発売中の月刊Hanada6月号。
その最後に、平川祐弘の「一比較研究者の自伝」があり、
連載23回目をむかえておりました。
この回だけを、読んで私は満腹(笑)。
いろいろ思います。たとえば、これがドラマだとすると、
そこに、一言セリフがある通行人Aが登場しておりました。
そのAが、ここでは佐伯彰一氏。
23回目では、一回しか登場しませんので、その箇所を引用(笑)。
「助手の分際(ぶんざい)でこうしたことを平気で書く私は
『大助手』と呼ばれてしまった。しかし一旦学内で
『大助手』と呼ばれるともう出世できない、とは
佐伯彰一氏のうがった観察で、氏は英語の非常勤講師として
毎週駒場の外国語談話室に寄ると、フランス語の若い教師連が
いつも平川の悪口を言っている。大学院担当という肩書も
癇にさわるらしい。学問はあるようだがああ悪口を言われては
平川は東大に残れまいと思った、というのである。」(p356)
はい。佐伯彰一氏の登場場面は、これだけでした(笑)。
ちなみに、
佐伯彰一氏は、1922年生まれ。
平川祐弘氏は、1931年生まれ。
気になったので、佐伯彰一氏の本を一冊注文。
古本で200円+送料340円=540円でした。
ネット古本屋(愛知県名古屋市)から購入。書名は
佐伯彰一著「神道のこころ」(教文選書・1989年)
はい。こんな箇所がありました。
「正直に言って、余りにまともにキリスト教的な作品は、
ぼくにはどうにも親しめず、にが手である。
ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』など、
どうにか頑張って通読してみても、その堂々たる
結構、偉容には、大いに気押されながらも、
わが心身に沁みいるような感動は、
とても得られなかった、と打ち明けざるを得ない。」
(p70~71)
ちなみに、平川祐弘氏はダンテの『神曲』を訳しております。
もどって、平川氏の連載に、ちょい役で登場した佐伯彰一氏。
略歴に「大正11年生れ。富山県の立山山麓、古くからの信仰を
守りつづけてきた神職の家系の出。・・・」とあります。
うん。気になる。
届いた古本の最後の文は「お正月の思い出」でした。
はじまりは
「60数年のわが生涯、ふり返ってみると、いろんな土地で、
正月を迎えてきた。・・・やはり一番深く心に残っているのは、
わがふるさと立山村(町)の正月である。
子供のころは、気づかなかったけれど、山深いわが村落(芦峅寺)
の正月の迎え方には、かなり独特なものがあった。
立山信仰ということが、生活の中にしみ込んでいたせいに違いないが、
宿坊の子供たちは、大晦日の晩に、開山堂にお籠りをした。
明朝のお参りの準備など手伝うのだ・・・・・
大火鉢に山もりの炭火がカンカンと燃えさかっていた様子など、
今でもありありと目に浮かぶ。それに、一仕事片づいた後に
出されたお夜食というのが、おいしかった。炊きたてのご飯に、
缶づめのかつおをまぜ合わせたお握りだったが、ふうふう
いいながら、大きいのをいくつもたいらげずにいられなかった。
一たん帰宅して、早朝に起き出すと、
まず井戸の若水をくんで、神棚にそなえる。
そしてすぐ神社にかけつけて、ご奉仕をする。
お参りにくる人たちにお神酒をついだり、年餅を渡したりする。
その一家の人の数だけ渡すというきまりで、わが村落の人々は、
元旦のお雑煮に必ずこの年餅をいれて、まずこれから頂く。
つまり、神様から一つ年を頂くというしきたりであった。
・・・・ぼく自身、
富士市の高校に入り、また東京の大学に進むころには、
ふるさとのしきたりなど、何だか古ぼけた、田舎くさいものに
感じられて、とかく敬遠気味だった。いやむしろはっきりと、
そうしたルーツは切り捨てようと努めたようだ。
夏祭りのおみこしもかつがなかったし、
お正月も大方、東京ですごすようになった。
大学進学に際して、英文科といった、山家育ちの少年には、
まるで無縁、不向きという外ない選択をしたというのも、
高校時代の恩師老田三郎先生の影響があったとはいえ、
何より古くさいわがルーツを断ち切るという
気持ちが底で働いたせいに違いない。
一体、日本人には、何かというと、都ぶりを重んじて、
地方田舎を軽んじ、小馬鹿にする傾きが強かった。
・・・・・・・・・・・」
はい。あとは4ページの文の最後を引用。
「そこで、田舎育ちの功徳を言わずにいられない。
一見華やかで、根のない近代化、現代化が、一体どこまで
本当にわれわれを支え、力づけてくれるのか。
長い尺度で、日本文化をふり返り、見直すとき、
われわれを根底から培い、育ててくれる田舎という
土壌の強みと恩恵を思わずにいられない。」
せっかくなので、この本の『はしがき』の
はじまりの言葉を、ここにもってきて置いてみます。
「神道について語ることは、難しい。
じつに難しいけれど、何とか語りたい。語られずにいられない。
いや、わが国の文化、文学、さらには歴史の動きさえ、
神道をぬきにしてはとらえ難いのではないか。
神道を棚上げにした日本文化論、文学論の何という空しさ、味気なさ・・・・」