三好達治著「諷詠十二月」(潮文庫)と萩原朔太郎著「恋愛名歌集」(創元文庫)とを、どちらも古本で読みました。どちらも魅力ある本で、さて次に私はどうしましょう。とボンヤリ思っておりました。もう一度、二冊を読み直してみる。あるいは萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」と三好達治著「詩を読む人のために」(どちらも岩波文庫にあります)を読もうかなあ。などと、あまり読書家じゃない私は、あらぬことを考えるわけです。すると「下手の考え休むに似たり」で、あれこれと思いがふわふわ移動しはじめるわけです。
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)には、けっこう古本も混じって紹介されております。たとえば萩原朔太郎の「恋愛名歌集」は古本で、「郷愁の詩人 与謝蕪村」は普通に簡単に手には入ります。山村修さんが、それで新書の中で、薦めているのは古本の「恋愛名歌集」の方でした。
森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に「新本だけを買って、古本を漁る趣味を解しない読書家は、まだまだ書物に対して語る資格の乏しい人だといってよいであろう。」(p91)とあります。最近は、ネットで古本を簡単に手にすることができるので、私など、ただただありがたく、うれしいのでした。
せっかく「書物」から引用しているので、もうすこし続けます。
「詩歌という芸術をあまりに容易に考えている人が多過ぎる。そしてその方面の専門家を以って任じている人々の歌集や句集も、一人よがりの、その仲間だけにしか通用しないようなものがあまりに多過ぎる。詩歌の方面では、いわゆる大家から小家までが、一人天狗となり、夜郎自大の幣に陥っているのではないかと思われる。忌憚なくいえば、私には現代の詩歌界が健全な状態にあるとは思われないのである。」(p138)
うんうん。健全な状態にする本として
萩原朔太郎著「恋愛名歌集」
三好達治著「諷詠十二月」
私はこの二冊を読んだのだなあ、と一人思っているところです。
ちなみに、森銑三・柴田宵曲著「書物」は
最初が1944(昭和19)年刊行。
戦後は1948(昭和23)年の増補刊行されたとのことです。
え~と。わたしは何を思っていたのでしたっけ。
とんと。物忘れで、元にもどらず、あらぬほうへと気がそれる。
それで。そういう備忘録として、書いているのでした。
でもね。思いつきは大事です。と、それだけがたよりです。
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)には、けっこう古本も混じって紹介されております。たとえば萩原朔太郎の「恋愛名歌集」は古本で、「郷愁の詩人 与謝蕪村」は普通に簡単に手には入ります。山村修さんが、それで新書の中で、薦めているのは古本の「恋愛名歌集」の方でした。
森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に「新本だけを買って、古本を漁る趣味を解しない読書家は、まだまだ書物に対して語る資格の乏しい人だといってよいであろう。」(p91)とあります。最近は、ネットで古本を簡単に手にすることができるので、私など、ただただありがたく、うれしいのでした。
せっかく「書物」から引用しているので、もうすこし続けます。
「詩歌という芸術をあまりに容易に考えている人が多過ぎる。そしてその方面の専門家を以って任じている人々の歌集や句集も、一人よがりの、その仲間だけにしか通用しないようなものがあまりに多過ぎる。詩歌の方面では、いわゆる大家から小家までが、一人天狗となり、夜郎自大の幣に陥っているのではないかと思われる。忌憚なくいえば、私には現代の詩歌界が健全な状態にあるとは思われないのである。」(p138)
うんうん。健全な状態にする本として
萩原朔太郎著「恋愛名歌集」
三好達治著「諷詠十二月」
私はこの二冊を読んだのだなあ、と一人思っているところです。
ちなみに、森銑三・柴田宵曲著「書物」は
最初が1944(昭和19)年刊行。
戦後は1948(昭和23)年の増補刊行されたとのことです。
え~と。わたしは何を思っていたのでしたっけ。
とんと。物忘れで、元にもどらず、あらぬほうへと気がそれる。
それで。そういう備忘録として、書いているのでした。
でもね。思いつきは大事です。と、それだけがたよりです。