すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

とりあえずのうれしさを愛でよう

2019年03月25日 | 読書
 「食堂」と何気なく使うが、よくよく眺めると「」とは大袈裟に思えてくる。講堂、公会堂…堂々なんて語もあるほどだからね。堂は「土台の上に高く作った建物」を表し、神仏との関わりも深い。広辞苑によると、そもそも「ジキドウ」と読み、寺院の食堂を指していて意味が拡大した。食は神聖なものとも言える。


2019読了31
 『食堂つばめ② 明日へのピクニック』(矢崎存美 ハルキ文庫)


 3年前に読んだ本の続編。臨死体験をした者が足を踏み入れられる「街」にある食堂が舞台。何らかの理由で死線をさまよう者がそこを訪れる形になるわけだが、食事や食にまつわることを思い出しながら「蘇る」ことが基本の流れだ。ただ今回は、生に戻らず死にゆく者や戻っても臨死体験を覚えている者も出てきた。


 「食堂」の存在意義をこう語った箇所が面白い。「この街に来た人を生き返らすためにだよ。生きることを思い出すためには、食べることが一番わかりやすくて効果的なんだ」。食べていることは確実に生きていることだ。妙に納得させられる。食を疎かにしないとは、美食やグルメと称される行動とはまた別次元である。


 「おいしいものを食べると、とりあえずうれしい。」…この何気ない一言は意味深い。そもそも誰であれ、うれしいという感情を常時持ち続けているわけではない。「とりあえず」のうれしさが必ずあること、そして多くあることは、人生の幸せを形作る材料としてかなり高いと言えよう。食事の秘めている可能性を想う。


 食堂の女主人は「その人なりに人生を全うした人は無理には止めません」と語る。人生の全うには人それぞれの形があるが、よく「最後の晩餐」が話題になるように、食が大きな支えであるのは間違いない。そして味を決める最終的な要素はどこで関わるにせよ「人」であると、改めて感じさせてくれた物語だった。