読売歌壇5月4日栗木京子選の8首目でした。
墓まいりする人も今は少なくて造花が目につく彼岸に入りぬ
山口県 末広正己
うん。もしアンケートがあって、
お墓に花や葉を飾りますか、造花にしますか。
と質問があれば、私は造花と答えてしまいます。
家の仏壇の花も造花です。飾るとすると、生花は
別に花瓶を用意して、脇の棚に置くようにします。
そういえば、地元葬儀式場では、遺影の左右には生花。
そして、駐車場には、造花による花輪が並ぶのでした。
こういう時に、関東の片田舎にいると、
そういうものなのだろうと、ここまでで思考停止。
それが、一昨年2回ほど京都へ出かけたので、
それからは、あれこれと思う楽しみがふえました。
たとえば、白川女(しらかわめ)。
『お花、いらんかぁ』という風物詩だと思っておりましたが、
これも、はじまりは仏さんへの供花などを売っているのだと
思えば京都の暮らしの輪郭がすっきりと浮き上ってきます。
深見きみ著「はんなり京都」(河出書房新社・昭和63年)。
はい。古本で200円(笑)。
そこに、こんな箇所があり、なるほどと腑に落ちます。
第5章「室町問屋町」に、白川女への記述があります。
「白川女は、洛東の銀閣寺の北、北白川から町中に
花を売りに歩く女性のこと。北白川一帯は土地が
花造りに適しているのかもしれませんが、
花といえば、白川女になります。
黒木綿の着物に、手甲、脚絆、そして紅縮緬の襷。
大八車に花を乗せて、『お花、いらんかぁー』と、
売りに来られるのですが、ほとんどは顔馴染みです。
仏さんの供花は、この白川女の花を買います。
白川女の方でも、各々の家の命日をよく承知していて、
その日はこちらが忘れていても、
お花だけは玄関に届いている程です。
花と一緒にお茶も売られていました。」(p118)
ちなみに、深見きみさんは明治34年生まれで、
大正14年に室町の深見氏と結婚したとあります。
はい。大八車に花を乗せて売り歩いていた
というのですから、お得意さんが方々にいたのでしょうね。
話題をかえます。
GOOブログに『京都園芸倶楽部のブログ』があります。
その、2020年5月8日は『卯月八日は天道花で五穀豊穣』
と題して写真と文がありました。そこに
「天道花(てんどうばな)は、京都を含む近畿地方から西の地方を
中心に行われている風習で、細長い竹の竿の先にシャクナゲや
ツツジ、ヤマブキ、フジ、ウツギといった季節の花を挿して
門や家屋の上に立てて飾られます。・・・・・
京都では天道花と呼びますが、大阪では立花、兵庫では高花、
奈良では八日花とも呼ばれるようですね。」
そして、『当倶楽部会員が作った天道花』の写真と
それを庭先で掲げられた写真とを拝見できました。
その印象が、鮮やかだったせいで、しばらくしたら、
わたしには、七夕飾りが思い浮かんできました。
順をおっていきます。
宮本常一著「私の日本地図14・京都」(未来社)の
六角堂を紹介したなかに、こんな箇所がありました。
「この寺の20世の住持専慶は山野をあるいて立花を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、26世専順は
その奥義をきわめた。堂のほとりに池があったので、
この流派を池坊(いけのぼう)とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという、
すなわち生花の池坊はこの寺からおこったのである。
もともと仏前への供花から花道は発展していったもののようで、
とくに7月7日の七夕には星に花を供える儀式が鎌倉時代から
おこり、室町の頃から隆盛をきわめ、『都名所図会』には
『都鄙の門人万丈に集り、立花の工をあらわすなり。
見物の諸人、群をなせり』とある。
このように立花は後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。・・・」(p119)
はい。わたしの小さい頃には、七夕に
市の商店街へ行くと太い竹に、くす玉のような
吹流しが垂れていたのでした。
いまはもう地元では、なくなりましたが、
いまでは、仙台の七夕祭りの模様が思い浮かびます。
『七夕には星に花を供える儀式が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ・・』
その勢いが地方に伝播していって、
いまでは、仙台の七夕祭りとして残っているのかもしれない。
まあ、こんなふうに
『天道花』からの連想で、時空間の変遷を、好き勝手に思いながら、
『京都園芸倶楽部』さん提供写真を楽しく味わうことができました。