和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

河合栄治郎。

2014-10-02 | 短文紹介
産経新聞の正論欄(10月2日)に
平川祐弘氏が書いておりました。
そこに、河合栄治郎(1891~1944)

一箇所引用するとしたらここかなあ。

「大学を追われた河合は自己の思想信条を
懸けて裁判に臨んだ。弁明は学術論文のごとく
見事である。一旦は無罪となるが結局は敗訴
する。だが日本は一党専制のナチス・ドイツや
共産国とは違う。河合は罰金刑で戦争中も
河合の学生叢書は広く読まれた。私の姉は
『学生と生活』を昭和14年に、兄は
『学生と教養』を19年に古本で求めている。
その年に河合は満53で早世した。生きていれば
敗戦後は首相に推されただろう。私は戦後
『学生に与う』を読み、溌剌とした精気と
明るさに驚いた。・・・・
後年、粕谷(一希)が評伝『河合栄治郎』
(1983年)を書くに及んで合点した。粕谷も
若くして河合を読み、闘う自由主義者の系譜に
連なったのである。・・」


今日『週刊文春』発売。
そこの田久保忠衛氏の文(p139)に
その河合栄治郎の名が出てくるのでした。

「かつて、朝日を代表する人物に、論説主幹
だった笠信太郎という人がいました。笠は
1948年から論説主幹を務め全面講和論を主張。
日米安保条約に反対し、世界連邦を理想としていた。
当時はこの人の考えが朝日を支配し、圧倒的な
影響力を持っていました。・・・・
一方で、当時の朝日にはまっとうな記者も
いました。たとえば土屋清という人物。
彼は、経済学者で思想家の河合栄治郎の門下で、
門下生らが立ち上げた社会思想研究会におり、
私も参加していました。土屋は、若くして
論説委員になり、彼が公定歩合を引き上げろと
書くと、日銀がそれに従うほどの実力者でした。
その土屋が60年安保の頃、『朝日はダメだな』と
言い出すのです。彼は結局朝日を辞めて、
1964年に産経新聞に移り、編集総長になる。・・」

うん。いつか、河合栄次郎を読むんだ。

コメント
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