曽野綾子著「この世に恋して」(WAC)には
副題として「曽野綾子自伝」とあります。
本を読み終って、しばらくしてから、
その一節が何気なく思い浮かんでくることってあります。
「この世に恋して」を読むと、
こりゃ、何気なく思い浮かぶ箇所が何か所も出てくるなあ。
という印象をもちました。
ということで、そのひとつ。
「聖心女子学院」について、引用させてください。
まず、こんな箇所があります。
「私は幼稚園のときからカトリックの修道院が経営する聖心女子学院に入れられました。帰国子女が多いけれど大財閥の娘は少ない。まだ有名でもない学校でした。」
うん。曽野綾子は昭和6年(1931年)生まれ。
ちなみに、須賀敦子は昭和4年(1929年)生まれ。
須賀氏は6歳の時に、西宮市の小林聖心女子学院小学部に入学。
8歳の時に、東京へ来て、白金の聖心女子学院小学部三年に編入。
12歳の時に、聖心女子学院高等女学校に入学。
その12歳の時は、昭和16年で12月8日太平洋戦争勃発。・・
昭和23年(1948年)新設された聖心女子大学外国学部英語・英文科二年に編入。
昭和26年(1951年)聖心女子大学を卒業。第一回生同期の35名のうち、
後年、シスターになった者は14名。・・・・
もどって、曽野さんの「この世に恋して」を引用していきます。
「戦前は小学校を出ると高等女学校に進むんです。高等女学校は五年までありました。たいていの人は高等女学校を出るとお嫁に行くことになっていました。その当時の聖心は幼稚園、小学校、高等女学校は白金三光町にありました。・・当時の聖心は二万坪あって、敷地の一部には畑を作って牛も飼っていました。これが修道院のしきたりなんです。シスターたちはヨーロッパの各地から船で日本の横浜に着くと、そのまま迎えの車に乗ってこの三光町の修道院に入り、一生そこから出ないしきたりでした。・・・・当時は修道院の中に入ったらもう出ないのが普通でした。お墓は富士の裾野に作ってありました。」(p35~)
「幼稚園の入試は、『お名前は?』『お年は?』と聞くだけ。二つに答えられたらもう合格。本当にいい時代でした。外国のシスターもいて、幼稚園から英語の詩を習いました。私の受け持ちは英国人のシスターでした。英国王室の図書館長の娘だったとも言われています。
そのシスターが黒い修道服に前掛けをして、暇さえあればトイレ掃除をしておられました。身分や受けた高等教育に関係なく、人は床にひざまずいて掃除をするものだということも私は習いました。」
「戦前ですから学校には天皇皇后両陛下の御真影が下賜(かし)されていて、生徒たちはその前ではお辞儀をすることになっていました。『人間の王』に対しては礼儀を尽くす。でも本当の偉大なるものは神なんだとわかっていますから、別に違和感はないんです。御真影は特別の小さなお社の格好をした奉安殿の中に収められていて、各校にあるんです。戦後、文部省のお役人ですかね、それを回収に聖心にまで来たんだそうです。時の校長先生はドイツ人の修道女で『どこに国家元首の肖像に対して礼を尽くさない国がありますか。それでも欲しければ御真影だけを持っていきなさい。お社は美術品だから置いていきなさい』と言ったそうです。これも一つの抵抗の姿勢です。学校で教えられたのは、『国際的であろうとするならば、その国の人として立派な人間になれ』ということでした。」(~p40)
ところで、この本を読んでゆくと、
最後の方に、皇后さまが登場しております。
「皇后様は聖心女子大学の三級下でした。
卒業後に人生のことを時々お話するようになりました。・・
私は長く聖書を勉強してきましたから、聖書の言葉を話題にすることもありましたが、皇后様が研究者のように深く理解しておられて驚くことがあります。・・
いつかたまたま皇后様からご連絡があったとき、アフリカのマダガスカルからシスターが二人、南アフリカ共和国、南米のボリビアから神父がお一人ずつ、日本にいらしてたことがありました。私が何の気なしに『こういう方々のお話を直にお聞きになっていただける機会があるとよろしいのですが』とお話したら、数日後に来るようにとのお言葉でした。それで皇居にお邪魔することになり、お茶の時間を挟んでそれぞれの国の事情をじっくり話していただきました。
その後で私はシスターたちにきわめてジャーナリスティックな質問をしたんです。『ところで皇后様のご印象はいかがでした?』。するとシスターたちは数秒間考えた後、一人が『シスターみたいでした』と答えました。その言葉が私には実によくわかったんです。皇后様にも様々な暮らしに対するご興味がおありでしょう。しかし皇后様は日本という国のあり方の基本を守るために、一切の個人的な選択をすでにお捨てになっているように思えます。陛下のご任務に殉じるためです。その覚悟の程をシスターたちはひしひしと感じたのだと思います。
私が一番恵まれていたのは、たくさんの個性的な魂に出会えたことです。人脈という言葉は好きではありませんが、人脈は作ろうとせず、利用しようとしないとできるものかもしれませんね。」(~p191)
