「幸田露伴の世界」(思文閣出版)の
まえがきで、井波律子さんは「語り下ろし論文」へ言及しております。
それは、どんなことなのか。
「各自の研究発表はすべてテープにとり、これを起こしたものを
発表者にわたし、研究会におけるやり取りも考慮に入れつつ、
手を入れてもらったものを『語り下ろし論文』とすること。」
「『語り下ろし論文』についても、こうした試みを通じて、
発表現場の雰囲気を生かした臨場感に富む『論文集』に
なった・・・・さらにまた、この『語り下ろし論文』が、
ともすれば『難解』だと敬遠されがちな露伴のイメージを
いささかなりともやわらげ、より多くの人々が多様な露伴像に
アプローチする手がかりになればと願うものである。・・・・」
はい。多様な露伴像。それならこの本の要約より、
わたしなりの、勝手な拡散をたのしみましょう(笑)。
「幸田露伴の世界」の井上章一さんの「語り下ろし論文」は、
題して「『平家』と京都に背をむけて」。
はじめの方で、藤村操(ふじむらみさお)を取り上げています。
「明治36年(1903)のことでした。藤村操という、
当時の一高生が、日光にある華厳の滝へとびこんでいます。
投身自殺でした。遺書には『人生不可解』とあった。・・・・
これが、当時たいへんな評判をよびます。彼をまねて、
同じように自殺をこころみる青年も、でてきました。
世相をゆるがす事件となったのです。」(p160)
はい。井上章一さんの「語り下ろし論文」の要約はやめて、
ここから、わたしの拡散の連想がはたらきます(笑)。
本棚から、出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版)を取り出す。
じつは、藤村操が自殺した時、漱石は彼の英語授業の先生でした。
その箇所を、出久根達郎さんの本から引用してみます。
「漱石が明治36年1月に帰国する・・・・
この年の5月22日の寅彦日記に、次の一行があります。
『一高生徒藤村操、華厳の滝に投じて死す』
漱石は帰国後、東京帝国大学文科大学の講師に任命されました。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任で、英文学概説を講義しております。
・・・・漱石は一方で、第一高等学校の英語の授業を受け持っていました。
藤村操は漱石の教え子でした。
5月13日の授業で、漱石は藤村を指名しました。
藤村は訳読の下読みをしてきませんでした。
これは二度目だったといいます。なぜしないか、と問うと、
『したくないから、やってこないのです』と答えました。
『この次は必ずしてきなさい』と漱石はさとしました。
それから9日目に、藤村は日光の華厳の滝から
身を投げて自殺しました。傍らの樹の幹をけずって、
遺言を記してありました。これが当時評判になった
『巌頭之感(がんとうのかん)』で・・・・」
こうして、出久根達郎さんは
「漱石が一高の教壇に立って、わずか一カ月あまりの
出来事でしたから、しかも当人に二度も注意したことでしたし、
その注意が自殺の原因ではあるまいか、と漱石はずいぶん
悩んだようです。」
と指摘したあとに、漱石の著作の中に、それを探ります。
「吾輩は猫である」「草枕」。そして「坑夫」。それから
「自殺が重要な鍵となる小説『心』」。
うん。ここで、「幸田露伴の世界」へ、もどります。
井上章一さんの文は、その自殺をとりあげてから露伴の
作品『頼朝』へと言及してゆきます。
「しかし、露伴は、そんな苦悩を歯牙にもかけません。
青二才が、なにを血まよったんだとしか、思いませんでした。
そのことを、露伴は、頼朝の若いころとくらべながら論じています。
人生の味気無さに華厳の滝へ飛び込む可きものならば、
頼朝などは七度飛び込んでも九度飛び込んでも、
とても飛び込み足らぬのである。(「露伴全集」第16巻) 」
(p160~161)
「頼朝は、十三、四歳のころに、生死のさかいをさまよった。
平清盛に殺されかける、そのまぎわに、かろうじてたすかっている。
とにかく、少年時代に一度は死を覚悟したはずの人なのです。
それに、父の義朝が家来に殺されもしました。
とにかく、ひどいめにあったのです。
露伴は、ここを強調します。華厳の滝へ七回とびこんでも
たりない経験をしたというのは、このことをさしています。」(p169)
うん。井上章一さんの文は、あくまで幸田露伴なので、
漱石への言及はありませんが、拡散への誘惑はあります。
夏目漱石は、明治36年1月に帰国し、東京帝国大学文科大学の講師となります。
幸田露伴が、明治41年になって京都帝国大学文科大学の講師となり、翌年京都へ。
その経緯は、井波律子さんの文に、語られておりました。
「明治40年(1907)、41歳の時に、主要論文ともいうべき
『遊仙窟』を発表します。・・この論文が『業績』として
評価されたとおぼしく、翌41年、開設まもない
京都帝国大学文科大学講師に任ぜられ・・・・
実際に京都に移り住んだのは、翌42年の初めのようですが、
なんとこの年の9月には早くも辞任しています。
夏休みがすんだらもどって来なかった・・・」(p13)
幸田露伴著『頼朝』は、全集で確認すると
明治41年9月に、発表されています。その9月の辞任です。前年の
明治40年2月に、夏目漱石は、教職を辞し、職業作家へ。その際、
京都帝国大学英文科教授への誘いも断ったようです。
最後に、京都大学創立についての引用。
「明治39年に開設された京都帝国大学文科大学は当初、
『進取の気概』にあふれ、学歴にこだわらず、ずばぬけて
優秀な学者を積極的に採用しました。
正規の学歴は小学校どまりの露伴を講師に迎え、
秋田師範出身の中国学の逸材、内藤湖南を東洋史学科の
教授に迎えたのも、そうした気概のあらわれにほかなりません。
もっとも、露伴の場合、家族を東京に残し単身赴任している・・」(p14)