日曜日に三好達治著「諷詠十二月」(潮文庫・古本)を読みました。
あんまり楽しかったので、本文の引用は、ちょっとあとまわし。
いろいろと関係ない寄り道をしてみたいと思います。
私はなかなか本を読めないタイプでございます。これがいいよ。と書かれていても、せいぜい本を買っとくのですが、積読どまり。興味を持った人、数人が薦めているのを確認して、それから、あらためて読み始める。という腰の重さ(なんとも贅沢な)。さて、この本もそうでした。
ところで、山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)がありました。入門書を紹介しているのですが、そこに紹介されている本を、私は読もうと思っているのです、ですが思うだけ。笑って下さい。結局、今その新書をパラパラとめくってみると、どれもほとんど読んでいないことに気づかされます。何てこった。です。こう云う場合にはめげずに、せいぜい読みたい本の題名だけでも覚えておくことにします。すると、あとで何処かで、引っかかってくることがあるかもしれない。という望み。その山村修さんの新書に萩原朔太郎著「恋愛名歌集」が紹介されておりました。
それから少しして、谷沢永一・渡部昇一対談「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)を読んでいたら、こうあったのです。
【渡部】・・万葉集をみんな読むとか、古今集をみんな読むとか、そういうことをする必要があるかといえば、私は懐疑的です。何といっても大変ですからね(笑)。そういうことをしなくても、萩原朔太郎の『恋愛名歌集』でいいんです。そうするとあれは、注も面倒臭くないけれども、スッと読んでわかるのがほとんど全部ですから。・・・
【谷沢】ええ、その通り。つまり、全巻の全部の注釈を隅から隅までなどというのは専門の学者のやることであって、一般読書人は一番の早道、近道を通ったらいいと思う。萩原朔太郎の『恋愛名歌集』の他にも、たとえば三好達治の『諷詠十二月』とかいろいろあります。・・・とにかく、何でもいいんです。ご縁があったらよろしい。縁談と一緒で、自分にとっていいご縁であればいいのであって、相手がミス日本であるかどうかということは関係ない(笑)。 (p143~144)
こうして、私といったら、2冊の本で薦めている『恋愛名歌集』を古本の文庫本で買ったわけです。買ったのですが、読まない(笑)。いまだにそのままになっております。こうして読まない本のことを書いていると、ますます読まないぞ、とでも云っているような気分になってくるじゃありませんか(笑)。こうして、そのままになっておりました。最近杉山平一の本を少しづつ読んでおります。すると、杉山平一著「三好達治 風景と音楽」(編集工房ノア)というのがあることに気づきました。さっそく読みはじめると19~20頁に、三好達治著「諷詠十二月」からの引用が出てくるのでした。そういえば。と思って、杉山平一の本は途中でやめて、古本で買ってあった『諷詠十二月』を読み始めたというわけです。
ここまでで、私は『恋愛名歌集』を読んでいない。そして『三好達治 風景と音楽』も20頁しか読んでいないのでした。なんとも好き勝手な本読みで、喰い散らかしの道楽読者で、中途半端も極れリ。というところでしょうか。それでもって、読後、文庫『諷詠十二月』の最後に載っている石原八束氏の解説を読んでいたら、こんな箇所がありました。
ちなみにこの本は初版が昭和17年だそうです。
「新潮叢書の一篇として、河盛好蔵氏のすすめにより、全篇を書下して刊行され、版を重ねてベストセラーを続けた。・・刊行後、出版文化協会第三回推薦図書に指定され・・」
「この当時の戦時下の暗い燈下で学生生活を送っていたもの、勤労動員で工場に行くもの等々で、この『諷詠十二月』を転読した人は私の知るかぎりでも非常に多い。詩人の安西均氏も『私たちの世代がむさぼり読んだ』ことを言い、また女流詩人の茨木のり子さんが、『私も二十才の頃、郷里でかまどの火をたきつつ、その火照りの下で楽しく読んだ記憶があります。自分では意識していなくても、やはりこの本は、私のなかになんらかの影響を与えているとおもいます』と安西氏に書き送っていることを報告している。」
この箇所を読んだとき、私に思い浮かんだのは茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)でした。三好達治著『諷詠十二月』の心意気を、現代詩に特定して書き進めたのが茨木のり子著『詩のこころを読む』だったのじゃないかと、そんな道筋がぼんやりと思い浮かんできたのでした。
ということで『諷詠十二月』の内容を語らずに、ご縁ばかりを語ったという、お粗末でした。どんとお笑い。
