすい、端的に意味が入りやい。
 ただ、どこで使うか(脳内で作動させるか)がポイントだろう。


Volume.148
 「一龍一蛇」

 荘子が説いた言葉という。
 「時に龍になり、時に蛇になる」…これを「断捨離」のやましたひでこは、俯瞰力の中で語る。
 鳥瞰力という語もあるし、その意味では「鳥の目」「虫の目」と同一と考えていいかもしれない。

 一つの視点に固執することなく、自在な見方を持つこと。

 共生を目指す世の中に在るためには、大きな味方だろう。


Volume.149
 「同感(シンパシイ)」

 アダム・スミスが書いた『道徳情操論』にその言葉があると、経済学者金子勝が紹介している。
 その考え方は、「心の中の『第三の公平な観察者』に対して、自分の行為がコモンセンスに従ったものかどうかを問いかけて行動していく」というものである。

 「小さな政府」の提唱者は、「むき出しの自己利益追求」を進めていたわけではない。
 しかしその流れの中で、社会全体において企業や富裕層たちが公正さや公共性を失わせるような利益追求に走り、格差が拡大していることも事実だろう。

 他者に対して「同感」できるかどうかは、社会のために納得し、多くの人の善になるか、常に問いかける心が必要である。
 単なる感情ではなく、論理と洞察を深めていくためのキーワードと言えよう。

その時間は貴方のものだ

2019年03月09日 | 雑記帳
 三十代後半、夏休みにひと月近く入院したことがある。その時になんとなく、人生の折り返し地点なのかと考えることがあった。一般に公表されている日本人の平均寿命からすれば妥当な時期だと思うが、人生の折り返し地点は20歳であるという論があることをご存じだろうか。「心理的な時間」としてその頃とされる。


 あっ、これは「ジャネーの法則じゃねーの(笑)と思い浮かんだ方は、物知りだ。よく齢をとると一日が過ぎるのが早い、あっという間に一年が経つなどと言う人がいる。それは「主観的に記憶される年月の長さは,年少者にはより長く、年長者にはより短く評価される」というジャネーの主張を体感していることになる。


 「50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する」から「50歳にとっての10年間は、5歳の人間にとっての1年間」「5歳の人間の1日は、50歳10日に当たる」という説明がある。わかったようなわからないような…ただ、自分も実感しているのは確かだ。


 となると60歳になり仮に余命が20年あったとしても、それは1歳時の子どもの体感(1年=365日)に比べると60分の1以下、つまり1年が6日以下なのでおよそ100日ちょっとが目安だろうか…と愚にもつかない計算もしたくなる。しかしいずれ感じ方の違いであり、物理的な時間に差がないから一緒に生きている。


 楽しくてあっという間に時間が過ぎた、という経験は誰しも持っている。その意味では、生の充実が実感を決めるとも言える。「早く過ぎた」をどう振り返るかがポイントなのか。目の前の大事なこと、または新しい経験に集中して向き合って、かけがえのない時間を持てれば、いくら早く過ぎてもいいんじゃねーの

パッと短いキニナルキ

2019年03月08日 | 読書
 この頃、パッとメモしておきたくなる短いフレーズが多い。

 その筋?ではどれも有名な言葉かもしれないが、あくまでも自分にとってのキニナルキだ…

Volume.145
 「比較三原則」

 みうらじゅん先生が語った。
 想像できるように「非核三原則」のもじりだろう。
 人が生きづらいのは比べるからである。

 だから、決して比較を持ち込まないために、原則をたてる。
 「他人」と「過去(の自分)」と「親」。
 この三つは、自分と較べない。


Volume.146
 「知進知退 随時出処」

 大相撲の立行司木村庄之助が持つ、軍配に記されてある文字である。
 知られているように、立行司は短刀を身につけて土俵に上がる。
 それは軍配を上げることに関しての覚悟を示しているということである。

