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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

二人差し向かいで。

2011-03-16 | 短文紹介
丸谷才一氏の「思考のレッスン」は身近な本棚に置いております。丸谷氏の評論では、マガジンハウスから出ている本が好きです。というか、ほかの出版社とは、同じ著者でも味わいが異なる。この不思議。

さてっと、では、谷沢永一氏の話。
晩年の谷沢永一氏の対談では、渡部昇一氏とのものを、毎回楽しみにしておりました。読みながら、これは山本七平を読み直さなきゃと思ったり、テーマの本を注文したりしておりました。ついては、渡部昇一氏の「谷沢永一さんを偲ぶ」(産経新聞2011年3月14日)のはじまりは、大修館書店の編集者・藤田恍一郎(こういちろう)氏が登場しております。新聞の追悼文のはじまりの箇所を引用してみます。


「谷沢永一さんの専門は国文学で、私の専門は英語学である。本来ならば、お知り合いになる機会はなくても不思議はなかった。それが、この30年間に対談本を20冊も作るようになったのは・・大修館書店の若き(当時)編集者、藤田恍一郎氏(東京大学仏文卒)が対談本の企画を立ててくれたことから始まる。70年代のおわりのころ、今から三十数年前のことであった。・・・・私は当時、谷沢さんのことは全く知らなかった。藤田さんは次のように私に説明してくれた。『すごい蔵書で、国文学の世界では鬼のように怖れられているんです。私もその学会の大会に見学のため出たことがありますが、谷沢先生が入場すると、一瞬、会場が静まりかえったのです』と。谷沢さんの歯に衣きせぬ発言で、その学界でボスのような学者がもうその学会に出られなくなったという噂のある人だとも言った。私も発言ではあまり遠慮しない人間だと見て、噛み合わせてみようという編集者のアイデアであった。そして、見事に噛み合ったのである。・・・・」


ところで、谷沢永一と編集者といえば、私にすぐに思い浮かぶのは潮出版社の編集者・背戸逸夫。たとえば「読書人の点燈」を、昨日ダンボール箱から取り出してきたのでした。新聞雑誌に掲載された短文を集めただけの本なのに、味があって楽しめます。
たとえば、最初は「司馬遼太郎の贈りもの」という12ページほどの雑誌掲載文。最初のページに司馬さんの言葉が引用してあります。
「司馬遼太郎が、準備に五年、執筆に五年、四十代のすべてをかけた畢生(ひつせい)の作品『坂の上の雲』のあとがきに・・・その執筆態度について、『小説とは要するに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを書くというだけのもので、それ以外の文学理論は私にはない』とある」(p7)

私が線をひいていたのは「手紙は最大の心尽くし」(p38~45)
「雑書放蕩六十年」(p90~96)には、阪神大震災のことから書き起こされておりました。うん、ここも少し引用しておきます。

「阪神大震災を機に、かなり蔵書を処分しました。」とはじまります。

「古本屋さんに来てもらいました。彼らなりの関連事項別にぱっぱっと分け、素早く紐でひと塊ずつにしていく。それでも四日間かかりました。大震災の日は、川西市の自宅におりました。午前三時に起きて原稿を書いていたんです。ひと休みということで、茶の間で一服していたその時、ぐらっと来ました。傍らに食器棚があったのですが、これが劇的にバーンと開きましてね、上下動のせいで食器が垂直に落ちてきました。書庫のことは念頭に浮かびませんでした・・・・冬の一月、まだ真っ暗でした。しばらくして、空が白み始めるころ、はっと気が付いて書庫に向かいました。異様な状態というしかありません。一階の書架は大きく傾き、一部は壊れている・・・・ようやくにして二階に昇ったとたん、呆然としました。数万冊の本という本がすべて床に叩きつけられている。・・・・ときかく手の付けようのない状態です。すると、すぐ司馬遼太郎さんから速達が届きました。自分で本を棚に戻そうとしてはいけません、本に無関心の方に片づけてもらうようにしなさい、そして暖かくなってからご自身で編成がえをするように――そう書いてありました。・・・・」

「震災で得た『五つの教訓』」(p100~103)は昨日引用しました。

そうそう、文芸春秋に掲載されて印象深かったのですが、すっかり忘れていた短文もここにありました。「新聞書評に頼らないで、10冊」(p152~155)そのはじまりは、「選択の基準は簡単です。私がかねてより心から尊敬し、その人の述作は全部かならず目を通そうと決めている方々の著書のなかから、この二年以内に刊行されたものを選んでみました。それ以外にも秀れた貢献は沢山あり、その多くは、これから読むべしと、背後の書棚にずらりと並べてあります。・・・・配列は刊行年代順にととのえましたが、今年の二月までに刊行された七冊を御覧になれば、直ちにお気付きのように、これらはほとんど、新聞および週刊誌において十分には書評されておりません。最新刊の三冊のうちでも、『風塵抄二』を例外として、残りの二冊はおそらく書評にとりあげられないでしょう。期せずして私の贔屓(ひいき)とする著作家のほとんどは、現在の書評家陣営によって忌避されているのです。・・・」まあ、こんは風にはじまっております。

毎日新聞に掲載された「出版社の社史三冊」(p230~231)も、この本に収録されておりました。
この潮出版社から出されている本には毎回、「編集者と著者との密談」というのが最後に掲載されているのと、そのあとに月報もあり、盛りだくさん。

