和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

宗教の話を。

2013-02-22 | 短文紹介
日経の古新聞をもらってくる。
経済は読まないので、文化欄のチェック。
すると、ありました。
1月30日に安岡章太郎氏死去。
社会面には秋山駿氏の話が載っておりました。

「日本の風土の中に深く下りていき、複雑にして微妙な作品を生みだした。知的で難解な作品を書いた戦後派文学に対し、安岡さんは、故郷の懐かしさの根源となるようなものを、すくい上げた。震災後の日本は、ふるさとを探し求めようとしているが、その心情を先駆的に表現した。座談の名手で、会話はいつも機知に富んでいた。戦後の文学に大きな役割を果した作家だった。」

次の日の1月31日文化欄に瀬戸内寂聴さんが
「はにかみながら励ます人」という文を載せておりました。
そこからも、すこし

「安岡さんと逢う時はたいてい誰かと一緒だったが、一度だけ、二人で三時間も話しこんだことがある。私が出家し、七、八年たっていた。・・・安岡さんは呑むほどに口がなめらかになり・・・ふっと口調をかえると、私の髪のない姿を改めて見直す表情になっていた。『瀬戸内さんが出家した時ね、ぼくは開高健とパリにいたのよ。朝刊に瀬戸内さんの出家の報がでかでか出ているのをホテルで開高と二人で見たんだよ。・・・』・・それから遠藤さんから聞いているらしく、私が出家する前カトリックの洗礼を受けかけた話までして、宗教の話を熱心につづけた。・・・このあと何年かたち、安岡さんはカトリックの信者になった。・・・」

ちょうど、この瀬戸内さんの追悼文が載った文化欄の「交遊抄」は中野三敏氏が書いておりました。

瀬戸内さんと宗教といえば、
梅原猛さんとの対談「生ききる。」(角川oneテーマ21新書)に
こんな箇所があるのを思い浮かべました。

瀬戸内】 私はね、坊さんになる時は本当に自分のために出家したんですよ。もっといい小説を書きたいと思ったけれど、私には哲学もなければ何もない。何かしっかりとした背骨が欲しいと思って坊さんになりました。
キリスト教でもよかったんです。初めは遠藤周作さんに頼んでクリスチャンになりかけた。けれど結局、坊さんになった。そうしたら、天台宗は最澄の忘己利他(もうこりた)が根本でしょう。人のために尽すのがもっとも大切な行です。義務です。やっぱり人のために何かしなきゃいけないと思うようになった。これはえらいことになったと思ったけれど、今さらやめられないでしょ。還俗なんて考えられない。
しかし大変でした。義務は果さなければいけない。戒律は守らなければいけない。でも戒律って守れないことばかり書いてある(笑)。嘘をつくなっていったって、私は小説家。・・・・
戒律はおよそできないことばかり書いてある。ああ、これはお釈迦さんができないことを並べて、人間にはできないことがたくさんあるんだって、それをわからせようとしたんだな、と思いました。それじゃ一番できないことを絶とうと決心して『色』を絶った。私は51歳で出家して以来、色恋はまったくしてないですよ。(p54~55)


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