和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

日本水泳。

2011-03-12 | 短文紹介
池部良著「江戸っ子の倅」(幻戯書房)。
そこに、水泳の話がでてきます。

「小学校の頃から日本水泳を習っていたので海はこわくなかった。」(p93)

「旧制中学校四年生になった年の夏前、
『お前(池部良のこと)や光介(弟)が、夏休み中家のなかでごろっちゃされていると、煩(うるさ)くて秋の展覧会に出す絵が描けねえ。俺が毎日、朝描いている社会戯評漫画の学芸部長が世話してくれた。大森海岸の海水浴場に一か月間ただで入れるパスをくれたんだ。これを持って明日から行って来い』とおやじが言った。・・・・・
大森馬込近くの我が家から海岸まで、乗合馬車や馬が牽く荷馬車が行き来していた。子供の足で一時間半はかかりそうだ。大森海岸は砂浜がない。コンクリート製の堤防が作られてあって、その上に簡単な屋根と柱と床とで出来た休憩所があった。
日本古式水泳の神伝流を教える水泳部に入った。僕は酷いちびだったから、裸になり赤い褌を締めて周りを見渡して、凄く恥ずかしかった。・・・・」(p77~78)

「千葉県館山から東に二駅ほど手前の那古船形と言う漁村の海岸に、わが母校明治学院中学部が臨海学校を兼ねて古式日本水泳を教えている水泳部が夏休みに入るとすぐ開校され、8月の25日辺りに閉校する。毎年応募して来る生徒は四、五十人はいた。始めて入部した生徒は一年生だろうが五年生だろうが五級という最下級のクラスから始められる。
合宿期間に二回ある進級試験(実地のみ)に合格すれば一階級と進み、水泳帽の周りに一本づつ黒い線が増え、一級ともなれば、まるで黒い帽子を被っているようで得意顔も絶頂になる。合宿所が設けられてある『大和屋』と言う旅館は汀から200㍍と離れていないから敷地は砂地だった。」(p147)


さてっと、池部氏は軍隊に入って、バシー海峡で運よく轟沈をまぬがれたのに、つぎのセレベス海で海に投げ出されることとなります。そこのさわりを。

「昭和19年五月某日。僕はフィリピン南島のセレベス海に浮んでいた。太陽は倣然と輝き、海面は穏やかだった。乗船していた輸送船が敵魚雷を受け沈没。第32師団衛生隊・第二中隊の士官だった僕は兵員たちと一緒に海に飛び込んだのだった。・・・・・
それから約半日後、僕らは日本海軍駆潜艇によって救助された。やれやれ助かった。命を拾った。そんな思いはいっさい浮んでこなかった。12時間海に漂い続けていた僕はただ朦朧としていた。そして、船はハルマヘラ島のワシレ湾に入り、救助された将校、兵は上陸。その一週間後、師団の作戦変更があって、突如、師団衛生隊長となり、ハルマヘラ島ダル地区の警備に当たることになった。・・・・」(p93~94)

きわめてたんたんと明るく語られているのですが、
それはたとえば、
「おやじの絵はリアリズムと言われればそうかも知れないが色が薄暗く、倅としても、も少し明るけりゃなあと思ったことがある。」(p68)
と父親のことを語っておりますから、この文章の明るさは池部良氏の意識的な特徴なのかもと愚考いたします。
コメント
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