室生犀星の詩「小景異情」は「その一」から「その六」までありました。
以下、思い浮かぶままに。
山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」(新潮社)には週刊新潮の連載「夏彦の写真コラム」の最後のコラムが載っておりました。最後のコラムは題して「遠きみやこにかへらばや」。週刊新潮のグラビア冒頭のタイトルをそのままつかっておりました。「コメントによると13歳のとき漁船が座礁し救助され、39年ぶりに北朝鮮から生れ故郷の石川県に帰ってきた寺越武志(53)だと分かる・・・」「私は本誌編集長がこれを巻頭に据えた見識を嬉しく思わずにはいられない。ことにタイトルの文字がひっそりと小さく、また犀星の詩の一行を借りたのもさすが古い文芸出版社だと思わずにはいられない。蛇足だが若い読者のために詩の全部をかかげておく。題は『小景異情』のその二である。」
こうして、山本夏彦の週刊新潮の最後のコラムは、詩の引用で終わっておりました。詩(その二)を引用しておきましょう。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
夏彦のこのコラムは平成14年10月24日号とあります。
三好達治著「諷詠十二月」に、こんな箇所がありました。
「私は年少の時分から室生犀星氏の初期の抒情詩を酷愛して、今日においてもほとんど変るところがない者であるが、特に『小景異情』などはその――世間もそう見ているように、代表的の作品と推すに憚らない。」
こうして三好達治は『小景異情』の「その二」と「その五」とを引用しておりました。ここに「その五」を引用してみましょう(三好達治氏の引用の仕方で)。
何にこがれて書く詩(うた)ぞ
一時にひらく梅すもも
すももの青さ身にあびて
田舎ぐらしの安らかさ
今日も母ぢやに叱られて
すももの下に身をよせぬ
ふつう、小景異情は、その二が引用されることが多いので、
三好達治氏が「小景異情」の抄出で「その二」と「その五」を引用したのには、ハッとしました。さてっと。杉山平一著「窓開けて」(編集工房ノア)をめくっていたら、こんな箇所がありました。
「室生犀星は、庭造りの名人だったが、若い頃から、その貧しい下宿部屋も、きちんと整頓されていたらしい。その昔の小学生でも使いそうな、うす汚い机も、から布巾をかけたように磨かれていて、その上に、一枚のなんでもない西洋紙がおいてあるとそれが外来者にはすばらしい紙に見えたという。安物のろうそくを立ててあっても、まるで、象牙のように、高貴なものに見えたらしい。それは、室生犀星の、文字言葉を組み合わせによって艶々とさせた天才の資質の雰囲気によるのは勿論だが、物は、すべて、それをとりまく環境、配置の関係によって、存在するということである。」(p39~40)
こう引用を重ねると、私は「小景異情」の最後の「その六」を引用したくなりました。
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
以下、思い浮かぶままに。
山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」(新潮社)には週刊新潮の連載「夏彦の写真コラム」の最後のコラムが載っておりました。最後のコラムは題して「遠きみやこにかへらばや」。週刊新潮のグラビア冒頭のタイトルをそのままつかっておりました。「コメントによると13歳のとき漁船が座礁し救助され、39年ぶりに北朝鮮から生れ故郷の石川県に帰ってきた寺越武志(53)だと分かる・・・」「私は本誌編集長がこれを巻頭に据えた見識を嬉しく思わずにはいられない。ことにタイトルの文字がひっそりと小さく、また犀星の詩の一行を借りたのもさすが古い文芸出版社だと思わずにはいられない。蛇足だが若い読者のために詩の全部をかかげておく。題は『小景異情』のその二である。」
こうして、山本夏彦の週刊新潮の最後のコラムは、詩の引用で終わっておりました。詩(その二)を引用しておきましょう。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
夏彦のこのコラムは平成14年10月24日号とあります。
三好達治著「諷詠十二月」に、こんな箇所がありました。
「私は年少の時分から室生犀星氏の初期の抒情詩を酷愛して、今日においてもほとんど変るところがない者であるが、特に『小景異情』などはその――世間もそう見ているように、代表的の作品と推すに憚らない。」
こうして三好達治は『小景異情』の「その二」と「その五」とを引用しておりました。ここに「その五」を引用してみましょう(三好達治氏の引用の仕方で)。
何にこがれて書く詩(うた)ぞ
一時にひらく梅すもも
すももの青さ身にあびて
田舎ぐらしの安らかさ
今日も母ぢやに叱られて
すももの下に身をよせぬ
ふつう、小景異情は、その二が引用されることが多いので、
三好達治氏が「小景異情」の抄出で「その二」と「その五」を引用したのには、ハッとしました。さてっと。杉山平一著「窓開けて」(編集工房ノア)をめくっていたら、こんな箇所がありました。
「室生犀星は、庭造りの名人だったが、若い頃から、その貧しい下宿部屋も、きちんと整頓されていたらしい。その昔の小学生でも使いそうな、うす汚い机も、から布巾をかけたように磨かれていて、その上に、一枚のなんでもない西洋紙がおいてあるとそれが外来者にはすばらしい紙に見えたという。安物のろうそくを立ててあっても、まるで、象牙のように、高貴なものに見えたらしい。それは、室生犀星の、文字言葉を組み合わせによって艶々とさせた天才の資質の雰囲気によるのは勿論だが、物は、すべて、それをとりまく環境、配置の関係によって、存在するということである。」(p39~40)
こう引用を重ねると、私は「小景異情」の最後の「その六」を引用したくなりました。
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