 「進むときを知り、退くときを知り、いつでもそれに従う」…そんなふうに訳せるだろうか。
 どこかの国の政治家に聞かせたい言葉だ。


Volume.147
 「一点一格」

 葛飾北斎が言った「~~百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」。
 訳すると「~~100歳の頃には神に近づき、100を越えてから描く点は一つの命を帯びるだろう」らしい。

 一点一点に命を宿すがごとく描きたいという、北斎の願望。
 遥か彼方の境地だが、覚えておきたい。

間抜けのレベルを問う

2019年03月07日 | 雑記帳
 10億円の保釈金を払って拘置所から出てきた姿を、多くのカメラが捉えた。帽子、作業着、反射ベスト、マスク等々の変装はほとんど意味をなさず、促されて乗り込む際も少し間違えた仕草があった末に、軽ワゴン車へ乗り込んだ様子をみて、「なんと間抜けなことを…」と思った。同感の人も多かったのではないか。


 出入口はそのまま、停めた車もすぐ前で、サポートする人数も多いとなれば、すぐに見破られると予想できたのではないか。群がるマスコミ攻勢を避けるためだろうと同情もわくが、あまりにお粗末。これが、有能な弁護士団の提案なのかと思わせるほどだ。さて、頭の中に浮かんだ「間抜け」という語、久々に使う。


 意味は「ばかげた失敗をする人、様子」である。いわゆる「間」が「抜ける」から来ている。語源は「音曲や芝居などで、拍子が抜けたり、調子がはずれたりすることから」と載っている(三省堂・現代新国語辞典)。変装して気づかれず騒がれずに戻ることが、抜かりなく出来なかった。抜けていたのは、一体誰か。


 いや、それよりも無罪を主張するなら、堂々とするべきだろう。事の正当性と、態度・姿勢とは一致しないとはいえ、可視される姿は大事だ。間抜けを類語で調べると三つの区分がされている。「愚鈍」「愚者」「油断する」。保釈出所だけをみれば、愚鈍としか言いようがない。真相解明によって真のレベルが決まる。


 報道は一斉にその件を伝えているが、例によって乗り込んだ軽ワゴンがスズキだとか、かぶっていた帽子がどうのと騒々しい。ネットを覗いてみたら埼玉の某企業のマークがある。おっ、これはカミナリではないか。帽子の色は青だ。こっ、これはまさしく「青天の霹靂」か。そんなジョークだったら笑えるのにね。



弥生三月春濫読

2019年03月06日 | 読書
 花粉到来 外出恐怖 空気清浄 全開運転


2019読了24
 『この世の全部を敵に回して』(白石一文  小学館文庫)


 魅力的な題に惹かれて手にした。この小説はいわゆる入れ子構造であり、「僕」の友人だったK****氏が残した手記が、その内容になっている。その手記とはストーリー性のあるものでなく、一種、哲学のように人生観、死生観を語っている。題が示すように、かなり大胆で攻撃的ですらある。読むのがちょっと辛くなるほど、その迫力に圧倒されて読了した。一節のみ引用する。

 「あなたはまず、自分自身を哀れまねばならない。」


2019読了25
 『新・生き方術 続・断捨離 俯瞰力』(やましたひでこ マガジンハウス文庫)


 本がベストセラーになり、「断捨離」という言葉が流行ったのは2010年だった。それ以前は「捨てる技術」だったか。読んで理解し納得したつもりになったが、いかんせん実践できないまま、今まさに自分自身が断捨離されるような齢になっている。さて、この文庫は技術的なことはほとんどなく、これも一種の哲学書風だ。俯瞰力こそ、断捨離で身につく力だそうだ。自分に響いた一節は…。

 「断捨離は、モノを通じて覚悟を育てる。」


2019読了26
 『さよならの力 大人の流儀7』(伊集院静  講談社)


 久しぶりの伊集院本。いつもの文体で、いつもの風景や感情を語っている。「父性」が滲みだす文章だと今さらながらに思う。よって世の中の時流には合わない生き方であろう。ただ、内容の半分以上に登場してくる、愛犬との日常や別れなど、共感できる人も多いはずだ。肉親や親しい人だけでなく、ペットであっても、別れは何かの「力の素」を人に残してくれる。それを昇華するためには時間が必要だし、何より真に心を寄せた日々を過ごした経験の力だと、「まとも」なことしか思い浮かばない。

 「さよならに力があるとすれば、誰かへのいつくしみがあるからではないか。」

「晴天の霹靂」でどうでしょう

2019年03月05日 | 雑記帳
 録画しておいた映画『青天の霹靂』(劇団ひとり原作・監督)を先日観ていたときに、思わず笑ってしまうシーンがあった。主人公がタイムスリップする展開で、終盤に彼自身が母から産まれてくる形と重なって現在へ戻るのだが、母親がぐうたらな父親に向かって、子どもの名前を考えているのかと訊ねたときの返答だ。


 「今、晴れているから、晴夫だ!」…このいい加減さを、デタラメとみるか、良い加減(笑)とみるか。自分が笑った理由は、幼い頃、母に「どうして晴夫という名前をつけたのか」と尋ね「名前は父がつけた。その日が本当にいい天気だったから、と言っていた」と聞いたことを思い出したのだ。偶然だが、根は同じだ。


 映画に出てくる父親以上に情けない男だった気もするが、真相はわからない。いかにも昭和チックな名前は、当時のマジシャンや歌手のなかにもあったし、若干の好みがあったかもしれない。まあ齢をとってくると、音の響きを求めたり、過剰に意味を込めたりされる名前より、シンプルさが身の丈に合う気がする。


 間違えようのない名前だ。しかし実は二度、しかも大事な場で読み間違えられている。小学校の入学式点呼、書かれた字が誤りだったのか「セイテン」つまり「晴天」と呼ばれた。二度目は40歳頃、県の研究大会で表彰を受けた時、何故か「アキオ」と言われた。どう勘違いすればそうなるか。季節は確かに秋だったが…。


 今日で丸63年、この名前と一緒に歩いた。何の疑問を持たずにきたが、昔は隠居後に別名を付けたと聞いた。ちなみに勝小吉(勝海舟の父)は夢酔であったそうな。退職して隠居宣言をした折に考えるべきだったと悔やむ。ここは遅ればせながら、以前セイテンと呼ばれたつながりで「霹靂」はどうか、と思いつく。

「民」は見たい姿を描けない

2019年03月04日 | 雑記帳
 天皇陛下の在位30周年の記念式典で、陛下がお言葉の中で「民度」という語を使われた。あまり一般的ではないが意味はわかる。広辞苑には「人民の文化や生活の程度」と出ている。他には「生活の貧富や文明の進歩」「生活水準・文化水準」などもある。陛下には「この国の持つ民度のお陰」と感謝していただいたが…。


 最近盛んに使われる「民意」。これは民意を問うのフレーズで、沖縄県民投票の件で毎日見聞きしている。辞書には「国民の意思」「人民の考え」と載っている。さて、熟語としての「民〇」は非常に多くごく普通に使われ、日常的にそもそもの意味を考えたりはしないが、民度や民意の語の響きには意外と強く残っている。


 「」とは、どの辞書にも載っているように「おさめられる人々。臣民」という意味を持つ。そして民の「字の成り立ち」そのものに、その意味が見いだせる。若い頃から漢字指導実践は重点としてきた一つであり、結構調べたりしたが、この字の出来方を知った時は軽く衝撃をうけた。学研漢和大字典にはこうある。

 ひとみのない目を針で刺すさまを描いた象形文字で、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。

 上部が目で、下から針で突かれている図から出来上がった。「目が見えない→物がわからない→支配下におかれる」という流れで意味が出来た。しかし今「民」は目が見えないわけではない。上からの圧力や操作で、巧みに見づらくされている感がある。そしてまた、あまりに拡がる風景に何を見ればいいか戸惑っている。


 「民意を問う」は、間違いなく為政者側の表現である。問う前から答えが決まっていると思わされることは、民主主義そのものの信頼を大きく揺らがせている。民の目は見えすぎるようになったのか。いや、見たい姿を描けなくなっているのではないか。「民度」が高いとは、そんな世の中を指しているわけではない。