あんまり楽しかったので、本文の引用は、ちょっとあとまわし。
いろいろと関係ない寄り道をしてみたいと思います。
私はなかなか本を読めないタイプでございます。これがいいよ。と書かれていても、せいぜい本を買っとくのですが、積読どまり。興味を持った人、数人が薦めているのを確認して、それから、あらためて読み始める。という腰の重さ(なんとも贅沢な)。さて、この本もそうでした。
ところで、山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)がありました。入門書を紹介しているのですが、そこに紹介されている本を、私は読もうと思っているのです、ですが思うだけ。笑って下さい。結局、今その新書をパラパラとめくってみると、どれもほとんど読んでいないことに気づかされます。何てこった。です。こう云う場合にはめげずに、せいぜい読みたい本の題名だけでも覚えておくことにします。すると、あとで何処かで、引っかかってくることがあるかもしれない。という望み。その山村修さんの新書に萩原朔太郎著「恋愛名歌集」が紹介されておりました。
それから少しして、谷沢永一・渡部昇一対談「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)を読んでいたら、こうあったのです。
【渡部】・・万葉集をみんな読むとか、古今集をみんな読むとか、そういうことをする必要があるかといえば、私は懐疑的です。何といっても大変ですからね(笑)。そういうことをしなくても、萩原朔太郎の『恋愛名歌集』でいいんです。そうするとあれは、注も面倒臭くないけれども、スッと読んでわかるのがほとんど全部ですから。・・・
【谷沢】ええ、その通り。つまり、全巻の全部の注釈を隅から隅までなどというのは専門の学者のやることであって、一般読書人は一番の早道、近道を通ったらいいと思う。萩原朔太郎の『恋愛名歌集』の他にも、たとえば三好達治の『諷詠十二月』とかいろいろあります。・・・とにかく、何でもいいんです。ご縁があったらよろしい。縁談と一緒で、自分にとっていいご縁であればいいのであって、相手がミス日本であるかどうかということは関係ない(笑)。 (p143~144)
こうして、私といったら、2冊の本で薦めている『恋愛名歌集』を古本の文庫本で買ったわけです。買ったのですが、読まない(笑)。いまだにそのままになっております。こうして読まない本のことを書いていると、ますます読まないぞ、とでも云っているような気分になってくるじゃありませんか(笑)。こうして、そのままになっておりました。最近杉山平一の本を少しづつ読んでおります。すると、杉山平一著「三好達治 風景と音楽」(編集工房ノア)というのがあることに気づきました。さっそく読みはじめると19~20頁に、三好達治著「諷詠十二月」からの引用が出てくるのでした。そういえば。と思って、杉山平一の本は途中でやめて、古本で買ってあった『諷詠十二月』を読み始めたというわけです。
ここまでで、私は『恋愛名歌集』を読んでいない。そして『三好達治 風景と音楽』も20頁しか読んでいないのでした。なんとも好き勝手な本読みで、喰い散らかしの道楽読者で、中途半端も極れリ。というところでしょうか。それでもって、読後、文庫『諷詠十二月』の最後に載っている石原八束氏の解説を読んでいたら、こんな箇所がありました。
ちなみにこの本は初版が昭和17年だそうです。
「新潮叢書の一篇として、河盛好蔵氏のすすめにより、全篇を書下して刊行され、版を重ねてベストセラーを続けた。・・刊行後、出版文化協会第三回推薦図書に指定され・・」
「この当時の戦時下の暗い燈下で学生生活を送っていたもの、勤労動員で工場に行くもの等々で、この『諷詠十二月』を転読した人は私の知るかぎりでも非常に多い。詩人の安西均氏も『私たちの世代がむさぼり読んだ』ことを言い、また女流詩人の茨木のり子さんが、『私も二十才の頃、郷里でかまどの火をたきつつ、その火照りの下で楽しく読んだ記憶があります。自分では意識していなくても、やはりこの本は、私のなかになんらかの影響を与えているとおもいます』と安西氏に書き送っていることを報告している。」
この箇所を読んだとき、私に思い浮かんだのは茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)でした。三好達治著『諷詠十二月』の心意気を、現代詩に特定して書き進めたのが茨木のり子著『詩のこころを読む』だったのじゃないかと、そんな道筋がぼんやりと思い浮かんできたのでした。
ということで『諷詠十二月』の内容を語らずに、ご縁ばかりを語ったという、お粗末でした。どんとお笑い。