和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

遊ぶ子供の声きけば。

2020-05-21 | 本棚並べ
本棚から高田宏著「子供誌」(新潮社・1993年)をだしてくる。
いつも通り、内容はすっかり忘れてます(笑)。
いつか、読み直そうと思った。それだけは覚えてる。
手に取るとカバー装画は、安野光雅で、
シンプルで再読をさそうような、そんな絵柄。
はい。またこの本を取り出してくれましたねと、
まるで、絵柄が語りかけてくれているようです。
何をいっているのやら(笑)。

あとがきを、ひらくと

「内なる子供をゆりうごかし、目ざめさせたい。
そうしないと、自分が誰なのか分からなくなりそうだ。
そんな気がずっと前からしていた。・・・」

こうも言っております。

「子供のなかにあるのは・・・・
生きることそのものへのあこがれではないだろうか。
それはたぶん、すべての生きものと共通するものだ。
『内なる子供』は、ぼくたちの『内なる自然』だろう。・・」
(p213)

15の文章が並んでいます。
その3番目の題が「遊ぶ子供の声きけば」で、
はい。ここだけをひらくことにしました(笑)。
では引用。

「平安時代後期の歌謡集『梁塵秘抄』第二にある。
あまりにもよく知られている歌。

 遊びをせんとや生れけむ、
 戯(たはぶ)れせんとや生れけん、
 遊ぶ子供の声きけば、
 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。

この歌を思い出すたび、どきりとする。・・・・」
(p42~43)

うん。この3番目の文章では、最後に
原ひろ子さんの本を紹介しているのでした。

「カナダ北西部の北極に近い地域で移動しながら暮らしている
狩猟採集民ヘヤー・インディアンと生活したことのある
原ひろ子氏の『子どもの文化人類学』を読むと、
この人びとには働くことと遊ぶことの区分けはなく、
幼い子でも薪割もするのだが、大人たちにとって
子供は労働力である以上に、笑いをさそう者として
貴重な存在と見られていて・・・・
見方によってはそれは童と老人の世界で、
ぼくたちのいうオトナは不在の社会のようにも思える。」
(p46)

はい。原ひろ子著「子どもの文化人類学」はないのですが、
本棚に原ひろ子著「ヘヤー・インディアンとその世界」(平凡社)
はありました。もちろん、未読(笑)。目次をひらいて、
関係ありそうな箇所を、パラリとひらいてみる。
はい。最後に、そこから引用。

「ヘヤー・インディアンは、一般に小さい子どもが
周囲にいる生活は、ほんとうに楽しいと考えている。
とくに生後1年から3年までの子どもはおもしろいという。

毎日毎日、すること言うことに変化が見えるから、それを喜ぶのだ。
テント仲間のみならず、キャンプ仲間全員が、老若男女を問わず、
子どもの行動をじつによく観察している。

『この子は、こんなときには泣き出すが、しばらく知らんぷりを
していて泣き止んだときに気をそらしてやると、機嫌がなおる』とか、

『この子は泣き止みそうになったときにうっかり声をかけると、
また注意を惹こうとして泣き出すから、子どもの方から
何か言ってくるまで放っておくとよい』とか、

『あの子の手の指は、中指と人さし指の長さが
ほとんど同じだ。弓矢を引くには良かったろう』とか、

『この子があんな顔をしているときは、下痢かもしれない』
といったふうだ。
子どもをからかってその反応を楽しむことも、
キャンプのショウになっている。大人にからかわれた子どもは、
必死に知恵をしぼって大人の裏をかこうとする。
『知恵くらべ』の人生は、生後1年にしてはじまるようだ。

ヘヤー・インディアンの大人たちは、
『子どもとは』という一般論はふりまわさない。
『あの子は・・・』、『この子は・・・』と一人ひとりの子どもたちを
独自の人格と特徴をもった個人として眺め、楽しむのである。
・・・」(p247~248)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする