アレッサンドロ・マンゾーニ『いいなづけ』(平川祐弘訳)。
その副題は『17世紀ミラーノの物語』とあります。
目次には
第30章に「ドイツ傭兵隊が立ち去る。難を避けて逃げていた人々が
故郷へ戻って来る。荒廃と飢餓。」
今回紹介する第31章の目次には
「ペスト。その原因、当初の論争。・・・・」とあります。
その第31章も多岐にわたるのですが、
「ペスト蔓延前夜」と、限定して引用してみます。
ロドヴィーコ・セッターラ博士が登場します。
「当時はもう80に手の届く齢であった・・・・
ある日、カゴに乗って往診の途中、人々がまわりによってたかって、
『こ奴だ。こ奴がペストだ、ペストだとありもしない病気を
無理矢理に作り出そうとする連中の大将だ』と騒ぎ始めた。
民衆は口々に・・・罵声もつのる一方であった。・・・」
(単行本・p646)
すこし先走って引用してしまいました。まず、
この31章の前段から、引用してゆきます。
「もっとも何人かの人々にとっては、この病気は
目新しいものではなかった。その何人かの人々というのは
50年前のペストを思い出すことの出来た年輩の人々のことである。
そのペストは当時イタリアの大半を襲い、とくにミラーノ領内では
猖獗(しょうけつ)をきわめた。・・・・・」
「ロドヴィーコ・セッターラ博士は、そのペストを目撃したばかりでなく、
きわめて果断で積極的に振舞い、当時若輩であったとはいえ、
もっとも有効な救護活動を行なった医師の一人であった。
その人が今回もペストの発生を危惧し、進んで情報を集め、
万一に備えていた。そして10月20日、衛生局に伝染病が
レッコの領内で一番端に位置し、ベルガモ領に隣接する、
キウゾ村で発生したことをまず報告した。
間違いなくペストだという報告であった。
しかしタディーノの報告から察すると、それだからといって
なにか特に措置が講ぜられたわけではまったくなかった。」
(p639)
「ところが実際はなんの動きも生まれず、なんの対策も講じられず、
なんの心配もしなかったのである。当時の記録類になんらかの
一致点があるとするなら、それはまさにこの点についてであった。
前年来の飢饉、兵士たちの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)、
精神上の不安懊悩・・・・そうしたものが重なったので、人々が
余計死ぬのは当り前だと思って別に騒ぎ立てなかったのである。
広場や、お店や、家の中で、危険の到来を口にしたり、ペストが流行
するのではないか、などと言う者は、世間から冷笑され、白眼視された。
しかしそれと同じような態度、いいかえるとペストだと警告する人が
たといいてもそれを信ぜぬばかりか、事態を正視できない精神的盲目、
あらかじめ出来上った固定観念で万事を割切るという態度は、元老院でも
市参事会でも、ありとあらゆる官庁でも、支配的な傾向であった。
・・・・・
すでに見てきた通り、ペストの第一報が届いた時、人々の反応は
すこぶる冷淡で、情報蒐集の努力にも一向に熱がはいらなかった。」
(p642~643)
こうして、最初に引用したカゴに乗ったセッターラ博士の
場面が描かれておりました。
この博士の名前は、あとにも出てきておりました。
「・・・・最初は貧乏人の間だけに限られていたペストが
やがては上流階級の著名人をも侵すにいたった。
その中でも当時もっとも著名な人士は医師セッターラであったが、
この人の名はいまでも特記するに値する。
この老人が気の毒にもペストに侵された時、世間は
この老人が唱えたペスト説が正しかったことぐらいは
少なくとも認めたに相違ないと思うのだが、
実はそれすらもわかったものではない。
セッターラ家では本人も、妻も、二人の子供も、七人の使用人も
ペストに罹って病床に臥した。本人と息子の一人は命を取りとめたが、
残りは全員死亡した。」(p650)
この間に、衛生局の二度の現地視察があったり、
戦争でのミラーノ領の総督となっても、戦争が気がかりで、
ミラーノ領の統治はつけ足しの任務であった情況が
織り込まれております。魔女狩りも語られてゆくのでした。
はい。一度でもって、この第31章の全体を引用できないのですが、
今回、ロドヴィーコ・セッターラ博士のことを
取り出して引用してみました。
もう少し「いいなづけ」のペスト関連をとりあげて
いきたいと思います。