集英社新書「書物の達人 丸谷才一」には、
気のきいた丸谷才一年譜をめくるような、
そんな愉しみ方もありました。
まずは、山形県
「丸谷さんは、山形県の鶴岡の生れです。
鶴岡というのは、藤沢周平が出たことで、
近年非常に有名になったところですが、
同時に満州事変を引き起こした石原莞爾の
故郷でもあり、東京裁判の時に東条英機の
頭をたたいたことで知られる大川周明の
育った地でもあります。大川周明は、
丸谷さんの『裏声で歌へ君が代』に出てくる
右翼的な人物(大田黒周道)のモデルですが、
そういう人間を生み出したところです。
けれども、丸谷さんの家は開業医で、
非常にリベラルな雰囲気の家庭であった。」(p39)
これは、1944年生れの川本三郎氏の講演での箇所。
岡野弘彦氏の講演では、はじめにこうあります。
「大正13(1924)年、僕は三重県の世襲の神主の
うちの長男に生まれました。丸谷さんは僕より一つ
遅れて鶴岡市にお医者さんの子供として生まれたわけです。」(p99)
岡野氏の講演をもうすこし続けます。
「國學院大學予科に入ったのが昭和18(1943)年、
例の学徒出陣の年です。典型的な戦中派
の年代です。入学したときに予科長が、
『今年入ってきた君たちは当然、途中で戦争に行く
だろう。そして、命を落とす人も多く出るだろう。
だから、この大学は君たち予科の学生にも今までに
ない最高の教授陣に講義をしていただくことになった』
・・しかし、大学でそういう講義がみっちりと聴けた
のは半年足らずだったような気がします。
すぐ軍需工場へ引っ張られて、銃を作ったり、
弾を作ったりさせられました。そして、
敗戦の年の昭和20(1945)年1月6日、
僕は軍隊に入ったのです。それより少し遅れて、
丸谷さんも軍隊に取られたと思います。」
(p100~101)
もどって、川本三郎氏の講演へ
「昭和20年3月に、
19歳の丸谷青年が兵隊に取られます。
青森の八戸の海岸にたこつぼを掘って、
その中に入って、もし米軍が上陸してきた
時には、それに立ち向かえという
訓練をさせられていた。・・・・・
丸谷さんは、昭和20年8月15日の玉音放送を、
一兵士として青森で聞いた。・・・
ところがほかの兵隊たちはよく理解できなかった。
そこで上官に『この放送は何を言っているんだ』と
聞かれて、丸谷さんが『この戦争は負けたと陛下が
おっしゃっている』と言った途端に、上官が
鋲(びょう)のついた靴で殴りつけた。
ひどい話です。これは『笹まくら』の中でも、
ある戦争体験をした助教授(桑野助教授)の
エピソードとして出てきます。」(p42~43)
このようにして戦後の國學院時代とか
毎日新聞の今週の本棚のエピソードとか
まるで、バトンをたぐりよせるようにして
他の方が語ってゆくのでした。
そんな年譜読みの愉しみも、兼ね備えた
貴重な新書一冊。
気のきいた丸谷才一年譜をめくるような、
そんな愉しみ方もありました。
まずは、山形県
「丸谷さんは、山形県の鶴岡の生れです。
鶴岡というのは、藤沢周平が出たことで、
近年非常に有名になったところですが、
同時に満州事変を引き起こした石原莞爾の
故郷でもあり、東京裁判の時に東条英機の
頭をたたいたことで知られる大川周明の
育った地でもあります。大川周明は、
丸谷さんの『裏声で歌へ君が代』に出てくる
右翼的な人物(大田黒周道)のモデルですが、
そういう人間を生み出したところです。
けれども、丸谷さんの家は開業医で、
非常にリベラルな雰囲気の家庭であった。」(p39)
これは、1944年生れの川本三郎氏の講演での箇所。
岡野弘彦氏の講演では、はじめにこうあります。
「大正13(1924)年、僕は三重県の世襲の神主の
うちの長男に生まれました。丸谷さんは僕より一つ
遅れて鶴岡市にお医者さんの子供として生まれたわけです。」(p99)
岡野氏の講演をもうすこし続けます。
「國學院大學予科に入ったのが昭和18(1943)年、
例の学徒出陣の年です。典型的な戦中派
の年代です。入学したときに予科長が、
『今年入ってきた君たちは当然、途中で戦争に行く
だろう。そして、命を落とす人も多く出るだろう。
だから、この大学は君たち予科の学生にも今までに
ない最高の教授陣に講義をしていただくことになった』
・・しかし、大学でそういう講義がみっちりと聴けた
のは半年足らずだったような気がします。
すぐ軍需工場へ引っ張られて、銃を作ったり、
弾を作ったりさせられました。そして、
敗戦の年の昭和20(1945)年1月6日、
僕は軍隊に入ったのです。それより少し遅れて、
丸谷さんも軍隊に取られたと思います。」
(p100~101)
もどって、川本三郎氏の講演へ
「昭和20年3月に、
19歳の丸谷青年が兵隊に取られます。
青森の八戸の海岸にたこつぼを掘って、
その中に入って、もし米軍が上陸してきた
時には、それに立ち向かえという
訓練をさせられていた。・・・・・
丸谷さんは、昭和20年8月15日の玉音放送を、
一兵士として青森で聞いた。・・・
ところがほかの兵隊たちはよく理解できなかった。
そこで上官に『この放送は何を言っているんだ』と
聞かれて、丸谷さんが『この戦争は負けたと陛下が
おっしゃっている』と言った途端に、上官が
鋲(びょう)のついた靴で殴りつけた。
ひどい話です。これは『笹まくら』の中でも、
ある戦争体験をした助教授(桑野助教授)の
エピソードとして出てきます。」(p42~43)
このようにして戦後の國學院時代とか
毎日新聞の今週の本棚のエピソードとか
まるで、バトンをたぐりよせるようにして
他の方が語ってゆくのでした。
そんな年譜読みの愉しみも、兼ね備えた
貴重な新書一冊。