あ、そうそう。「エッセイストの条件」(p211~216)は、渡部昇一氏をとりあげております。ここも引用しておきます。


「・・・名文とはどういうことかというとちょっと問題であるけれども、しかし物事を捉えてそれを切り口上で言うということは実は非常に簡単なことなんだ。本当はいろんなことを取り合わせて、いろんなことを言いながら、全体として気分を出すということが、文章の最も難しい極地なのである、ということを申しております。・・・・私はエッセイというものは論説、議論ではなく、つまりニュアンスであって、すなわちエッセイというものは何か特定のテーマを論証するものではございませんで、人間として一番、誰もが全部関心のあること、これは人間であり、人の心でありますが、その人の心を論じながら人の心を語りながら人の心に訴えかけるという、これが私はエッセイというこのスタイルの一番の根幹であろうかと思うわけでございます。まさに渡部昇一先生は生まれながらのエッセイストであると私は思っております。・・・そして、その渡部エッセイを読むことは渡部先生と二人差し向かいで静かに語り合うという雰囲気をいつも与えてもらえる。・・・・」



そういえば、すっかり忘れていたのですが、PHP文庫の谷沢永一著「紙つぶて(完全版)」(1999年)の解説は、渡部昇一氏でした。阪神大震災の被災の状況から語りはじめられており。一読して、背筋を伸ばさなければという文でした。
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序文と目次と後記。

2011-03-15 | 前書・後書。
谷沢永一氏の震災体験が載っていた雑誌「ノーサイド」平成5年5月1日をさがす。出てこない。たしか、単行本に再録されていたと、さがせば潮出版社の谷沢永一著「読書人の観潮」にある。本の最初には平成7年1月28日「産経新聞」大阪版に掲載された「阪神大震災」でした。その文の最後は、

「臨機応変の反射神経を持たない村山首相は無能である。しかし有能なプロの政治家を毛嫌いして、キャリアの乏しい素人ばかり選んできた我が国民の強すぎる嫉妬心もまた、反省材料のひとつであろう。」(p12)

その次の文が「私の書庫被災白書」。「ノーサイド」に掲載されたもので、本を処分する話。
「しかし現在は蔵書を処分するのに最も都合の悪い時期である。私は五十年来、全国の古書店と殆ど洩れなくつきあってきたから、業界の傾向と景気については知悉している。今は学術書も売れず雑誌も売れない時期なのだ。・・・今の学者は本を買わない。・・」(p18~19)

さてっと、この文の最後を引用。

「このたびの整理で私がしっかりと手許に残したのは、超一流の学者の著述である。そして二流以下にはすべて流出していただいた。しかし改めてつくづく思うに、あの二流以下をもし読み漁らなかったら、ひょっとすると超一流を超一流と認めることができなかったかもしれない。よほどの天才的は読み巧者は別として、私のような凡俗は、あれこれと無駄な浪費的読書をしなければ、真物(ほんもの)に突き当たれなかったもののようである。
世には一筋の目的を定めて、見事に完備した蒐書(コレクション)を完成する人もいる。しかし私は五十年間、行き当たりばったりの無目的な買い集めに終始した。遂に読まなかった読めなかった本も甚だしく多い。近世期には外題(げだい)学問という蔑称があった。書名や書目だけに通じて内容を研究しない半端者を言う。私もまたその種の半可通かもしれぬ。しかし私は全国の古書販売目録を熟視して、これはなんの本かいなと思案しながら意を決して注文し、着いた本を見て喜んだり失望したりしながら撫でまわした。内藤湖南の教えるところに従って、序文と目次と後記とだけを読んだりしたものである。私にはそれが十分に役立った。身銭を切っただけのことはあったと思っている。私の蔵書は流出したけれども、その一点一点を手許に引き寄せる喜びが、私の五十年を貫く主導調であったろう。尽きぬ感謝の念を以って、私は旧蔵書を恭しく見送ったのであった。」(p21)

ちなみに、潮出版社の谷沢永一著「読書人の点燈」には、「震災で得た『五つの教訓』」(平成8年2月1日「プレジデント」34巻2号)という文。
こちらも、その最後の方を引用。


「私はすでに65歳、これを全部もとどおり有効に並べることなど不可能である。そこで、とりあえず若い大工さんに頼んで、手あたり次第に原則的に、つまり滅茶苦茶に棚へもどしてもらった。続いて、懇意の古書店に来ていただき、朝から夕方までの四日間、手放すべき本を私が抜きとる作業を急いだ。その結果、放出する古書が二頓トラック三台分、我が家から運びさられたのである。残ったのは大体もとの半数ちょっと、それがいまだに無秩序なまま書棚に残っている。それすら並びかえる元気はない。・・・
あれから一年、私は今も自分が絶対に持っている筈なのに見つからぬ本を探して、書棚の前をうろうろしている。さしせまった仕事に要る本は、業腹だけれど改めて買ったり、また図書館から借りだしたりしなければならない。本に怨みはかずかずござる。震災後の私は、自分の本を見つけるのに難儀するという面白くない徒労を強いられているのである。」(p103)


私がすぐにも真似できるのは、「序文と目次と後記とだけを」という箇所しかないと。ハイ。よくわかっております。それでもって、各文の最後を引用したというしだいです。ハイ。
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谷沢先生。

