外山滋比古氏のエッセイを読んでいると、前の本と重複するエピソードが出て来ます。内容も重なることが多い。ひょっとして、ご自身も繰り返し、本になるたび読み直しされているのじゃないのでしょうか。そうですよね。また、それを落語家の噺でも聴くようにして、読むのが新米のファンの楽しみ。
さてっと、だいぶ前に読んで忘れられない箇所が、そういえば、ありました。河上徹太郎氏の「座右の書」という2ページほどの文(「史伝と文芸批評」作品社・p122~123)
そこから一部だけ引用。
「いつか女房連れで福原麟太郎氏に合つた時、氏は御愛想に『河上さんはうちでよく本を御読みでせうね』といはれたら、女房が『ええ、ところが何かと思つて見ると、自分で書いたものを一生懸命で読んでるんですよ』と答へた。福原さんは、『そいつはいい』とわが意を得たやうに笑つて下さつた。」
この箇所を最初に読んだ時は、へ~、そんなことがあるのかと、不思議な感じで印象に残っていたのですが、昨日自分の以前のブログを読み返していたら、すっかり忘れていた引用に出くわして、その時々で、連想するのもいろいろと変わってゆくのをあらためて感じたのでした。
たとえば、和田浦海岸のブログ2010年2月5日は「筆不精」とあり、外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)からの引用があり。その引用箇所に
「とにかく・・筆まめである。ひところは、年にハガキ三百枚、封書を百本くらい書いていたことがある。年賀状は別としてである。・・・原稿を送るときにも、原稿だけではなく、かならず、短いあいさつを添える。・・・」(p132)
という箇所を引用しておりました。手紙ということで、今回の連想。
昨日、福原麟太郎随想全集1(福武書店)の月報に、ふれて、そのままになっておりました。その月報には白洲正子・加藤楸邨・巌谷大四の3人が書かれているというところまで書いておわったのですが、今日は、それに触れてみたいと思います。
まずは、白洲正子氏の文。
そこでは、随筆に「この頃は土筆や蕗の台がなくなって寂しくなった」とあり、白洲さんが御自身の家で生えている野草を摘んで送った話をしておりました。以下引用。
「先生は大そう喜ばれ、ていねいなお礼を書いて下さった。馬鹿の一つ覚えで、それがわが家の年中行事となり、毎年春になると、初物の野草を先生に送るならわしとなった。その度に自筆で心のこもったお礼状が来た。・・・福原先生と私の付合いは、そういった他愛のないもので・・以外に私には何もできなかったが、その滋味あふるるお手紙は、人との付合いはこうあるべきものだ、どんな小さなこともおろそかにしてはならないと、そういうことを教えるようであった。」
これが、2~3ページほどの文の書き出しでした。
加藤氏の文は、「私がいただいた先生の本の中で、最も惹かれたのは『チャールズ・ラム伝』で・・・」と始まります。こちらは、手紙という言葉が出てこないので次にいきます。
巌谷大四氏の文はこうはじまっておりました。
「去年の春、手紙の整理をしていたら、福原先生から頂いた封書や葉書が十数通あった。それを一つ一つ読み返し、しばらくの間先生の面影を偲んだ。先生は私のつたない著書を全部読んで下さっていた。お手紙の殆んどはその温いご批評であった。・・・」
そして、巌谷氏の文の最後は、頂いたお手紙からの引用なのでした。
(うん。昨日書き残したことを、引用できてよかった)
話がかわりますが、
寺田寅彦と中谷宇吉郎のお二人のエッセイは似ておりますね。
福原麟太郎と外山滋比古のお二人のエッセイも、その意味では似ております。
たとえば、外山滋比古著「失敗の効用」に「郵便好き」という文。
はじまりは「郵便が好きである。うちにいる日に郵便の来る時刻になると落ち着かない。玄関の方で音がすると飛び出していく。空耳のこともあるが、配達さんとハチ合わせということもある。郵便は一日のハイライトだ。」
福原麟太郎のエッセイに「郵便」と題した文。
そのはじまりは、
「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。返事はなかなか書かないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。私は、九時以後まで宅にいる朝には、きょうは郵便を見て出られると喜び、九時前に家を出る日には、今日は帰ってからの楽しみがあると思って靴をはく。・・・」
ちなみに、これは「福原麟太郎随想全集3 春のてまり」(福武書店)では14ページほどの文となっており、手ごたえあり。
え~と。私はなんでこんなことを書いているのだろうなあ。
じつは、最近「詩集」を二冊いただきました。
一つは、郵送でした。
一つは、直接詩人がもってきて、手渡しでくださいました。
