和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

庭の蜜柑。

2008-02-16 | Weblog
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)のはじまりは、アメリカの友人の「たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって、庭ばかりみている」という質問でした。アメリカ人ということで、連想として私に思い浮かんだのが、平岡敏夫著「『坊つちやん』の世界」(塙新書)。
そこに「 ただ一本の蜜柑の木  『坊つちやん』における自然と人間」という文が載っておりました。平岡氏の文はこうはじまっております。
「『坊つちやん』を読み返していて、これまでさして注意もしていなかった一本の蜜柑の木が意味深く思われるようになった。芥川龍之介の短篇『蜜柑』について、二、三年前、英訳を通してアメリカ人学生と勉強する機会があり、【蜜柑】の意味するものについても、新たな考えるところがあったという事情もあずかっているかも知れない。」
もうすこし引用を続けます。
「主人公の『おれ』は生徒を引率して練兵場で行われる日露戦争祝勝会に参列、余興は午後に行われるという話なので、ひとまず下宿に帰り、この間中から気になっていた清への返事を書こうとするが、なかなか書けない。ごろりと転がって肘枕をして庭の方を眺めているところで、はじめて一本の蜜柑があらわれる。
  『庭は十坪程の平庭で、是と云ふ植木もない。只一本の蜜柑があつて、塀のそとから、目標(めじるし)になる程高い。おれはうちへ帰ると、いつでも此蜜柑を眺める。・・・』 」(p128)

清への手紙を書こうとしてなかなか書けない。坊っちゃんは庭の蜜柑を眺めているのでした。
コメント
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