2011-03-14 | 他生の縁
2011年3月14日産経新聞の文化欄に渡部昇一氏の「谷沢永一さんを偲ぶ」が掲載されております。
ここには、最後の箇所を引用。


「・・・・谷沢さんが私を信用してくれたのは、70年代に吹き荒れた解放運動の中の過激派の攻撃に対しての私や上智大学の対応だったと思う。谷沢さんもその体験者であった。大阪と東京とでは状況はうんと違うと思うが、言論糾弾という点では共通点があった。その後、私の関係する小さな研究会に運動の有力者を招待して、その話を聞く機会を作ってくれたのも谷沢さんであった。
松下幸之助さんが(世界を考える)京都座会を作り、その下にいろいろな研究会がPHP研究所内にできたとき、私は『人間観の研究』という部門をやるように言われた。その恒久的なメンバーの一人に谷沢さんをお願いした。
この集まりは今年で300回を超えたが、そのうち280回ぐらいは谷沢さんも大阪から出席してくださった。必ず行われた二次会は、赤坂のカラオケのできるクラブであった。谷沢さんは『昭和枯れすすき』とか『風の盆恋歌』とか、湿っぽい歌が好きだった。席での会話は談論風発、面白い世間話の宝庫のような谷沢さんは陽気で明るく、ホステスたちを感心させたり、喜ばせたりしておられたが、歌うとなると急に景気の悪い歌ばかりで、その対照の妙が本当に懐かしい。研究会のメンバーも毎回、『谷沢先生がいないと華がなくなったようでさびしいな』と言いながら、軍歌などを歌っている。 ご冥福を祈り合掌。」


この日の産経新聞一面は、大見出しが「福島3号機も廃炉へ」。
この日の産経「次代への名言」は、池部良著「風、凪んでまた吹いて」からの言葉。「世間にゃ偉い人だといわれている奴にでも、納得しなきゃ、俺は、先生なんてふざけた呼び方はしねぇんだ」
名言のあとの解説は「そう、父の洋画家、鈞(ひとし)さんは、池部良さんに言った。・・・・」とはじまっておりました。
それじゃ。というので私は「江戸っ子の倅」をひらき、この箇所を引用。
それは「程よい理性人」と題した3ページほどの文。はじまりは

「洋画家だったおやじに言わせると、『先生と呼んでもおかしくない人は、そう沢山はいない。俺なんか生涯たったお二人だった。後は先生と呼んだ方が相手も気分よく付き合ってくれるし、何かと便利だし得だからな。お前も俳優になって、少しは名前が出るようになったらしいが、せいぜい気をつけるんだな』と復員して三年目『青い山脈』が封切られた日、そう言われたのを覚えている。」

ちなみに、池部良氏の文は、このあと映画監督の小津安二郎が登場。
その監督の謦咳が拾われております。

「『良べえ(池部良のこと)、一言(ひとこと)言っておくがな、東宝じゃ台詞(せりふ)を覚えて来ないそうだが、ここはそうはいかないよ。この『早春』は野田(高梧さん)と二人、一年かけて書き上げたんだ。一字一句でも仇(あだ)疎かに削ったり忘れたりしてみろ、俺、ただじゃすまさないよ。と言うわけだが、ま、よろしく頼むよ、ウヒヒヒヒ』と前歯が一本抜けている間から、不思議な音を立てて高らかにお笑いになった。・・・」(p48)


以上、今日の産経新聞を読みながら。
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貴君は、きっと。

2011-03-13 | 手紙
はじめて知るエピソードというのは、印象に残るんですね。
たとえば、竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)に
黒柳徹子さんのエピソードが、一読忘れられないなあ。

「黒柳徹子さんは中学生のとき、東京・東急池上線の長原駅前で易者に手相を見てもらった。
  結婚は、遅いです。とても遅いです。お金には困りません。あなたの名前は、津々浦々に、ひろまります。どういう事かは、わかりませんが、そう、出ています。
        ―― (黒柳徹子「トットチャンネル」、新潮文庫)

・ ・・・・ 〈とても遅い〉という黒柳さんの結婚に注意を払っている人が世間に何人いるかは知らないが、筆者(竹内政明氏のこと)はその一人である。」(p120~121)


黒柳徹子さんの名前は、津々浦々にひろまりましたが、それでは池部良の名前は、どうでしょう。ということで、以下は池部良の強運を予言しているエピソード。それは池部良著「ハルマヘラ・メモリー」(中央公論社・古本ですが、文庫本もあるようです)。そこに、輸送船でバシー海へと出る直前にもらった手紙というのが、あるのでした。では、その手紙を以下に、

「私は、第三軍兵器部、技術将校、高田翔一郎大尉です。」

こう手紙は、はじまっておりました。
ちなみに、池部良著「江戸っ子の倅」に
「僕みたいな東京生まれの育ちと来てる男は、どういうわけか【律義】という重箱みたいなものが好きなようだ。」(p84)とあります。私は、この手紙も実際にもらったものだと思いながら読んでおりました。では手紙の文面をつづけます。

