昨日遅くにポストに藤井貞和著「古典の読み方」(講談社学術文庫)が届いておりました。というか、飲んで22時ごろに帰ってきて、ポストを開けてみると、そこに本が。今日はその本の第2章までを読んでおりました。そこに徒然草が登場する箇所があり、ちょっと引用したくなった、というわけです。
その箇所はですね。
「もし読者が社会人で、いま初心に返って古典を読もうとしているとしたら、・・私は何といっても『徒然草』を第一に推す。何だ、『徒然草』か、と軽視してはいけない。・・・」
「『徒然草』の読者にふさわしい年齢は著者とだいたい同じの、四十台後半ではなかろうか。・・・『徒然草』は、若者の古典入門書のようにして読まれてきたけれども、それは準備にすぎないので、読者は成長しながら三十台にはいって一度、四十台にはいってもう一度と、繰り返し読んでよい古典文学だ、ということをここで言いたいのにすぎない。」
ここからあとの文章が、忘れがたいのでした。
「『徒然草』はだから一度読み終えたら書棚にしまうことになる。いつかそれを再び取りだす日が来るだろう。でもしばらくは書棚のなかで眠ってもらうことにする。これもだいじなことだ。書物は生き物である。生き物には眠りが必要だ。机の上にいつまでも起こしておくのはかわいそうである。愛読書であればあるほど、眠りを与えてやることは、読書家の愛情だと思う。いつまでも同じ書物にこだわるのは、対人間の場合ならいさ知らず、書物を相手にするかぎり得策でない。愛読書を眠らせてやること、これが秘訣である。・・ほんとうの愛読書なら、いつかあなたの心のなかで、眠りから目ざめるときがきっと来ることだろう。そのときの新鮮さは格別の味わいがある。」(p44~p48)
うん。「いつまでも起こしておくのはかわいそうである」というのが何とも愛読書のイメージを喚起します。自分だけじゃなくて、本も眠りが必要だとは、なにやら思いがけなく、その眠りから覚める味わいのよろこびを知った方の言葉なのでしょうね。
その箇所はですね。
「もし読者が社会人で、いま初心に返って古典を読もうとしているとしたら、・・私は何といっても『徒然草』を第一に推す。何だ、『徒然草』か、と軽視してはいけない。・・・」
「『徒然草』の読者にふさわしい年齢は著者とだいたい同じの、四十台後半ではなかろうか。・・・『徒然草』は、若者の古典入門書のようにして読まれてきたけれども、それは準備にすぎないので、読者は成長しながら三十台にはいって一度、四十台にはいってもう一度と、繰り返し読んでよい古典文学だ、ということをここで言いたいのにすぎない。」
ここからあとの文章が、忘れがたいのでした。
「『徒然草』はだから一度読み終えたら書棚にしまうことになる。いつかそれを再び取りだす日が来るだろう。でもしばらくは書棚のなかで眠ってもらうことにする。これもだいじなことだ。書物は生き物である。生き物には眠りが必要だ。机の上にいつまでも起こしておくのはかわいそうである。愛読書であればあるほど、眠りを与えてやることは、読書家の愛情だと思う。いつまでも同じ書物にこだわるのは、対人間の場合ならいさ知らず、書物を相手にするかぎり得策でない。愛読書を眠らせてやること、これが秘訣である。・・ほんとうの愛読書なら、いつかあなたの心のなかで、眠りから目ざめるときがきっと来ることだろう。そのときの新鮮さは格別の味わいがある。」(p44~p48)
うん。「いつまでも起こしておくのはかわいそうである」というのが何とも愛読書のイメージを喚起します。自分だけじゃなくて、本も眠りが必要だとは、なにやら思いがけなく、その眠りから覚める味わいのよろこびを知った方の言葉なのでしょうね。