和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一日一曲読む謡曲。

2014-10-18 | 本棚並べ
山村修著
「花のほかには松ばかり」(檜書店)
副題は「謡曲を読む愉しみ」。

この本に、
有朋堂文庫「謡曲集」上下が
紹介されていて、古本で以前に買って
本棚に置いてありました。

最近になって、この本をひろげると。
すんなりと、はいっていける(笑)。
ああ、これなら読める。どうやら、
私にとっての読み頃をむかえたようです。

ちなみに、山村修氏の「花のほかには松ばかり」
のあとがきは、こうはじまっておりました。

「一日に一曲は謡曲を読んでいます。
ふつうの謡曲集で一曲は五、六ページから
十ページほどですから、読むのにそれほどの
時間は要しません。もちろん閑ができれば、
ゆったりかまえて堪能します。ともあれ、それが
一日のうちで、私にとってきらきら光る愉しみの
時間です。」


はい。一日一曲の愉しみを
私も、味わえそうです。

ところで、謡曲の愉しみとは何?
ゆっくり読むと、ついついそんなことを
思ったりもします。

そういえば、三上慶子著
「私の能楽自習帖」(河出書房新社)に
「世阿弥の作品を読み、世阿弥という人の個性を
想像する時、私は世阿弥の能の一面に、じつに
晴ればれしたリズムがあったことに気づいている。
そうした心底から晴ればれした能を舞えるのは、
現代のシテでは、・・・
人類の舞踊の出発には、心からの歓喜があった。
舞踊では、悲哀は歓喜の次に来るのである。
だが、現代の舞台芸術で、じつは最も表現が困難
なのは『晴ればれした歓喜』ではないか。
『騒々しい歓喜』と『晴ればれした歓喜』は、
全く異質のものである。」(p27)


あれ、そういえば、と取り出してきたのは、
向井敏著「文章読本」。そのはじまりの
「名文の条件」に、こんな箇所がありました。

「丸谷才一は『文章読本』で、文章上達の要諦は
名文を読むにつきると断じ、では名文とは何かと
問うて、『君が読んで感心すればそれが名文である』
と答えた。文章を書こうと志す人を勇気づける力ある
言葉だが、ただし、感心した名文が湿った名文で
あったりすると、その人のこうむる惨害の大いさも
またはかり知れない。世に湿った文章は数知れず、
湿った名文というのもけっして少なくないのである。
それだけに、陰湿な情念による侵蝕を可能なかぎり
制御した、カラリと晴れて快い文章、乾いて気持の
いい文章が望まれる理屈だが、それはたとえば
どんな文章なのか。・・・」

うん。
『君が読んで感心すればそれが名文である』
ということで、私の今やっと
感心を示せたのが謡曲(笑)。

うん。ここまで。
最後も「花のほかには松ばかり」の、あとがき
から引用してみます。

「すぐれた謡曲には、かならず人間の本質に
迫るものがふくまれている。胸の芯を打って
くる真情があるかと思えば、青空へと抜ける
ようなユーモアもあります。
昂揚があり、鎮静がある。
おどろきがあり、なぐさめがある。
謡曲集はさながら人間の心性の宝庫みたいな
ものです。そのことを書きたくて、
私はこの本をつくりました。」(p184)
コメント
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