池部良著「江戸っ子の倅」(幻戯書房)を読んでいると、
こんな箇所があります。
戦争中の昭和19年5月。
「僕らは日本海軍駆潜艇によって救助された。やれやれ助かった。命を拾った。そんな思いはいっさい浮かんでこなかった。12時間海に漂い続けていた僕はただ朦朧(もうろう)としていた。」(p93)
とあります。
ここをもうすこし詳しく読んでみると「バシー海峡」という言葉が出てくるのでした。「バシー海峡」で思い浮かぶことがあります。山本七平著「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」(角川oneテーマ21)。その第二章「バシー海峡」の最後は、こうしめくくられておちました。
「・・・すべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは、今でも基本的には全く同じ行き方をつづけているため、この問題に触れることを、無意識に避けてきたからであろう。従ってバシー海峡の悲劇はまだ終っておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出して来るであろう。」(p68)
では、池部良氏と「バシー海峡」は、どう関係しているのか。
それを以下に引用。池部氏は輸送船に乗っておりました。
輸送船は左縦列と右縦列と並んでバシー海峡を通過しております。
池部氏は右縦列の二番船の天津山丸に乗っておりました。
「昭和19年の5月のいつだったかは忘れている。防衛庁の戦史を開けば分るかも知れない。フィリッピン、マニラ港の波止場に寝泊りして四日が経つ。
六日前のバシー海峡で、左縦列六隻の輸送船が、月は出ていたのかも知れないが、ほとんど漆黒の闇の中、アメリカ潜水艦の餌食となって、大火柱を上げ、世界一深いと言われる海溝に沈んで行った。六隻とも、海軍用語の轟沈だったらしい。僕は右縦列に組まれた二番船の天津山丸に乗っていた。望見出来た六個の大火柱を、甲板の手摺り鎖を握りしめて見つめた。・・・」(p86)
この「バシー海峡」を運よく沈むことなく逃れた天津山丸でしたが、残念ながら、次の航海で沈没させられるのでした。
ここでは、山本七平氏の文にもどろうと思います。
「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」(p37)
「なぜ・・・レイテをあげずにバシー海峡をあげたのであろうか。また一方、戦記とか新聞とかは、なぜ、だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか。ここに、戦争なるものへの、決定的ともいえる視点の違いがあり、同時に、戦争と戦闘との区別がつかず、戦争を単に戦闘行為の累積としてのみ捕える、いわゆるジャーナリスティックな刺激的・煽動的見方への偏向がある。」(p38)
「昭和19年4月末、私(山本七平)は門司(もじ)の旅館にいた。学校らしい建物にも民家にも兵隊があふれていた。みなここで船に積まれ、どこかに送られる。大部分がおそらく比島であろう。アメリカの潜水艦は、日本全体が緒戦の『大勝利』の夢からまだ醒(さ)めぬ18年の9月に、すでに日本の近海で自由自在に活躍していた。潜水艦による輸送船の沈没は、原則として一切新聞に出ない。・・・」(p44~45)
ここから山本七平は小松真一著「虜人日記」の、これに関連する箇所を引用しながら、話を進めておられるのでした。
新聞とか戦記とかで「だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか」とする山本七平氏でしたが、さりげなくも、池部良氏が、戦争中にそのバシー海峡の生き残った一人だったわけでした。
こんな箇所があります。
戦争中の昭和19年5月。
「僕らは日本海軍駆潜艇によって救助された。やれやれ助かった。命を拾った。そんな思いはいっさい浮かんでこなかった。12時間海に漂い続けていた僕はただ朦朧(もうろう)としていた。」(p93)
とあります。
ここをもうすこし詳しく読んでみると「バシー海峡」という言葉が出てくるのでした。「バシー海峡」で思い浮かぶことがあります。山本七平著「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」(角川oneテーマ21)。その第二章「バシー海峡」の最後は、こうしめくくられておちました。
「・・・すべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは、今でも基本的には全く同じ行き方をつづけているため、この問題に触れることを、無意識に避けてきたからであろう。従ってバシー海峡の悲劇はまだ終っておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出して来るであろう。」(p68)
では、池部良氏と「バシー海峡」は、どう関係しているのか。
それを以下に引用。池部氏は輸送船に乗っておりました。
輸送船は左縦列と右縦列と並んでバシー海峡を通過しております。
池部氏は右縦列の二番船の天津山丸に乗っておりました。
「昭和19年の5月のいつだったかは忘れている。防衛庁の戦史を開けば分るかも知れない。フィリッピン、マニラ港の波止場に寝泊りして四日が経つ。
六日前のバシー海峡で、左縦列六隻の輸送船が、月は出ていたのかも知れないが、ほとんど漆黒の闇の中、アメリカ潜水艦の餌食となって、大火柱を上げ、世界一深いと言われる海溝に沈んで行った。六隻とも、海軍用語の轟沈だったらしい。僕は右縦列に組まれた二番船の天津山丸に乗っていた。望見出来た六個の大火柱を、甲板の手摺り鎖を握りしめて見つめた。・・・」(p86)
この「バシー海峡」を運よく沈むことなく逃れた天津山丸でしたが、残念ながら、次の航海で沈没させられるのでした。
ここでは、山本七平氏の文にもどろうと思います。
「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」(p37)
「なぜ・・・レイテをあげずにバシー海峡をあげたのであろうか。また一方、戦記とか新聞とかは、なぜ、だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか。ここに、戦争なるものへの、決定的ともいえる視点の違いがあり、同時に、戦争と戦闘との区別がつかず、戦争を単に戦闘行為の累積としてのみ捕える、いわゆるジャーナリスティックな刺激的・煽動的見方への偏向がある。」(p38)
「昭和19年4月末、私(山本七平)は門司(もじ)の旅館にいた。学校らしい建物にも民家にも兵隊があふれていた。みなここで船に積まれ、どこかに送られる。大部分がおそらく比島であろう。アメリカの潜水艦は、日本全体が緒戦の『大勝利』の夢からまだ醒(さ)めぬ18年の9月に、すでに日本の近海で自由自在に活躍していた。潜水艦による輸送船の沈没は、原則として一切新聞に出ない。・・・」(p44~45)
ここから山本七平は小松真一著「虜人日記」の、これに関連する箇所を引用しながら、話を進めておられるのでした。
新聞とか戦記とかで「だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか」とする山本七平氏でしたが、さりげなくも、池部良氏が、戦争中にそのバシー海峡の生き残った一人だったわけでした。