幻冬舎新書(2014年3月)に、山口仲美著
「大学教授がガンになってわかったこと」
があり、そのプロローグに、こうあります。
「・・あ~あ、死期は近いのう。膵臓ガンは、
ガンの中でも極めて悪性度が高い。
手術でガンを切除できる人は患者の20%。
手術できても、五年生存できる人は、
そのなかからさらに20%。ということは、
100人いたら、五年以上生きられる人は
たったの四人ではないか!
まいったなあ。いつも多数派に入ってしまう
私は、五年生存もおぼつかない。としたら、
残り少ない貴重な時間を人間様にご恩返しを
することに費やして、あの世に逝くかと殊勝な
心を起こして書いたのが、この本です。
自分の愚かなガン患者体験を包み隠さずに
書き記せば、読者としては
『そんなことをしてはいかんかな』と思ってくださる
わけで、読者は『賢いガン患者になる』術(すべ)を
手にできる。そういう本を残すことが、
私にできる唯一のことだと思い定めて書きました。
考えてみると、こういう患者発信の本が、
現代ほど必要な時代はありません。なぜなら、
現代の医療は、以前の『先生にお任せ』といった
医者中心の医療ではなく、患者が自分で治療法など
を選択しなくてはならない変革期だからです。
患者の自己決定権を大切にする医療へと
変化してきているからです。・・」
幻冬舎新書の内容へ踏み込むのはよして、
山口仲美著「すらすら読める今昔物語集」
のこの箇所を、私はひらきます。
「風聞に流されずに、
事実を自分の目で確認するという精神を持った
人間が『今昔物語集』には、しばしば登場する。
『今昔物語集』ばかりではなく、広く説話文学の
世界の人間たちの性癖である。ここには、
『源氏物語』などの王朝文学とは明らかに
違った精神が流れている。『源氏物語』などの
王朝文学では、好ましくない事実には蓋をし、
あからさまにしないように上品に対応する。
事実を確認するなどもってのほかである。
知っていても、相手のことも考慮に入れ、
公にすることをはばかり、悩みを内に込め、表面は
何気ない顔で取り繕って相手や事態に対処してゆく。
これが王朝文学の精神である。説話文学の精神は、
そうした王朝文学のそれとは正反対である。
自らの目で確認し、事実を見極めることこそ、
重要なことなのだ。・・・疑念のあるときは、
恐れずに事実を見極めようとする精神こそ、
説話文学の世界では重要な心の動きなのである。」
(p109~110)
「大学教授がガンになってわかったこと」
があり、そのプロローグに、こうあります。
「・・あ~あ、死期は近いのう。膵臓ガンは、
ガンの中でも極めて悪性度が高い。
手術でガンを切除できる人は患者の20%。
手術できても、五年生存できる人は、
そのなかからさらに20%。ということは、
100人いたら、五年以上生きられる人は
たったの四人ではないか!
まいったなあ。いつも多数派に入ってしまう
私は、五年生存もおぼつかない。としたら、
残り少ない貴重な時間を人間様にご恩返しを
することに費やして、あの世に逝くかと殊勝な
心を起こして書いたのが、この本です。
自分の愚かなガン患者体験を包み隠さずに
書き記せば、読者としては
『そんなことをしてはいかんかな』と思ってくださる
わけで、読者は『賢いガン患者になる』術(すべ)を
手にできる。そういう本を残すことが、
私にできる唯一のことだと思い定めて書きました。
考えてみると、こういう患者発信の本が、
現代ほど必要な時代はありません。なぜなら、
現代の医療は、以前の『先生にお任せ』といった
医者中心の医療ではなく、患者が自分で治療法など
を選択しなくてはならない変革期だからです。
患者の自己決定権を大切にする医療へと
変化してきているからです。・・」
幻冬舎新書の内容へ踏み込むのはよして、
山口仲美著「すらすら読める今昔物語集」
のこの箇所を、私はひらきます。
「風聞に流されずに、
事実を自分の目で確認するという精神を持った
人間が『今昔物語集』には、しばしば登場する。
『今昔物語集』ばかりではなく、広く説話文学の
世界の人間たちの性癖である。ここには、
『源氏物語』などの王朝文学とは明らかに
違った精神が流れている。『源氏物語』などの
王朝文学では、好ましくない事実には蓋をし、
あからさまにしないように上品に対応する。
事実を確認するなどもってのほかである。
知っていても、相手のことも考慮に入れ、
公にすることをはばかり、悩みを内に込め、表面は
何気ない顔で取り繕って相手や事態に対処してゆく。
これが王朝文学の精神である。説話文学の精神は、
そうした王朝文学のそれとは正反対である。
自らの目で確認し、事実を見極めることこそ、
重要なことなのだ。・・・疑念のあるときは、
恐れずに事実を見極めようとする精神こそ、
説話文学の世界では重要な心の動きなのである。」
(p109~110)