「先般、貴君の訪問を受けた際、拳銃を世話してくれとのことでしたが、貴君が、私の弟、順二と大学が同級であり、しかも英語会とかで共に過した間柄であることを知り、貴君に親近感を持ち、喜んで拳銃をお世話することになりました。貴君は、近く、南方へ進発するとか。・・・・貴君のおられる第三十二師団は、来る五月五日、ウースン港を出発、フィリッピンのミンダナオ島に向かう由であります。輸送船団は、最近になく大型船団で・・・更なる情報に依れば、台湾、フィリッピン間の海域、バシー海、揚子江河口、南支那海には、アメリカ軍潜水艦が跋扈(ばっこ)しているとのことです。我が国は、漸く電波探知機、即ち、敵を遠距離に於いても発見出来る電波機器の初歩が製作されつつありますが、アメリカの如く能力が高くなく、普及率が低いので、敵からは迅速に発見され、大いなる被害を被(こうむ)るわけです。戦況に著しい差が現われているのが現状です。従って、輸送船の如く、速力は鈍く、火砲が貧弱とあっては、敵の容易な標的になります。・・・通過せざるを得ないバシー海で、何も起こらないことを望む方が、おかしいのでありまして、私の想像では、必ずやアメリカ潜水艦群に襲われ、海没する輸送船が続出、兵員、一万二、三千名は戦死することになると思っています。これが、杞憂であればと祈るわけですが、技術将校として、敵を素早く発見出来る電波機器を保有している方が勝ち、と睨んでいますから、到底、我が軍は比べようもなく、脆くも、打ちのめされる結果になります。・・・私は、本職の軍人でもなく、兵科の将校でもありませんから、大本営の、無知にして無謀とも思える作戦指導に、腹を立てるのは間違いかも知れません。しかし、心を痛めずにはいられません。
私の心配が、的を外れていることを願っております。貴君は、運の強い人だと、私は思っております。この運を信じて、南方へ出撃して下さい。お互い、しなくてもいいことで青春の命を失う羽目に陥っているわけですが、この戦争が勝つにしろ、負けるにしろ、貴君は、きっと命を完(まつと)うすると思っております。私も人間でありますから、嘘をつくこともありますが、私には予感めいた閃きがあって、これは外れた例(ため)しがありません。貴君は、必ず、命を失うことはありますまい。私の言を信じて下さい。・・・・」(章「天空丸接岸」。単行本のp152~)


池部良は1918年2月11日生まれ。そして昨年2010年10月8日死去。
「貴君は、きっと命を完(まつと)うすると思っております」という高田翔一郎氏の言葉が、いまになって鮮やかに浮かび上がるようです。


とりあえず、池部良著「ハルマヘラ・メモリー」を開いて(通読していないのですが)、要所らしい箇所を読んでいたら、この手紙を読めたのでした。


うん。「ハルマヘラ・メモリー」を通読してみたいけれど。
もう、幻戯書房の池部良著「天丼はまぐり鮨ぎょうざ」を注文(笑)。
「貴君は、きっと命を完(まつと)うする」と言われた。
他ならぬ、そう言われた当人の文章を読むために注文。
ちなみに、幻戯書房「江戸っ子の倅」の最後のページに、好評既刊の紹介があります。そこから以下に引用しておきましょう。
まあ、本が届くまでの楽しみに。


「『天丼はまぐり鮨ぎょうざ』
 銀幕の大スター逝く ―― さりげなく人生を織りこんだ、この痛快な食物誌は、練達の技で、エッセイのあるべき姿のひとつを、私に教えた(北方謙三)。落語のように軽妙洒脱な文章で綴った、季節感溢れる「昭和の食べ物」の思い出。おみおつけ、おこうこ、日本人が忘れかけた味がここにある。生前最後の随筆集。」


こう引用していると、主役・池部良による
なにか、映画の予告篇みたいになります(笑)。
ワクワクして、読めるのを楽しみしております。
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日本水泳。

2011-03-12 | 短文紹介
池部良著「江戸っ子の倅」(幻戯書房)。
そこに、水泳の話がでてきます。

「小学校の頃から日本水泳を習っていたので海はこわくなかった。」(p93)

「旧制中学校四年生になった年の夏前、
『お前(池部良のこと)や光介(弟)が、夏休み中家のなかでごろっちゃされていると、煩(うるさ)くて秋の展覧会に出す絵が描けねえ。俺が毎日、朝描いている社会戯評漫画の学芸部長が世話してくれた。大森海岸の海水浴場に一か月間ただで入れるパスをくれたんだ。これを持って明日から行って来い』とおやじが言った。・・・・・
大森馬込近くの我が家から海岸まで、乗合馬車や馬が牽く荷馬車が行き来していた。子供の足で一時間半はかかりそうだ。大森海岸は砂浜がない。コンクリート製の堤防が作られてあって、その上に簡単な屋根と柱と床とで出来た休憩所があった。
日本古式水泳の神伝流を教える水泳部に入った。僕は酷いちびだったから、裸になり赤い褌を締めて周りを見渡して、凄く恥ずかしかった。・・・・」(p77~78)

「千葉県館山から東に二駅ほど手前の那古船形と言う漁村の海岸に、わが母校明治学院中学部が臨海学校を兼ねて古式日本水泳を教えている水泳部が夏休みに入るとすぐ開校され、8月の25日辺りに閉校する。毎年応募して来る生徒は四、五十人はいた。始めて入部した生徒は一年生だろうが五年生だろうが五級という最下級のクラスから始められる。
合宿期間に二回ある進級試験(実地のみ)に合格すれば一階級と進み、水泳帽の周りに一本づつ黒い線が増え、一級ともなれば、まるで黒い帽子を被っているようで得意顔も絶頂になる。合宿所が設けられてある『大和屋』と言う旅館は汀から200㍍と離れていないから敷地は砂地だった。」(p147)


さてっと、池部氏は軍隊に入って、バシー海峡で運よく轟沈をまぬがれたのに、つぎのセレベス海で海に投げ出されることとなります。そこのさわりを。

「昭和19年五月某日。僕はフィリピン南島のセレベス海に浮んでいた。太陽は倣然と輝き、海面は穏やかだった。乗船していた輸送船が敵魚雷を受け沈没。第32師団衛生隊・第二中隊の士官だった僕は兵員たちと一緒に海に飛び込んだのだった。・・・・・
それから約半日後、僕らは日本海軍駆潜艇によって救助された。やれやれ助かった。命を拾った。そんな思いはいっさい浮んでこなかった。12時間海に漂い続けていた僕はただ朦朧としていた。そして、船はハルマヘラ島のワシレ湾に入り、救助された将校、兵は上陸。その一週間後、師団の作戦変更があって、突如、師団衛生隊長となり、ハルマヘラ島ダル地区の警備に当たることになった。・・・・」(p93~94)

きわめてたんたんと明るく語られているのですが、
それはたとえば、
「おやじの絵はリアリズムと言われればそうかも知れないが色が薄暗く、倅としても、も少し明るけりゃなあと思ったことがある。」(p68)
と父親のことを語っておりますから、この文章の明るさは池部良氏の意識的な特徴なのかもと愚考いたします。
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12時間海に漂う。

2011-03-11 | 短文紹介
池部良著「江戸っ子の倅」(幻戯書房)を読んでいると、
こんな箇所があります。
戦争中の昭和19年5月。

「僕らは日本海軍駆潜艇によって救助された。やれやれ助かった。命を拾った。そんな思いはいっさい浮かんでこなかった。12時間海に漂い続けていた僕はただ朦朧(もうろう)としていた。」(p93)

とあります。
ここをもうすこし詳しく読んでみると「バシー海峡」という言葉が出てくるのでした。「バシー海峡」で思い浮かぶことがあります。山本七平著「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」(角川oneテーマ21)。その第二章「バシー海峡」の最後は、こうしめくくられておちました。

「・・・すべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは、今でも基本的には全く同じ行き方をつづけているため、この問題に触れることを、無意識に避けてきたからであろう。従ってバシー海峡の悲劇はまだ終っておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出して来るであろう。」(p68)


では、池部良氏と「バシー海峡」は、どう関係しているのか。
それを以下に引用。池部氏は輸送船に乗っておりました。
輸送船は左縦列と右縦列と並んでバシー海峡を通過しております。
池部氏は右縦列の二番船の天津山丸に乗っておりました。


「昭和19年の5月のいつだったかは忘れている。防衛庁の戦史を開けば分るかも知れない。フィリッピン、マニラ港の波止場に寝泊りして四日が経つ。
六日前のバシー海峡で、左縦列六隻の輸送船が、月は出ていたのかも知れないが、ほとんど漆黒の闇の中、アメリカ潜水艦の餌食となって、大火柱を上げ、世界一深いと言われる海溝に沈んで行った。六隻とも、海軍用語の轟沈だったらしい。僕は右縦列に組まれた二番船の天津山丸に乗っていた。望見出来た六個の大火柱を、甲板の手摺り鎖を握りしめて見つめた。・・・」(p86)

この「バシー海峡」を運よく沈むことなく逃れた天津山丸でしたが、残念ながら、次の航海で沈没させられるのでした。

ここでは、山本七平氏の文にもどろうと思います。

「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」(p37)

「なぜ・・・レイテをあげずにバシー海峡をあげたのであろうか。また一方、戦記とか新聞とかは、なぜ、だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか。ここに、戦争なるものへの、決定的ともいえる視点の違いがあり、同時に、戦争と戦闘との区別がつかず、戦争を単に戦闘行為の累積としてのみ捕える、いわゆるジャーナリスティックな刺激的・煽動的見方への偏向がある。」(p38)

「昭和19年4月末、私(山本七平)は門司(もじ)の旅館にいた。学校らしい建物にも民家にも兵隊があふれていた。みなここで船に積まれ、どこかに送られる。大部分がおそらく比島であろう。アメリカの潜水艦は、日本全体が緒戦の『大勝利』の夢からまだ醒(さ)めぬ18年の9月に、すでに日本の近海で自由自在に活躍していた。潜水艦による輸送船の沈没は、原則として一切新聞に出ない。・・・」(p44~45)

ここから山本七平は小松真一著「虜人日記」の、これに関連する箇所を引用しながら、話を進めておられるのでした。

新聞とか戦記とかで「だれもただの一度もバシー海峡に言及しないのであろうか」とする山本七平氏でしたが、さりげなくも、池部良氏が、戦争中にそのバシー海峡の生き残った一人だったわけでした。

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画家の文。

2011-03-10 | 短文紹介
池部良著「江戸っ子の倅(せがれ)」幻戯書房を読んでるところ。
おもしろい。
これがどういう面白さなのかと思っていると、
画家の文章ということを連想したのでした。
たとえば、
板坂元氏のことばに

