7月号の雑誌HanadaとWⅰLLが届く。
はい。Hanadaのはじまりのグラビア特集に驚く。
愛知トリエンナーレも真っ青。
こちらは、誰でも、見れます。
それはそうとして、気になったのは
1930年生れの、日下公人氏。
1931年生れの、平川祐弘氏。
はい。この2人。
お二人の『80歳過ぎの光景』を思い描きます。
まず、日下公人さんのWill巻頭随筆から引用。
「テレビをつけると、
国会では同じことを何人もの議員が質問している。
安倍首相はいちいち丁寧に答えている。
国会議員は自分がテレビに映ることばかりを考えて
いるからこうなるのもムリはない・・・・
ある人は
『テレビ中継をする時代がくると、
国会議員はそれに映ることが第一になって
質問者に背を向けて話したり、
図解を持ち込んだりするだろう』と
心配したが、確かにそうなった。
それが実現すると、次は総理大臣に謝らせようと
するようになった。良い質問とは『総理、総理』と連呼して
答弁に自分の出番をつくることで・・・・・
国民は国会全体を軽視するようになった。
国会審議の内容は二の次にするようなったから、
具体的な要求は野党にもっと質問時間をくれ、
というものになった。・・・・
こんなことでいいのかと思っていたところ、
コロナがやってきた。・・・・
日本国のことは他人まかせで、
それで国会議員とは聞いてあきれる。・・・」
この巻頭随筆は、はじまりもいいのですが、
ここでは、カット(笑)。
平川祐弘氏のHanada連載の自伝では、今回は
1960年の安保がとりあげられておりました。
「日本論壇を支配した左翼勢力は1960年に
安保反対を唱えた。・・・・目をつりあげた学生が
『民主主義を守れ』と叫ぶから、私も
『民主主義を守れ』と静かに、多少皮肉っぽく応じた。
そのテンポを一つずらした語調で、私のいう民主主義が
『議論をした後は最終的には国民や国会の多数意見に従え』
という常識的な意味だとすぐ伝わった。・・・・
だが大物知識人が『今こそ国会へ』と学生を煽動し、
東大仏文の渡辺一夫もデモに出かけた。デモの一部は暴走し、
仏文科の助手清水徹は警官の警棒で頭を割られた。
国会前で女子学生が死亡するや興奮は絶頂に達した。
あれから半世紀が経って、80歳を過ぎた清水徹に会った。
そしたら『安保騒動はマス・ヒステリーだった』という平川説に
清水も相槌を打って、淋しげに笑った。」(p357~358)
「東大医学部から教養学部に飛び火し、教養学部がストライキに
突入したのは1968年7月5日である。駒場の地も形勢が不穏になるや
その夏、助手の私は大学院生を連れて志賀高原へ旅行した。
嘱託の平戸恵子さんに言わせれば、私が先手を打ったのである。
・・・・・・平戸嘱託には平川家へ出勤してもらい、八王子のセミナー
ハウスを予約し、そこで合宿する旨の通知を平川家から発信した。
・・・・駒場の比較文学比較文化の大学院だけは東大紛争でストをせず、
研究室を占拠された後も学外でまがりなりに授業を続けたが、
そのことを私は誇りにしている。」(p360)
はい。これだけ読んで私は満腹(笑)。
テレビを見ていると、どうしてか、安保闘争の武勇伝を
聞かされているような雰囲気になりがち、こんなことを
堂々と書けるのも、1930年代の方の特権なのかなあと、
あれこれ思ってしまいます。