和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

引き写すだけで。

2011-03-02 | 短文紹介
そういえば、この頃、谷沢永一氏の単行本にお目にかからない。
つい最近までは、一年に一回ぐらい、渡部昇一氏との対談が単行本としてあり、楽しみにしておりました。

黒澤引光・竹内薫対談「心にグッとくる日本の古典」(NTT出版)が出ております。
その最初は伊勢物語をとりあげており、「梓弓」「筒井筒」について話されております。
そのまえに、ちょっと竹内氏のまえがきを引用。

「本書は、科学作家の竹内が、恩師である黒澤先生に『教えを乞う』形式になっています。黒澤先生は筑波大学附属高校で38年間、古典を教え続けてきたベテランです。定年退職された今も、あちこちの高校の国語の先生たちに古典指導についてのアドバイスをされたり、いまだに大忙しの毎日です。・・・・38年間、黒澤先生に古典を教わって、巣立っていった生徒たちは、みんな古典が大好きです。それは、速読とは一線を画した、先生の『行間を味わいながら読む方法』により、古典が決してつまらないものではなく、ある種の『絶頂体験』をもたらすものだとわかったからです。」


さてっと、伊勢物語で、その行間を味わうのを妨害する事例を紹介しておりまして、印象に残ります。


「『梓弓』の中に付いているある注に、僕は非常に怒っているんですよ。あの注のために、この話の魅力はほとんど飛んでしまうだろうと思うくらいです。・・・不用意に取り入れて、それが教科書の注にまでなってしまうのは非常に問題だと思うんです。・・・・」(p14~15)

ここでは、具体的なことに触れていると字数がかさむので飛ばします。

黒澤】 ・・こういうことは本当に恐ろしいことなんです。ここにあるのは、僕が大昔に買った『岩波古典体系』の初版で、もう40年以上前のものです。この本では、・・・頭注ではなく補注に載っています。
竹内】 僕のほうは最近のものです。本文の上に注として載っています。
黒澤】 ということは、この三、四十年の間に、この・・・条文が前面に出てきてしまっているということですね。僕の本にはちゃんとこう書いてある。『・・・とあるのをふまえているという』です。
竹内】 『かもしれないね』みたいな。
黒澤】 そうです。・・・
竹内】 ・・・・
黒澤】 この説を書かざるを得ないが、どうもおかしい、ということで、『という』として、いわば断定を避けているんです。しかし、これはケースが違うという反論がちゃんとあったのに、その反論は黙殺されて、いつの間にかこの【説】が前面に出てしまっている。これはよくないとわかっているのに、だんだん事態は進行していってしまう、いまの政治の状態と似ているでしょう?
竹内】 似ていますね。この律令の条文に気づいた人は学者なんですか。
黒澤】 はい。しかし・・・反論は、早い段階でちゃんとあったんです。それがいつの間にか、あたかも決まりきったことのように、教科書の注にまで出てきてしまった。
竹内】 つまり、みんながあまり考えずに、この説を引き写しているだけなんですね。
黒澤】 そのとおり。残念ながら、国語の世界はそういうことがけっこう多いんです。私が初めて『梓弓』を筑波大附属の教室で扱ったのは、いまから20数年前、はるか前です。そのときは、この注はなかったので普通に授業ができた。ところが・・・・・(~p20)


竹内】 話はずれますが、教科書の間違いというのは物理にもよくあります。・・・・・
なのに、そのウソの説明がずっと教科書に書いてあって、だれもそれをチェックしないままだったんです。ある一人の学者が言い出したことを、みんながずっと引き写すんです。引き写すだけで、だれもそれについてまともに考えていないんです。
黒澤】 同じですね。でも、物理の世界はまだ実験して否定できますが、国語の場合はどうしようもないんです。(p21)




ここで。そういえば、と思ったのは谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文芸春秋)でした。この本には索引があるので、探すのに便利。私がまず見たいと思ったのは、中村幸彦での人名検索。38箇所ありました。そこだけ読み返してもグッとくるのでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする