すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

読書の価値はそんな所にも

2019年10月20日 | 読書
 年間読書冊数が100超であれば、一般的に多読と言えるのかもしれない。目標冊数を決めた前世紀末(笑)から20年が経って、読むジャンルは次第に変化したが、読み方はどうだろう。依然、教育書が多い時期同様に何か役立つことを探す姿勢だろうか。ただ、ここ数年読み方が雑になっているのは確かだなと自省する。


2019読了93
『本の読み方 スローリーディングの実践』(平野啓一郎 PHP新書)



 一時期ほどではないにしろ、相変わらず「速読」本は目につく。情報処理の一つの能力のようにもてはやされたこともあった。自分も挑んだこともあったが、頭や眼球の回転は限界値が低いようだ。さて「遅読」を奨める本も散見されるようだ。しかし、どちらもブームになり得ることはないだろう。読み方も個性だ。


 個性だからただのんべんだらりと本を眺めていてもいいか、と言えば、その時間が楽しければ良しなのだとは思う。しかし、どこかマンネリに陥りがちな多読者には刺激が必要だ。その意味でいい刺激を受けた一冊だ。特に第2部の「魅力的な『誤読』のすすめ」には、読書術のエッセンスが詰まっているように思えた。


 「誤読」という語を持ち出して、速読で強調されがちな「理解率○%」などの考え方を批判する。哲学などが誤読によって発展した例を引きながら、単なる勘違いや無理解からの「貧しい誤読」ではなく、熟考をもとにした「豊かな誤読」を求める。「読者論」にも通ずる思考で、時々妄想に浸る自分でもいいと思えた。


 引用された大江健三郎の文章「読書には時期がある。本とジャストミートするためには時を待たなければならないことがしばしばある」。これは「再読にこそ価値がある」という著者の提言と重なる。新しい本への興味はまだあるが、再読によって新しい自分を発見する方がより価値が高いと思うお年頃になってきた。

いだてん頑張れ!明日はないけど

2019年10月19日 | 雑記帳
 今週初め「大河『いだてん』視聴率3・7%で危険水域突破!」というネット記事が出た。地上波はラクビ―の大勝負と重なったわけだし、仕方ないなあとは思いながら、BSで早く観た自分は少し残念な気持ちになった。その39回は実にいいと思える内容だったからだ。戦争に翻弄された「時代」が伝わってきた


 同じようなことを思った人もやはりいたようで、今日こんな記事を見付けた。「『いだてん』この回を見なかった人はもったいない。宮藤官九郎、魂の『戦争』と『志ん生』」。志ん生役の森山未來、円生役の中村七之助、そして小松勝を演じた太賀とこの三人が見事にはまった展開に、脚本・演出の素晴らしさを感じた。


 「いだてん」に絡めていえば、つくづく長いレースにおけるスタートのつまずきとはこたえるものだ。その後にいくら形のいいフォームで走っても注目されない。もはや挽回できないところまで順位は落ちているが、応援している者はまだまだいるので頑張ってほしい(明日の日曜はとうとう放送されないそうだが…)。


 ところで、本物の五輪マラソン競技の会場変更やら、大迫選手の大会創設発言やらで、ずいぶんと現実世界が騒がしくなっている。会場の方は様々な言い分があるのだろうが、どうしても大きな利権に左右されるムラ意識が見えて、苦しい。その点、同じ金銭を口にしても堂々と自己主張するアスリートの方は清々しい。


 ドラマ『いだてん』でも、戦前の東京五輪大会返上をめぐって描かれた葛藤は、真に迫るものがあった。ひたむきに力を尽くし、目標を持って走る姿は美しいけれど、その道がどんな風景をしているか、ランナー自身が俯瞰するのは難しい。才能ある者たちへのエールの仕方を、私たち応援者はじっくり考えるべきだ。

何かあったか生まれたかを問う

2019年10月18日 | 読書
 器でも料理でも、絵でも彫刻でも、あるいは形のない身体表現のようなものでも、ある二つの事物が全く同じという場合はあるかもしれない。

 しかし、それはあくまで見る側使う側のとらえであることも確かだ。


Vol.179
 「他の人と同じことをして作品を作っても意味がないのは、そこに至る思想を持たないからです。自分とその手法の間に関係性は何もない。何もないところには何も生まれないからです。」


 料理人土井善晴の連載の中で、美術家篠田桃紅に関するあるエピソードが紹介されていて、「表現する理由」について考えさせられた一文である。

 これを読み唐突に思い出したのが、その昔「教育技術」を吸収しようと励んでいた頃の自分だ。

 「ゴミを10個拾いなさい」という指示は、当時(1980年代)、教育技術の法則化運動に多少であっても関わった者なら忘れられないフレーズである。
 数を示して目標化することさえ一般化していると言えなかった時代に、効果のある指導言とはいかなるものかを教えてくれた。


 それを真似た教師たちは、そこから「考えた」のか。


 「子どもを動かす」とはどういうことなのか。

 その指示で、子どもはどんな力を身につけるのか。

 教育における教師の立ち位置はどうあるべきか。

 今、社会の中で学校はどんな役割をはたしているのか。
 ・・・・・・・


 跳び箱を一人残らず跳ばせることができた。

 算数のテストで学級全員100点を達成したこともある。

 素晴らしい学習発表に、涙を浮かべて喝采してくれた方もいた。


 そうした実践、ある意味の表現活動について、自分は思想を持ちえたのだろうか。

 むろん、対象となった子どもたちは作品ではないし、一人の人間同士として関りを持っただけなのだが、限られた時間に自分はどんな思いでその技術を駆使したのだろうか。

 その場に何か生まれていたのだろうか。


 今頃になって妙に気にかかる。

ガラクタの大人のミカタ

2019年10月17日 | 読書
 シリーズ累計が200万部にも届きそうな『大人の流儀』。どんな層が読んでいるかは自分のことを考えてみても想像がつく。傍から見れば外見上は、十分「大人」なはずなのに「大人」になり切れていない感覚の強い者たちだろう。だから、ちょっとでも近づきたい、何かヒントを得たいとページをめくるのではないか。


2019読了92
『誰かを幸せにするために』(伊集院静  講談社)


 最近刊行されたのは「9」でこの著は昨年に出された「8」である。ここにも「大人とは何か」と一つの定義的な文章がある。「己以外の誰か、何かをゆたかにしたいと願うのが大人の生き方ではないか」。かなり格好いい句である。ギャンブルや酒にのめり込んだ著者でありながら、他の所でカバーしているからそう言える。


 この作家の小説やエッセイは7,8割読んでいると思うが、スタイルはほぼ一貫している。週刊誌の連載エッセイのタイトルで言えば「それがどうした」であり、この著ではもう少し詳しく述べていて「異論もあろうが、そんなことは、私の知ったことではない」。つまり、自分で決着させるのが大人だよということだ。


 原則そうでありながら、妙に揺らいでいるように感じる文章もある。大相撲の日馬富士の事件、引退について書かれた項がある。ここでは過ちに対する世間の怖さ、謝り方などに触れている。それでも自分は贔屓するという独特の結びをしつつ、題を「優しい時間」と表した。私には筋目より感情優先に思えたのだが…。


 「ガラクタの人生」という項で、改めてガラクタについて考えた。語源は「ガラは物の触れて鳴る音。クタはアクタ(芥)の約」。値打ちのない、役立たないモノを指すが「或る人にはかがやくものに見える」と著者は言う。日々、幼子と接していてつくづく思う。存在意義を決めつける権利は誰にもない。

『第一回 西馬音内』を読む

2019年10月16日 | 雑記帳
 10月最初の週末に、いつものごとく風呂で雑誌をめくっていたら、「西馬音内」という文字が目に飛び込んできた。それは記事そのものでなく、ふだんはあまり気に留めない雑誌広告の中にあった。読んでいた雑誌の発刊元である新潮社のいわゆる文芸誌『新潮』11月号である。連載「ミチノオク」の第一回目とある。


 著者は佐伯一麦。この作家名は知っていたが読んだことはない。しかし羽後町人として西馬音内人としては、読んでみたい。発刊日は7日。その日に家族の用事ついでに立ち寄った大型書店には並んでいなかったし、やはり地方では売れないらしく「取り寄せなら」と店員に言われたので、自前で注文することにした。


 木曜には自宅に届いたがすぐには読めず、結局開いたのは土曜日となった。私小説家による連作短編という形であり、仙台在住の作家が知り合いに勧められ盆踊りを観に来たことが語られる。「ミチノオク」という題と重なるような人の命と生き様への思いが、本来の盆踊りに込められた意味の重さを照らす小品だった。


 本筋とは別に、取り上げられた地元民としては、此処特有の細かい部分に苦笑したり、作家が描けば見慣れた仕草もこんなふうに描写されるんだなと思ったりして楽しめた。最近観光客の足は伸び悩んでいるが、我が町の盆踊りは間違いなく歴史、伝統に裏打ちされた独特の個性を持ち、その価値は揺るぎないと思う。


 7月に知り合いが「盆踊り」のお話を紙芝居風に作るということで、若干お手伝いをした。そこで改めて「踊り手」の存在について考えさせられた。何のために、誰のために踊るのか…これはもう今は踊り手ではない自分だが中学の頃からずっと頭をよぎっていた。この作品は、その核心をまた思い出させてくれた。

求めれば楽しいことばかり

2019年10月15日 | 雑記帳
 今年が最後の「体育の日」となるらしい連休最終日。町内でもイベントはあるのだが、仕事上の興味もあって、美郷町の「読書フェスタ」を覗きにいった。注目していたのは「紙芝居」があること。それもプロを招いているので、どんなものだろうと楽しみだった。一時間余りの「ステージ」は見事だと素直に思った。

 
 童話や物語を紙芝居の舞台を使って演じることが主ではなかった。もちろん、最後に民話を題材としたもので締めてくれたが、それさえ絵や話を演出する効果音、小道具そして何よりパフォーマンスに溢れていた。紙芝居にもいくつかの派?があるという話を聞いたことがあった。まあ、このパターンは素人は難しい。


 見方によっては、TVでピン芸人がやるフリップ芸に近いともいえる。ただ、かなり強調されているのは観客とのコミュニケーションである。幼い子から高齢者までまんべんなく見渡していて、客に反応を求め、その切り返し方も巧みだ。様々な地域の、様々な客層を相手にしてきたキャリアによって培われたのだろう。


 いや、それ以上に資質が備わっている。ある流れで高学年らしい子が「生きるのはつまらない」といった反応を示したことに「そう、でも五十過ぎるとまた楽しくなるよ。おじさんを見てごらん、面白そうでしょ」と笑顔で返した時、ああこの人は天職を得ているんだなと感じた。子どもを育てる姿勢はかくありたい。


 自分が時々やる紙芝居で似たようなことはできないだろうが、いい刺激になった。始まる前の時間、ちょっとした手品のようなものを見せてくれた。種明かしは「目の錯覚」。これは簡単だから真似できると、家に帰って早速作ってみる。完成品↓。やり方はいつか披露したい。世の中は不思議なことがいっぱいで楽しい。


スクラムに身体が同調して

2019年10月14日 | 雑記帳
 「にわかファン」とも呼べないほどの興味だが、昨夜のラクビ―は目を離せなかった。いや正確に言うと、一度チャンネルを替えた。それは見ていて肩に力が入って疲れを感じたからだ。スポーツ観戦は好きとはいえ実際にあまり見る機会はなく、TVのLIVEが主だ。これほど力が入ったことはそんなに記憶にない。


 ラクビ―にあるタックルやスクラムという動きは、身を入れて見ると同調してしまうのだろうか。例えば好きな大相撲だと同じように踏ん張って応援してもたかが数秒から数十秒だ。これが数分、数十分になると明らかに自分の力みが身体を覆ってくる。特にノーサイドまでの十数分は圧巻だったし、息を詰めて見た。


 そのせいか、ベッドに入ってもなかなか寝付かれない。仕方なく改めてラクビ―あれこれの思いを巡らす。私の世代で言えばラクビ―は、夏木陽介主演の『青春とはなんだ』という、いわゆる青春学園ドラマの先駆けとなる作品で出会っているはずだ。これに続くドラマでも、サッカーと交互に取り上げられたと思う。


 高校の部活動が舞台になっていて、当時は夢中になってみた。今検索してみると原作が某元都知事なのがしゃくだが(笑)。青春とは情熱、希望、友情そして、流れる汗と真っすぐな恋だと照れずに見せつけてくれたドラマだ。汗の象徴は言うまでもなくスポーツ、それはラクビ―かサッカー。ラクビ―がよりハードだ。


 体育で教えられた経験はサッカーが早い。ラグビーは高校で一度二度あったかという記憶しかない。それだけルールが難しい。TV観戦で親切に解説がついてもまだ覚えられずにいる。それにしても肉体をもろにぶつけ合うこの競技が人々を虜にするならば、ひ弱なこの国の空気を少し揺さぶってくれる期待を持つ。

一週間でCD3枚買う

2019年10月13日 | 雑記帳
 まだCDであるのが齢相応である。買ったのはスピッツの新譜『見つけ』。聴く頻度は減ってきたけれど、ミスチルとスピッツ、絢香はまだ手が出てしまうなあ。音楽的にどうかというより、心地よく耳に入るかという好みだけになっている。それはやはりvocal。草野マサムネの唯一無二の歌声に惹かれるからである。


 朝ドラの主題歌が入っていたのは知っていたが、他のタイトルを見ないで買ったら、何の因果か(笑)『はぐれ狼』という曲があるのではないか。デビューの頃からそうなのだが、草野の書く詞には独特な世界観がある。閉塞感のある社会にあっても、希望を失わずしたたかに生きようとする叫びか。この曲もそうだ。

♪はぐれ狼 擬態は終わり 錆びついた槍を磨いて
 勝算は薄いけど 君を信じたい 鈍色の影を飛び越えていく♪



 さて、存在は知っていたが買うとは考えていなかった『THE SHADOW OF LOVE』(青江三奈)をポチッとした。20年も前に亡くなった演歌歌手最後のオリジナルアルバムだ。中味はJazzナンバーである。評判に違わず実にいい。スタンダードからアレンジした伊勢佐木町ブルースまで、あのハスキーボイスが響く。


 青江三奈を聞き流しながら、PC操作していたらAmazonからおススメメールが届く。案内されたのは、なんと藤圭子。そう来たかあ。演歌はほとんど興味なしだが…。実は、藤圭子ファンだったと白状しよう。私の年代からすれば自然なことだ。デビューは1969年。フォークソングが台頭した頃であり混沌の時代だ。


 懐かしいけど買わないよ、と思いつつ2枚組でヒット曲ともう一枚はカバー曲集である。カバー好きとしては指が動く。ほとんど演歌、流行歌であっても、あの曲を藤がどう歌い上げるか興味がわく。ああ声が好きなんだなと改めて自覚する。声の奥にドスが混じる歌い手は今はいないからなあ、と結局ポチリした。

『反教育論』③揺さぶることだ

2019年10月12日 | 読書
何はともあれ、揺さぶってみることだ。心も身体も。


2019読了91
『反教育論』(泉谷閑示 講談社現代新書)



 第三章「『教育』に潜む根本的問題」には、今まで書いたことを含めて、「そう言えば」と納得できる事項がたくさんあった。著者は大学教授で講義を担当しているが、「シラバス」にはとらわれず学生から出された問題について考え、心理学的知識に結びつけているという。そこには基礎⇒応用という流れの批判がある。


 かつて「降りていく学び」と称された方法に興味を覚えたことがある。具体的な場や事項を取り上げ、そのためにどんな知識・理解が必要か考え、学んでいく筋である。帰納的方法を取り入れた授業実践もわずかにある。積み上げていく学習とは一線を画し、ずいぶんと魅力的に感じたのは自分の性格とも結びつくか。


 「基礎があって応用が生まれる」と普通に語られることは「まったくの本末転倒である」と言い切っている。音楽の道を志した経験もあるらしい著者の舌鋒は鋭い。特に唸ったのはピアノ演奏者の多くが陥る傾向、つまり「音楽」を奏でるのではなく「ピアノ道」をつき進んでいるという批判には、目を見開かされた。


 以前「自分探し」が流行り、次いで批判も多く出た。私も探すべき自分などあるのかと批判的だった。しかし著者は「自分探し批判」にあるのは、その言説を説く側の「合理化」へのすり替えとする。「自分自身を見出す作業」を逃げず行うことは確かに大事であり、他へ立ち向かうためには必須と言えるかもしれない。


 世阿弥の有名な「守破離」、また弁証法の「正反合」。その段階に照らし合わせれば、「破」や「反」をもっと強調すべきと結論づけたい。言うに易く行うに難い。目指すべき「離」「合」に届かないとしても、「守」や「正」だけに留まるような教育のあり方では、幸せは遠のく。オオカミ性を目覚めさせ、伸ばすことだ。

『反教育論』を読み続ける②

2019年10月11日 | 読書
 この著は「反教育」と「反の教育」という二面性を持つようだ。


2019読了91
 『反教育論』(泉谷閑示 講談社現代新書)


 人間が育つために、本当に必要なことは「教育」か「学習」か。単純な二択がそもそも困難という考えもあるだろうが、どちらかを選ばねばならないとすれば、どう答えるか。「教育はなくとも学習はある」場は至る所に見られる。しかしまた「教育なしに育った」悲惨さについても、歴史上に数多の例が残っている。


 かの斎藤孝氏はかつて「教育欲」という語で日本人のある特性を示した。様々な場で「教育しなくては」という思いは充満し、善意として語られる。しかし、本来「学習」が好奇心に基づいて自発的に行われるのに対して、「教育」は対象者の興味・関心よりも、一定の目的のために体系的になされることを指している。


 そう考えると、自分も含めて教育を不可欠なものと捉え、直接的間接的を問わず当事者として子どもに接する大人は、根本に立ち戻って自らの行為を振り返る必要がある。著者はその下地として、「性悪説的人間観」を挙げている。学校教育の場は年々「やさしく」なっているとはいえ、その観点は払拭されてはいない。


 教師からの懲罰的指導が禁止され、表層的・形式的な平等感が蔓延して、集団による教育の場は揺らいでいる。また家庭という個別の場でも、親自体の経験をもとに反動として「性善説的人間観」を持ってしまい緩くなったり、逆に自己都合を押し付けたり、混乱、混迷の様相を呈している。その現況を冷静に見よう。


 「教育とは強制である」は我が師がよく口にする。この意味をどのレベルで理解し、どう運用するか、折に触れ考えてきた。それは強制してもやらせる価値を明確に認識することが出発点だった。ただし独りよがりにならず、教育という行為の持つ根本的な問題点を絶えず意識することに裏打ちされなければならない。