杉山平一氏のコラムが面白そうです。1914年生れの杉山平一氏。
古本で買ったのですが、私が最初に興味深く読んだのは「戦後関西詩壇回想」(思潮社)でした。それを楽しく読んだので、思いつくと、少しずつ古本をそろえております。昨日届いた杉山氏の本に「映像の論理・詩の論理」(創元社)という本があります。いかめしい題名なので、どんな本だろうと思いながら開いてみると、これが何と書評紙「図書新聞」に三百回にわたって連載したコラムを中心にして短文をまとめた一冊なのだそうです。あとがきの最後には、昭和62年夏とあります。
面白いのはですね。たとえば、私は杉山平一著「三好達治 風景と音楽」(編集工房ノア)を最近パラパラとめくっているのです。それがどうも面白くないなあ。と思っておりました。すると、「映像の論理・詩の論理」のあとがきに、杉山氏ご自身が書かれております。「短文ばかりをあつめたが、わたしは長いものを書くとボロが出てくる。世上、短いものは、ちぢめるのに骨身を削る苦心をするというが、わたしは、長い方が苦手で、長く引き伸ばすのに苦労するたちである。ここで残念ながら紙数が尽きたなどという論文や文章を読むと癪にさわる方である。・・」。
この箇所を読んだときは、思わず笑ってしまいました。
あとがきには、こうもあります。
「映画でも詩でも、わたしの興の赴くままを書いた。東京にいる学生時代の友人との雑談のつもりで、もとより書き捨てのつもりだった。」とあります。
天然の湧水が沁みだすような、短文に自然な流露感があるのです。これは魅力のコラムに出会ったようです。
私もまだろくに読んでいないのですが、ぱらぱらとめくって興味をひいた箇所を引用してみますね。
「蒸気機関車」と題したコラムは、こうはじまっていました。
「詩人というのは、大人になりきれないでいる一種の子供であるから、機関車などが大へん好きだ。中野重治から、三好達治、安西冬彦、丸山薫、近藤東と、機関車の詩は実に多い。・・・」(p174)
それじゃ、子供はどうかというと、「比喩」と題した短文は、「田中冬彦全集が出て大へんうれしい。」とはじまっていて、そこに出てくる「セルの着物」のことから、話題をひろげておりました。
「比喩が時代と共にかわるということである。私は『毎日小学生新聞』の詩の選をやっていたが、子供の詩でも、しびれた足を、サイダーになった、といっていたのが、高速道路のトンネルを、バヤリースのオレンジジュースの中にはいったようだ、というふうにかわったと思っていたら、さきごろは、日なたぼっこを、電気毛布にくるまっているようだ、という子がでてきた。明治のころ、パンが入ってきたとき、小学校の先生が、パンとは麩(ふ)のようなものだと説明したときいたが、映画などで、ぼたん雪が降るとき、真綿や、麩をちぎって降らせたらしい。ところが、最近、子供の詩に、雪が、発泡スチロールのように、ふわりふわりと降ってきたというのにぶつかった。どんどん新しくなるようである。・・・・」(p149)
それにしても、「詩人というのは、大人になりきれないでいる一種の子供であるから」というのは、すごい指摘ですね。普通のコラムでは、とんとお目にかかれない言葉です。
古本で買ったのですが、私が最初に興味深く読んだのは「戦後関西詩壇回想」(思潮社)でした。それを楽しく読んだので、思いつくと、少しずつ古本をそろえております。昨日届いた杉山氏の本に「映像の論理・詩の論理」(創元社)という本があります。いかめしい題名なので、どんな本だろうと思いながら開いてみると、これが何と書評紙「図書新聞」に三百回にわたって連載したコラムを中心にして短文をまとめた一冊なのだそうです。あとがきの最後には、昭和62年夏とあります。
面白いのはですね。たとえば、私は杉山平一著「三好達治 風景と音楽」(編集工房ノア)を最近パラパラとめくっているのです。それがどうも面白くないなあ。と思っておりました。すると、「映像の論理・詩の論理」のあとがきに、杉山氏ご自身が書かれております。「短文ばかりをあつめたが、わたしは長いものを書くとボロが出てくる。世上、短いものは、ちぢめるのに骨身を削る苦心をするというが、わたしは、長い方が苦手で、長く引き伸ばすのに苦労するたちである。ここで残念ながら紙数が尽きたなどという論文や文章を読むと癪にさわる方である。・・」。
この箇所を読んだときは、思わず笑ってしまいました。
あとがきには、こうもあります。
「映画でも詩でも、わたしの興の赴くままを書いた。東京にいる学生時代の友人との雑談のつもりで、もとより書き捨てのつもりだった。」とあります。
天然の湧水が沁みだすような、短文に自然な流露感があるのです。これは魅力のコラムに出会ったようです。
私もまだろくに読んでいないのですが、ぱらぱらとめくって興味をひいた箇所を引用してみますね。
「蒸気機関車」と題したコラムは、こうはじまっていました。
「詩人というのは、大人になりきれないでいる一種の子供であるから、機関車などが大へん好きだ。中野重治から、三好達治、安西冬彦、丸山薫、近藤東と、機関車の詩は実に多い。・・・」(p174)
それじゃ、子供はどうかというと、「比喩」と題した短文は、「田中冬彦全集が出て大へんうれしい。」とはじまっていて、そこに出てくる「セルの着物」のことから、話題をひろげておりました。
「比喩が時代と共にかわるということである。私は『毎日小学生新聞』の詩の選をやっていたが、子供の詩でも、しびれた足を、サイダーになった、といっていたのが、高速道路のトンネルを、バヤリースのオレンジジュースの中にはいったようだ、というふうにかわったと思っていたら、さきごろは、日なたぼっこを、電気毛布にくるまっているようだ、という子がでてきた。明治のころ、パンが入ってきたとき、小学校の先生が、パンとは麩(ふ)のようなものだと説明したときいたが、映画などで、ぼたん雪が降るとき、真綿や、麩をちぎって降らせたらしい。ところが、最近、子供の詩に、雪が、発泡スチロールのように、ふわりふわりと降ってきたというのにぶつかった。どんどん新しくなるようである。・・・・」(p149)
それにしても、「詩人というのは、大人になりきれないでいる一種の子供であるから」というのは、すごい指摘ですね。普通のコラムでは、とんとお目にかかれない言葉です。