和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

Fukushima 50

2013-02-01 | 本棚並べ
2011年3月11日の東日本大震災の報道で、
日本の報道では忘れられていた視点を提供してくれて、
驚きとともに、思い知らされたのは、
「Fukushima50」フクシマフィフティでした。
当時のことを知るブログを引用させてもらいます。

「地震発生後約800人いた作業員たちは、15日の4号機の火災の後750名が退避。
現在は50名が監視などの為に残り作業を続けています。各国メディアは彼らを『フクシマ フィフティ(Fukushima 50)』と呼び、「名も無い勇者たち」と称えています。
最前線で危険な作業をしているのは、東京電力の社員のほか、東電工業、東電環境エンジニアリング、ゼネコンの鹿島、そして原子炉を製造した東芝と日立のメーカーの社員たちです。・・・」


それが、どのような方々だったのかを調べられた本が
2012年12月に出ており、昨日読み終えました。
門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)。

テレビ報道は、ただただ政府発表を繰り返しいる最中、
Fukushima50の方々は、どのように行動していたのかを知る最良の一冊。
その方々は、どう思われていたのか
門田氏はあとがきで、こう指摘しておりました。
「私が最も驚いたのは、彼らがその行為を『当然のこと』と捉え、今もって敢えて話すほどでもないことだと思っていたことだ。」(p373)

本文からは、まずは、ここを引用しておきます。

「すでに、身体はぼろぼろになっていた。免震重要棟のトイレは、真っ赤になっていた、と伊沢は言う。『トイレは水も出ないから悲惨ですよ。流すこともできませんからね。みんなして仮設のトイレを運んできて、それが一杯になったら、また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。あとで、三月下旬になって、水が出るようになっても、小便器自体は、ずっと真っ赤でした、誰もが疲労の極にありましたからね』およそ六百人が退避して、免震重要棟に残ったのは『六十九人』だった。海外メディアによって、のちに【フクシマフィフティ】と呼ばれた彼らは、そんな過酷な環境の中で、目の前にある『やらなければならないこと』に黙々と立ち向かった。」(p278)

門田氏が、吉田昌郎氏への取材をした時期も重要でした。

「その吉田所長が私の取材に答えてくれたのは、食道癌の手術が終わって、脳内出血で倒れるまでの短い期間、2012年7月のことだった。」(p355)

こうして、貴重な一冊を読むことが出来るのでした。
読ませていただきありがとうございます。


コメント
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