和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

生かし尽して。

2013-02-09 | 短文紹介
モンサラット著(吉田健一訳)「怒りの海」(新潮社)を読み終わる。
とかく、私は短い文ばかり読んでいるので、
こういう長い小説は、まず、息継ぎで困ります。
ちょうど、プールでクロールをはじめるとする。
どうしても、息の吸ったりはいたりのリズムが出来ずに、
途中で苦しくなって、足をついて立ち上がるようなことを
まあ、私は何度も何度もするタイプなのです。
そうすると、小説の山場で、途中で休んでみたり、
その休んだあとに、読み始めると小説のくつろいだ箇所になっていたり、
小説のリズムと、私という読み手のリズムがうまくそろわない、
下手な読者だなあと、思いながらも、読み終えました(笑)。

ここでは、小説の最後の方に出てくる、
箇所をすこし引用しておきます。

「『僕は32です、』とロックハアトは或る時、エリクソンに年を聞かれて答えた。『一生で一番いい時がもう過ぎてしまつたようなもんです。・・・』併しロックハアト自身は、それが本当ではないことも知つていた。彼にとつては、戦争の無意味な破壊を仕事にしていたにも拘らず、その間に過した年月は決して無駄なものではなかつた。彼は急速に大人になつて行つて、1939年に海軍に入つた、生きて行くための目的を持たない、27歳の若いジャアナリストとは違つた人間になつていた。戦争は彼に何ものかを与えて、そのために彼が払つた代償は少しも高過ぎはしなかつた。彼は五年間、書く仕事から離れていたが、その代りにその他の凡ての点で、克己心とか、責任をとるということとか、或いは単に自分の能力を信じて詰らない不安に悩まされないという点で得をしていた。・・・戦争が終つた後では僕はもう大丈夫だ、と彼は時々思うことがあつた。人はもう僕をこづき廻すことは出来ないし、僕が僕自身をこづき廻すということも出来なくなつたんだから。」(下巻p230)


さてっと、吉田健一氏の最後に載っている解説のはじめで、こう書いておりました。

「・・・これによつて彼は文学史にその名を留めることになるのだと見てよさそうにさえ思う。そして勿論それは、戦争文学の部門にである。そういう意味で、『怒りの海』は第一次世界大戦を描いた代表作とも言えるレマルクの『西部戦線異常なし』や、或は今度の大戦では、吉田満氏の『戦艦大和の最期』と比較することが出来る。何れも或る作家の作品の系列で特異な位置を占めているというよりも、寧ろそれぞれの作家をその作品の作者として定義づけている作品である。モンサラットはこれからも作品を書くかも知れないが、――彼は、現在、南アフリカ連邦政府の一情報官となつて勤務している、――時代的な意義に掛けて『怒りの海』以上のものを発表することがあるとは思えない。それ程彼は今度の大戦という、異常な大事件で得た体験を、この一篇の作品で生かし尽しているのである。・・・」
コメント
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