「ある画家が『絵を描く秘訣は、何を描かないかを知ることだ』と言った。キャンパスの上に、あれもこれもと並べ立てるのではいけない。不要なものを切り捨てて、必要なものだけに絞ることが大事な要領なのだ。このように仕事というものは『何をするか』よりも、『何をしないか』を決めることのほうが大事な場合が多い」(p119「発想の智恵表現の智恵」PHP研究所)

というのがあります。
さてっと、池部良氏のこの本を読んでいると、
画家の父親の言葉があれこれと出てくるのが特徴となっております。
いまちょうど、食べ物の箇所を読んでいるところなのですが、
たとえば、その題名が
  どぜうなべ
  栗 
  白菜
  キャベツ
  ステーキ
  お餅
  ホステリン
  百合根 西瓜
  大根
  しじみ
  そうめん
というのです。おもしろいなあ。
普通の食べ物を語って、味がある。
この本には、どこにも父親が登場し活躍するのでした。

たとえば池部良の父親が語っているこんな箇所。

「そらぁ、そうだろう、俺みたいな絵描きの絵というものはな、観る人の心と共鳴するか、その人の心を揺さぶる効果がなくちゃいけねぇ。それが芸術ってもんだ。そこへ行くと」と言っておふくろを見据えたら、
「書家でも同じじゃありません?父はそう言ってました。書は文明や文化を伝える貴重な道具ではあるが、絵よりも遥かに精神的なもので、芸術に達しているものだと言ってました」とおふくろは負けじと口答えした。
僕には、【にゅうめん】がいつの間にか芸術まで高まったとは気がつかなかった。
・ ・・・・・
煮麺騒動があった翌年の春、大学を卒業、東宝映画に入社。十か月間撮影所に在籍していたが翌十七年二月には軍隊に入れられて娑婆(しゃば)との縁が切れた。


以上は「そうめん」と題した文にあります(p165~166)。
ついでに、ここも引用しておきます。


「生れた大正七年は1918年に当り、第一次世界大戦が終ったときだと聞かされている程度。僕の歴史を振り返ってみると、五歳になったら関東大震災に見舞われ、小学校を卒業する二、三年前から軍国主義の臭いと鞭(むち)に脅かされ続けて来たような気がする。
張作霖爆殺事件、満州事変、五・一五事件、関東防空大演習、日中戦争、上海事変、ノモンハン事件、第二次世界大戦、そして大東亜戦争。軍隊に入れられる24歳まで・・・」(p81)


そうそう、池部良の文章なのですが、
律義に父親の語りを踏襲して、江戸っ子の端的な語りがひかります。
その語りとは、どんなか。

「趣味のないおやじが何故か落語だけにはご執心だったから、落語の時間となると僕が勉強しているというのに大きな声で『始るぞ、早く来い、今日は小さんだ』とどなったりする。」(p151)
これは、「大根」という題の文に出て来ます。なんでも高級ラジオで落語を聴いている場面なのでした。
う~ん。もう一箇所引用したくなります。
それは、「坊っちゃん」と題した文でした。

「・・十八歳の春、中学校を卒業する・・・武運拙く三校揃って不合格。已むなくおやじに嫌な顔をされながら浪人になった。浪人に成りたての七月の暑い日・・・本を手にしたら、忽ち居眠りを始めてしまった。『良ちゃん』と揺さぶられ目を開けたら、とても僕の方からはお近付になりたいと思わない三歳年上の従兄晋一郎が立っていた。『僕は一発で早稲田大学に入ったから全く理解出来ないんだが、浪人って疲れるだろうね。僕、慰問を兼ねて受験の一助になると思って夏目漱石の坊っちゃんという小説を持って来たんだが、是非読み給え。落語みたいな文章だから良ちゃんだって楽に読めると愚考するな』と言って・・・」(p61)

おあとは読んでのお楽しみ。
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他人の余計な主観。

2011-03-09 | テレビ
元海上保安官の一色正春氏の本を読むと、
その経歴に目がいきます。
まず、卒業してからの最初の仕事が、「民間商船会社勤務中、オイルタンカーやLPGタンカーに乗船し東南アジア、ペルシャ湾、北米、ヨーロッパ、アフリカ航路に従事する」とあるのでした。

これについて、一色正春著「何かのためにsengoku38」(朝日新聞出版)では、
ビデオを、どこで出せばより効果的なのかを考察している箇所があるのでした。

たとえば、ここ

「当時、国家機密扱いになっていたビデオの内容を日本の放送局が放映できるのか、また日本のテレビは恣意的な偏った報道が多いので放映したとしても正確に放映するだろうかということを考え、日本のメディアは避けることにした。できるだけ多くの人に余計な解説がついていない事実だけを見てもらい、そして自分自身で考えてほしかったのである。他人の余計な主観は必要ないどころか邪魔なだけである。今思っても、やはり日本のテレビ局では、あのビデオを正確に放映することは難しかっただろうと思う。」(p112)

そこで、C社東京支社に動画データを郵送したのでした。
結局、それは無駄になるのですが、なぜC社なのかが、最初のタンカー乗船の仕事とつながっておりました。


「私がアメリカのテレビ局の中でもC社を選んだのは、私がペルシャ湾と日本を行き来しているころに起こった湾岸戦争の際に、C社が行った報道が印象に残っていたからである。自分が、数日後に行く港の近くで戦争が起こっているのであるから、当時の私は毎日、真剣にニュースを見ていた。そのときの現地レポーターが最後に決まり文句で言うC社の名前が私の印象に強く残っており・・・」(p118)

このタンカーでの経験は
私は、たとえば、以下の場面を思い浮かべます。

それは、谷沢永一・渡部昇一著「修養こそ人生をひらく」(到知出版社)。
すっかり内容を忘れていたので、あらためて開いてみました。
そうすると、こんな箇所があります。

【渡部】 ・・・日露戦争が終わると、お国のことを第一に考えなくなったんですよ。昭和に入ってからの戦争を見ますと、もう自分たちのことが第一ですね。・・・・
その典型が昭和19年秋の台湾沖航空戦ですよ。アメリカ軍と日本の基地航空部隊の戦闘ですけれど、このとき日本軍がアメリカの航空母艦を十何隻も沈めたという情報が大本営から流されたんですね。ところが、海軍の情報機関は『一隻も沈んでいない』と言っている。また陸軍情報参謀の堀栄三という人も戦果発表に疑問を抱いて大本営にその旨を伝えています。ところが、大本営は情報を訂正するでもなく、海軍も陸軍へ確度の高い情報を知らせなかった。その結果どうなったか。陸軍は大本営発表を鵜呑みにして、ルソン島へ送るはずだった兵隊をレイテ島へ送るように方針変更した。ところが、壊滅したはずのアメリカ艦隊が現れて、なすことなく全滅したわけです。師団長が戦死した場所もわからないし、死骸も出てこないのは、このレイテ戦だけですよ。それほど悲惨な戦争になってしまった。だって、航空母艦を十何隻も沈めたはずなのに実際は一隻も沈んでいないんだから。
【谷沢】参謀本部が画策して嘘の情報を流した。
【渡部】嘘の情報に乗ってしまったわけです。海軍の中でもインテリジェンス担当は『沈んでいない』と言っているのに作戦部は沈んだことにしたんですからひどい。
【谷沢】その状況を冷静に判断して口外すると敗北主義者と言われるわけです。・・・・

                        (p175~176)



佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬社)では、

「前原誠司外相は記者会見で『世界に説明することが大事だ』と述べ、『中国漁船が『体当たり』してきたことは、ビデオを見れば一目瞭然』と語っている。海上保安庁の巡視船は、体当たりの一部始終をビデオに撮っていたので、これを公表すれば中国側がいかにでたらめな主張をしているか、その一端がわかる。前原外相のこの危機管理は正しい。もしそのときのビデオを公表していれば、中国の反日暴動も防げたかもしれない。しかし、菅総理・仙石官房長官は中国に対する過剰な気遣いと保身のため、刑事訴訟法を持ち出して『裁判まで資料は不公表が原則』としたのだった。・・・」(p20~21)


もういちど、一色正春氏の本へともどります。

「私は民間の船会社に勤めているときに、イラン・イラク戦争や湾岸戦争が起こっている最中のペルシャ湾から日本へのエネルギー輸送に従事していた経験から、日本の国が外地にいる日本人を積極的に守ってくれるケースは少ないことを知っていた」(p58)


また、こんな箇所も書かれております。

「2010年に入ってから中国漁船が尖閣諸島付近の日本領海内での中国漁船に対する立ち入り検査の数が2010年9月現在で14件になっていることからもあきらかである。
この14件という数字は、少なく感じられるかもしれないが、通常、海上保安庁の巡視船は尖閣諸島付近の領海内にいる外国漁船に対しては領海外へ退去するよう求め、相手がそれに従ったならば、それ以上のことはしない。つまり、日本の領海内にいる外国漁船に対しては領海外へ退去するよう求め、相手がそれに従ったらば、それ以上のことはしない。つまり、日本の領海に侵入してくる中国漁船は、この何十倍以上いたが、その中でも海上保安庁の指示に従わない船が急増していたということである。
衝突が起こった当日も尖閣諸島周辺には約150隻の中国漁船がおり、そのうちの約30隻が日本の領海に侵入していたのだ。・・・」(p77~78)

C社はダメだったのですが、一色氏はこう語っておりました。
「私は別にC社を非難するわけでなく、むしろ感謝している。どのようなテレビ局でも、YouTube以上の効果は期待できなかっただろうからである。」(p120)

「私が驚いたのはインターネットの情報拡散能力である。反応の大きさは大方予想通りであったが、映像が広がる速度が正直ここまで速いと予測はしていなかった。それよりも私が望んでいたこととはいえ、いとも簡単に国家機密とされる映像をYouTubeから転用して国営放送を始めとするテレビ局が繰り返し放映していたことに疑問を持った。それはテレビ局が自らの手でニュースの情報源を探さないで、インターネットからの情報からニュースを作っていることにほかならないからである。本来、あの衝突事件で中国漁船が何をしたのかを、自らが取材して正しく国民に伝えるのがメディアの役割ではないのか。」(p128)
最後に、この箇所も引用しとかないとね

