井波律子は、「三国志演義」の訳があり。
幸田露伴は、「水滸伝」の訳がありました。
井波律子への追悼文のなかに、こんな箇所がありました。
「・・はじめフランス語を学び、やがて中国文学に転じた。
第一人者だった吉川幸次郎さんの門をたたき・・・・
『三国志演義』の個人全訳という、6年がかりの大仕事もある。
キーボードをたたき続けているうちに、
指先の皮膚が角質化して全部はがれてしまったという。・・」
(「産経抄」2020年5月19日)
その井波律子さんが、「その生涯と中国文学」をメインに
幸田露伴を取り上げているのですが、いきなり露伴の
フトコロに入ってゆく魅力があります。
その井波さんの文のはじまりは
「幸田露伴、本名幸田成行(しげゆき)は、慶応3年(1867)
明治維新の前年の生まれで、同じ年に夏目漱石、尾崎紅葉、
正岡子規も生まれています。露伴の生まれた家は代々、
徳川幕府のお坊主衆・・・したがって、露伴の生まれた翌年、
明治維新になり徳川政権が消滅すると、幸田家は
経済的基盤を失い、じり貧状態になってゆきます。」
こうして、露伴の少年時代を井波さんは語ってゆきます。
途中から引用。
「明治8年から12年間は、お茶の水師範の下等小学校(附属)に
通学し、ここはちゃんと卒業しています。
・・・・・・
明治12年、東京府立中学(一中)に入学しますが、翌年、
先に述べたように経済的事情で退学しています。退学後、
湯島の図書館に通い、独学で漢籍などを読みました。
露伴は生涯にわたって基本的に独学の人です・・・・・
中学退学の翌年(明治14年)、15歳で東京英学校(現在の青山学院)
に入学します。・・これも一年ほどで中退しています。・・・
短期間ながら、こうして英語を学んだために、発音はものになりません
でしたが、読解できるようになり、この英語力を生かして、
後年、釣りに関する英文書を読んだりしています。」
このあとに漢学塾のことが出てきて印象に残ります。
「英学校退学後、菊池松軒の漢学塾に入ります。
ここで学んだことは、露伴にとってたいへん貴重な経験になりました。
当時の漢学塾は、菊池塾もそうだったようですが、
他に職業を持っている人が、なかば趣味で塾を開き、
若い人を集めて教えるケースがほとんどでした。
こうした塾は利益追求型ではないので、『束脩(入学金)』を
おさめるだけで、月謝をおさめる必要はありませんでした。
だから、露伴のように経済的に余裕のない家庭の子弟でも、
通いやすかったのです。
この菊池塾は生徒が自発的に学ぶことをモットーとし、
たとえば、『史記』なら『史記』を独力でどんどん読みすすめ、
わからないところが出てくると、先生に聞くというやりかた
だったようです。露伴はここに毎晩通って学ぶうちに、
正統的な漢文のみならず、『朱子語類』を通じて白話文にも
習熟するようになります。
・・・・・
このように露伴は英語と漢文を両方とも学ぶという、
なかなか面白い勉強の仕方をしました。
とはいえ、いつまでもぶらぶらしているわけにもゆかず、
明治16年、17歳のとき、電信修技学校に入学します。
東京の下町では、明治から大正にかけ、
電信技師や電話交換手になった人が多いように思われます。
たとえば、三味線や長唄、清元などの芸事のプロ、
もしくはプロに近い人でも、それだけでは生活できないので、
昼間は電話局や電信局に勤めるわけです。
・・・・・何か手に職をつけなければならないというので、
電信修技学校に入ったのでしょう。優等生だったので
学費免除の給費生となり、翌年に卒業します。
・・・・・
当時は師範学校もそうですが、修技学校の卒業者も
必ず一定期間、電信技師として勤務しなければならない
義務がありました。このため、露伴も明治18年、19歳の時に
東京を離れ、はるかかなたの北海道の余市に赴任しました。
ところが、約束は3年だったにもかかわらず、2年足らずで
職務を放擲し、東京に帰ってしまいます。
ときに明治20年、露伴21歳。・・・」
(「幸田露伴の世界」p3~7)
うん。ここから、作家露伴の足跡をおう
井波律子さんの真骨頂がはじまるのでした。
はい。わたしの引用はここまで(笑)。