副題として「曽野綾子自伝」とあります。
本を読み終って、しばらくしてから、
その一節が何気なく思い浮かんでくることってあります。
「この世に恋して」を読むと、
こりゃ、何気なく思い浮かぶ箇所が何か所も出てくるなあ。
という印象をもちました。
ということで、そのひとつ。
「聖心女子学院」について、引用させてください。
まず、こんな箇所があります。
「私は幼稚園のときからカトリックの修道院が経営する聖心女子学院に入れられました。帰国子女が多いけれど大財閥の娘は少ない。まだ有名でもない学校でした。」
うん。曽野綾子は昭和6年(1931年)生まれ。
ちなみに、須賀敦子は昭和4年(1929年)生まれ。
須賀氏は6歳の時に、西宮市の小林聖心女子学院小学部に入学。
8歳の時に、東京へ来て、白金の聖心女子学院小学部三年に編入。
12歳の時に、聖心女子学院高等女学校に入学。
その12歳の時は、昭和16年で12月8日太平洋戦争勃発。・・
昭和23年(1948年)新設された聖心女子大学外国学部英語・英文科二年に編入。
昭和26年(1951年)聖心女子大学を卒業。第一回生同期の35名のうち、
後年、シスターになった者は14名。・・・・
もどって、曽野さんの「この世に恋して」を引用していきます。
「戦前は小学校を出ると高等女学校に進むんです。高等女学校は五年までありました。たいていの人は高等女学校を出るとお嫁に行くことになっていました。その当時の聖心は幼稚園、小学校、高等女学校は白金三光町にありました。・・当時の聖心は二万坪あって、敷地の一部には畑を作って牛も飼っていました。これが修道院のしきたりなんです。シスターたちはヨーロッパの各地から船で日本の横浜に着くと、そのまま迎えの車に乗ってこの三光町の修道院に入り、一生そこから出ないしきたりでした。・・・・当時は修道院の中に入ったらもう出ないのが普通でした。お墓は富士の裾野に作ってありました。」(p35~)
「幼稚園の入試は、『お名前は?』『お年は?』と聞くだけ。二つに答えられたらもう合格。本当にいい時代でした。外国のシスターもいて、幼稚園から英語の詩を習いました。私の受け持ちは英国人のシスターでした。英国王室の図書館長の娘だったとも言われています。
そのシスターが黒い修道服に前掛けをして、暇さえあればトイレ掃除をしておられました。身分や受けた高等教育に関係なく、人は床にひざまずいて掃除をするものだということも私は習いました。」
「戦前ですから学校には天皇皇后両陛下の御真影が下賜(かし)されていて、生徒たちはその前ではお辞儀をすることになっていました。『人間の王』に対しては礼儀を尽くす。でも本当の偉大なるものは神なんだとわかっていますから、別に違和感はないんです。御真影は特別の小さなお社の格好をした奉安殿の中に収められていて、各校にあるんです。戦後、文部省のお役人ですかね、それを回収に聖心にまで来たんだそうです。時の校長先生はドイツ人の修道女で『どこに国家元首の肖像に対して礼を尽くさない国がありますか。それでも欲しければ御真影だけを持っていきなさい。お社は美術品だから置いていきなさい』と言ったそうです。これも一つの抵抗の姿勢です。学校で教えられたのは、『国際的であろうとするならば、その国の人として立派な人間になれ』ということでした。」(~p40)
ところで、この本を読んでゆくと、
最後の方に、皇后さまが登場しております。
「皇后様は聖心女子大学の三級下でした。
卒業後に人生のことを時々お話するようになりました。・・
私は長く聖書を勉強してきましたから、聖書の言葉を話題にすることもありましたが、皇后様が研究者のように深く理解しておられて驚くことがあります。・・
いつかたまたま皇后様からご連絡があったとき、アフリカのマダガスカルからシスターが二人、南アフリカ共和国、南米のボリビアから神父がお一人ずつ、日本にいらしてたことがありました。私が何の気なしに『こういう方々のお話を直にお聞きになっていただける機会があるとよろしいのですが』とお話したら、数日後に来るようにとのお言葉でした。それで皇居にお邪魔することになり、お茶の時間を挟んでそれぞれの国の事情をじっくり話していただきました。
その後で私はシスターたちにきわめてジャーナリスティックな質問をしたんです。『ところで皇后様のご印象はいかがでした?』。するとシスターたちは数秒間考えた後、一人が『シスターみたいでした』と答えました。その言葉が私には実によくわかったんです。皇后様にも様々な暮らしに対するご興味がおありでしょう。しかし皇后様は日本という国のあり方の基本を守るために、一切の個人的な選択をすでにお捨てになっているように思えます。陛下のご任務に殉じるためです。その覚悟の程をシスターたちはひしひしと感じたのだと思います。
私が一番恵まれていたのは、たくさんの個性的な魂に出会えたことです。人脈という言葉は好きではありませんが、人脈は作ろうとせず、利用しようとしないとできるものかもしれませんね。」(~p191)