62歳、方丈記を読む

2019年03月03日 | 読書
 先日読了した『この先をどう生きるか』(藤原智美)の中では、鴨長明のことが「孤独の探求者」という形で紹介されている。書くことにより観察と思索を深めていった先駆者という位置づけだ。この2冊は意図なくまとめて注文したのだが、つながっていた。鴨長明は62歳で没している。あと数日は同齢の私が読む。 


2019読了23
 『方丈記』(鴨長明・蜂飼耳訳 光文社古典新訳文庫)



 多数の人が諳んずることのできる冒頭の一節「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。この古典を読んでみようと思ったのは、訳者に興味があったからだ。今は読んでいないが以前雑誌連載で興味を覚えた詩人はどう訳したか…。中高生の頃接した訳文とはまた別の面持ちで、綴られた文章世界を想像できた。


 今まで持っていたイメージは、無常観、達観といった言葉に集約される。しかし前半はともかく、後半を読み進めていき、終盤に差し掛かると、なんだかこの人、未練たらたらじゃないかと正直に思ってしまった。訳者も「葛藤」と書くように、正直な気持ちも吐露されている。イメージは冒頭文章で作られてきた。


 ただ、三大随筆に数えられ親しまれてきた作品の良さは損なわれるものではない。無常観や仏道の教えを書きつつ、「たもつところはわづかに周梨槃徳が行にだにおよばず(精神的な段階は、釈迦の最も出来の悪かった弟子にも及ばない)」と明記し、その胸の内を曝け出してみせる。その正直さゆえに響く箇所が多かった。


 蜂飼の解説によれば、長明が方丈庵に託した希望は、単なる「閑居生活の充足」ではない。居そのものの作りに意味があり「嫌になったらいつでも他所へ移れる、そんな可能性を秘め」ていたようだ。そこには無常に苛まれ葛藤しつつ、ある意味飄々と生き抜く軽さも感じる。身の丈に合う動きを作りだす心の持ち方だ。

誰に声かけ、目を合わせるか

2019年03月02日 | 雑記帳
 先週土曜、ずいぶんと長時間、一日何度も…と思い番組表を見た。NHK『家族になろうよ』…タイトルは福山雅治の歌と同じだが、中身は「犬と猫と私たちの未来」と副題がつけられている。諸所で保護されている犬・猫を紹介し、飼い主との出会いの場にするという趣旨だ。公開飼い主募集がメインということか。


 犬のしつけ専門家として登場した方の、実際の「教室」の様子がとても興味深かった。保護犬ということもありなかなか人に慣れず騒がしい犬を、短時間で落ち着かせた。ドッグフードを使った遊びを取り入れ、犬が飼い主の顔を向くようにさせる技に驚いた。「目を合わせている時、犬は幸せ。人も幸せ」に首肯した。


 ペットを飼った経験がない者にはわかりづらいが、よく「癒し」という言葉が使われることに対して納得できる部分もある。メインゲストの形で出ていた糸井重里が「犬や猫のことって、損得や善悪に関係ないでしょう。そういう所が、なんだか大事なことなんじゃないか」と語った。そのシンプルさが失われつつある。


 何でも損得や善悪を考えてしまいがちだ、と改めて思う。些細な事までコスパがどうとか、報道のいちいちを善悪で二極化して見聞きしている。子ども時代の暮しはそんなことお構いなしだった。人間はいつ頃からそうなるのか。他者との関係は特に、少しずつ損得・善悪が入り混じった感情に染まっていくように思う。


 「家族」も人間同士の関係だが、本来それらの感情は抑えられていたはずだ。しかし核家族化や個別消費の拡大によって、徐々に家庭でも損得や善悪が大きな顔をし始めたのだろう。今この時「家族になろうよ」と呼び掛ける対象を何にし、どう働きかけるか。自ずと社会や個人の歩んできた道の過程が明らかになる。