そのどちらにも、私はお礼の手紙を書いていないのでした。
おそらくは、そんなことを無意識に思いながら、このブログを書きこんでおります。
さてっと、だいぶ前に読んで忘れられない箇所が、そういえば、ありました。河上徹太郎氏の「座右の書」という2ページほどの文(「史伝と文芸批評」作品社・p122~123)
そこから一部だけ引用。
「いつか女房連れで福原麟太郎氏に合つた時、氏は御愛想に『河上さんはうちでよく本を御読みでせうね』といはれたら、女房が『ええ、ところが何かと思つて見ると、自分で書いたものを一生懸命で読んでるんですよ』と答へた。福原さんは、『そいつはいい』とわが意を得たやうに笑つて下さつた。」
この箇所を最初に読んだ時は、へ~、そんなことがあるのかと、不思議な感じで印象に残っていたのですが、昨日自分の以前のブログを読み返していたら、すっかり忘れていた引用に出くわして、その時々で、連想するのもいろいろと変わってゆくのをあらためて感じたのでした。
たとえば、和田浦海岸のブログ2010年2月5日は「筆不精」とあり、外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)からの引用があり。その引用箇所に
「とにかく・・筆まめである。ひところは、年にハガキ三百枚、封書を百本くらい書いていたことがある。年賀状は別としてである。・・・原稿を送るときにも、原稿だけではなく、かならず、短いあいさつを添える。・・・」(p132)
という箇所を引用しておりました。手紙ということで、今回の連想。
昨日、福原麟太郎随想全集1(福武書店)の月報に、ふれて、そのままになっておりました。その月報には白洲正子・加藤楸邨・巌谷大四の3人が書かれているというところまで書いておわったのですが、今日は、それに触れてみたいと思います。
まずは、白洲正子氏の文。
そこでは、随筆に「この頃は土筆や蕗の台がなくなって寂しくなった」とあり、白洲さんが御自身の家で生えている野草を摘んで送った話をしておりました。以下引用。
「先生は大そう喜ばれ、ていねいなお礼を書いて下さった。馬鹿の一つ覚えで、それがわが家の年中行事となり、毎年春になると、初物の野草を先生に送るならわしとなった。その度に自筆で心のこもったお礼状が来た。・・・福原先生と私の付合いは、そういった他愛のないもので・・以外に私には何もできなかったが、その滋味あふるるお手紙は、人との付合いはこうあるべきものだ、どんな小さなこともおろそかにしてはならないと、そういうことを教えるようであった。」
これが、2~3ページほどの文の書き出しでした。
加藤氏の文は、「私がいただいた先生の本の中で、最も惹かれたのは『チャールズ・ラム伝』で・・・」と始まります。こちらは、手紙という言葉が出てこないので次にいきます。
巌谷大四氏の文はこうはじまっておりました。
「去年の春、手紙の整理をしていたら、福原先生から頂いた封書や葉書が十数通あった。それを一つ一つ読み返し、しばらくの間先生の面影を偲んだ。先生は私のつたない著書を全部読んで下さっていた。お手紙の殆んどはその温いご批評であった。・・・」
そして、巌谷氏の文の最後は、頂いたお手紙からの引用なのでした。
(うん。昨日書き残したことを、引用できてよかった)
話がかわりますが、
寺田寅彦と中谷宇吉郎のお二人のエッセイは似ておりますね。
福原麟太郎と外山滋比古のお二人のエッセイも、その意味では似ております。
たとえば、外山滋比古著「失敗の効用」に「郵便好き」という文。
はじまりは「郵便が好きである。うちにいる日に郵便の来る時刻になると落ち着かない。玄関の方で音がすると飛び出していく。空耳のこともあるが、配達さんとハチ合わせということもある。郵便は一日のハイライトだ。」
福原麟太郎のエッセイに「郵便」と題した文。
そのはじまりは、
「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。返事はなかなか書かないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。私は、九時以後まで宅にいる朝には、きょうは郵便を見て出られると喜び、九時前に家を出る日には、今日は帰ってからの楽しみがあると思って靴をはく。・・・」
ちなみに、これは「福原麟太郎随想全集3 春のてまり」(福武書店)では14ページほどの文となっており、手ごたえあり。
え~と。私はなんでこんなことを書いているのだろうなあ。
じつは、最近「詩集」を二冊いただきました。
一つは、郵送でした。
一つは、直接詩人がもってきて、手渡しでくださいました。
そのどちらにも、私はお礼の手紙を書いていないのでした。
おそらくは、そんなことを無意識に思いながら、このブログを書きこんでおります。