三浦勝也著「近代日本語と文語文」(勉誠出版)
に、こんな箇所。
「江戸期の文筆家たちが、漢文、和文、俗文と
いった各様の文体を使い分けていたように、
明治末から大正にかけて活動していた文筆家たち
には、文語体と口語体を用途や目的に応じて
使い分けることはごく当たり前だったと言えます。」(p187)
うん。この箇所が面白いので
つないでみます(笑)。
尾形仂校注「蕪村俳句集」(岩波文庫)の解説で
「春風馬堤曲」の箇所の最後に
「発句体・擬漢詩体・漢文訓読体の詩句を
自在に織りなして一編の詩編に構成した
詩形式は、蕪村のまったくの独創といわな
ければならない。」(p293)
面白いのは、
正岡子規著「病牀六尺」の83に
能楽社会をとりあげた箇所でした。
「能楽社会には家元なるものがあって、
それが技芸に関する一切のことの全権を
握って居る。例えばシテの家元には金春、
金剛、観世、宝生、喜多というのがある。
ワキの家元には宝生、進藤などいうのがある。
そのほか大鼓の家元は誰とか、小鼓の家元は
誰とか一々きまって居る。狂言の方にも
大蔵流、鷺流などそのほかにもある。そうして
これらの家元がおのおの跋扈して自分の流儀に
勿体を付け、容易に他人には流儀の奥秘を伝授
せぬなどということになって居る。・・・」
こうして語ってゆくあとに
「昔の人は漢学を知って居るものは国学を知らない。
詩人は歌を作ることを知らない。歌人は俳句を作る
ことを知らない。昔はすべてそういう風であった
のである。それが明治になってみると歌を作り
俳句を作るという者も沢山出来て来た。
詩も作り歌も作るという者も出来て来た。
中には数学専門の人で俳句を作る者もある。
してみると能役者が二芸三芸兼ねるくらいのことは
訳もないことといわなければならぬ。・・・
それは俳句界で第一流といわれる蕪村が画の方でも
また凡人にすぐれた技倆を持って居ったのでもわかる。
・ ・・家元なる人もまたかくのごとき後進を扶けて
行くことに務めて、ゆめにもその進路を妨げるような
ことをしてはならぬ。」
窪田空穂全集の月報6(第20巻付録)に
窪田氏の談話が載っていて、その最初に、
「いまそんなこというとね。なにか意識的に、
変わった飛躍でもするように聞えるけれども、
そのころは、広い意味の文学青年はね、
なんだってみんなやったよ。だれだってね。
短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。
短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、
俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの
文学青年は、みんなそうだった。」
もう一冊引用
篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店)
のち、講談社文芸文庫の「三田の詩人たち」。
そこから一箇所引用。
「さて、大正文学というのは、小説家だけでなく、
詩人、歌人、こういった人達も自由自在に同じ
一つの文学的世界の中を出入りしていました。
今の文壇、詩壇の在り方と随分違っていたんです。
今はこの間の交流も殆ど無ければ、感受性の
共通性といったものも認めにくい状態です。
つまり小説と詩の乖離。これはきのう今日
始まった事ではなく、昭和十年前後からすでに
始まっていました。・・・」
に、こんな箇所。
「江戸期の文筆家たちが、漢文、和文、俗文と
いった各様の文体を使い分けていたように、
明治末から大正にかけて活動していた文筆家たち
には、文語体と口語体を用途や目的に応じて
使い分けることはごく当たり前だったと言えます。」(p187)
うん。この箇所が面白いので
つないでみます(笑)。
尾形仂校注「蕪村俳句集」(岩波文庫)の解説で
「春風馬堤曲」の箇所の最後に
「発句体・擬漢詩体・漢文訓読体の詩句を
自在に織りなして一編の詩編に構成した
詩形式は、蕪村のまったくの独創といわな
ければならない。」(p293)
面白いのは、
正岡子規著「病牀六尺」の83に
能楽社会をとりあげた箇所でした。
「能楽社会には家元なるものがあって、
それが技芸に関する一切のことの全権を
握って居る。例えばシテの家元には金春、
金剛、観世、宝生、喜多というのがある。
ワキの家元には宝生、進藤などいうのがある。
そのほか大鼓の家元は誰とか、小鼓の家元は
誰とか一々きまって居る。狂言の方にも
大蔵流、鷺流などそのほかにもある。そうして
これらの家元がおのおの跋扈して自分の流儀に
勿体を付け、容易に他人には流儀の奥秘を伝授
せぬなどということになって居る。・・・」
こうして語ってゆくあとに
「昔の人は漢学を知って居るものは国学を知らない。
詩人は歌を作ることを知らない。歌人は俳句を作る
ことを知らない。昔はすべてそういう風であった
のである。それが明治になってみると歌を作り
俳句を作るという者も沢山出来て来た。
詩も作り歌も作るという者も出来て来た。
中には数学専門の人で俳句を作る者もある。
してみると能役者が二芸三芸兼ねるくらいのことは
訳もないことといわなければならぬ。・・・
それは俳句界で第一流といわれる蕪村が画の方でも
また凡人にすぐれた技倆を持って居ったのでもわかる。
・ ・・家元なる人もまたかくのごとき後進を扶けて
行くことに務めて、ゆめにもその進路を妨げるような
ことをしてはならぬ。」
窪田空穂全集の月報6(第20巻付録)に
窪田氏の談話が載っていて、その最初に、
「いまそんなこというとね。なにか意識的に、
変わった飛躍でもするように聞えるけれども、
そのころは、広い意味の文学青年はね、
なんだってみんなやったよ。だれだってね。
短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。
短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、
俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの
文学青年は、みんなそうだった。」
もう一冊引用
篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店)
のち、講談社文芸文庫の「三田の詩人たち」。
そこから一箇所引用。
「さて、大正文学というのは、小説家だけでなく、
詩人、歌人、こういった人達も自由自在に同じ
一つの文学的世界の中を出入りしていました。
今の文壇、詩壇の在り方と随分違っていたんです。
今はこの間の交流も殆ど無ければ、感受性の
共通性といったものも認めにくい状態です。
つまり小説と詩の乖離。これはきのう今日
始まった事ではなく、昭和十年前後からすでに
始まっていました。・・・」