「私の妻は韓国生まれの韓国人であり、私が業務で韓国語を学ぶ過程で知り合って結婚し、それから日本に住んでいる。私は、別に韓国人だから妻と結婚したわけでなく、惚れた女がたまたま韓国人であり、この女と離れたくないと思ったから周囲の反対にもかかわらず結婚しただけである。最初は、大反対した私の両親も今では私以上に妻を信頼している。・・・・最近、妻は日本の文化や日本人の風習もようやく理解してくれるようになってきていた。今回も、私が『国のため国民のためにやったのだ』と簡単に説明すると、あっさと許してくれ、そのうえ『私も日本に住んでいる人間の一人として、あなたに感謝し、そしてあなたの妻であることを誇りに思う』とまで言ってくれた。ただ、これだけのことをやったのだから、体を壊したり、私より先に死んだりしてはいけないという条件つきで。」(p133)



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私の野望。

2011-03-08 | Weblog
これからは、買った本は読むぞ。
というのが、私の野望(笑)。

うん。あくまでも、これからはです。
ということで、購入した新刊は

 笹川陽平著「隣人・中国人に言っておきたいこと」(PHP)
 山本武利著「朝日新聞の中国侵略」(文芸春秋)
 佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬舎)
 岡崎久彦著「明治の外交力」(海竜社)
 一色正春著「何かのために sengoku38」(朝日新聞出版)
 外山滋比古著「失敗の効用」(みすず書房)
 池部良著「江戸っ子の倅」(幻戯書房)
 中島丈博著「シナリオ無頼」(中公新書)

昨日、一色正春氏の本を読了。
うん、もうすこし書くのを保留。
あと、7冊。買った本は読むぞ。
というのが、私の野望。
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そいつはいい。

2011-03-07 | 手紙
外山滋比古氏のエッセイを読んでいると、前の本と重複するエピソードが出て来ます。内容も重なることが多い。ひょっとして、ご自身も繰り返し、本になるたび読み直しされているのじゃないのでしょうか。そうですよね。また、それを落語家の噺でも聴くようにして、読むのが新米のファンの楽しみ。


さてっと、だいぶ前に読んで忘れられない箇所が、そういえば、ありました。河上徹太郎氏の「座右の書」という2ページほどの文(「史伝と文芸批評」作品社・p122~123)

そこから一部だけ引用。

「いつか女房連れで福原麟太郎氏に合つた時、氏は御愛想に『河上さんはうちでよく本を御読みでせうね』といはれたら、女房が『ええ、ところが何かと思つて見ると、自分で書いたものを一生懸命で読んでるんですよ』と答へた。福原さんは、『そいつはいい』とわが意を得たやうに笑つて下さつた。」


この箇所を最初に読んだ時は、へ~、そんなことがあるのかと、不思議な感じで印象に残っていたのですが、昨日自分の以前のブログを読み返していたら、すっかり忘れていた引用に出くわして、その時々で、連想するのもいろいろと変わってゆくのをあらためて感じたのでした。
たとえば、和田浦海岸のブログ2010年2月5日は「筆不精」とあり、外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)からの引用があり。その引用箇所に

「とにかく・・筆まめである。ひところは、年にハガキ三百枚、封書を百本くらい書いていたことがある。年賀状は別としてである。・・・原稿を送るときにも、原稿だけではなく、かならず、短いあいさつを添える。・・・」(p132)

という箇所を引用しておりました。手紙ということで、今回の連想。
昨日、福原麟太郎随想全集1(福武書店)の月報に、ふれて、そのままになっておりました。その月報には白洲正子・加藤楸邨・巌谷大四の3人が書かれているというところまで書いておわったのですが、今日は、それに触れてみたいと思います。

まずは、白洲正子氏の文。
そこでは、随筆に「この頃は土筆や蕗の台がなくなって寂しくなった」とあり、白洲さんが御自身の家で生えている野草を摘んで送った話をしておりました。以下引用。

「先生は大そう喜ばれ、ていねいなお礼を書いて下さった。馬鹿の一つ覚えで、それがわが家の年中行事となり、毎年春になると、初物の野草を先生に送るならわしとなった。その度に自筆で心のこもったお礼状が来た。・・・福原先生と私の付合いは、そういった他愛のないもので・・以外に私には何もできなかったが、その滋味あふるるお手紙は、人との付合いはこうあるべきものだ、どんな小さなこともおろそかにしてはならないと、そういうことを教えるようであった。」

これが、2~3ページほどの文の書き出しでした。
加藤氏の文は、「私がいただいた先生の本の中で、最も惹かれたのは『チャールズ・ラム伝』で・・・」と始まります。こちらは、手紙という言葉が出てこないので次にいきます。
巌谷大四氏の文はこうはじまっておりました。

「去年の春、手紙の整理をしていたら、福原先生から頂いた封書や葉書が十数通あった。それを一つ一つ読み返し、しばらくの間先生の面影を偲んだ。先生は私のつたない著書を全部読んで下さっていた。お手紙の殆んどはその温いご批評であった。・・・」

そして、巌谷氏の文の最後は、頂いたお手紙からの引用なのでした。

(うん。昨日書き残したことを、引用できてよかった)



話がかわりますが、
寺田寅彦と中谷宇吉郎のお二人のエッセイは似ておりますね。
福原麟太郎と外山滋比古のお二人のエッセイも、その意味では似ております。
たとえば、外山滋比古著「失敗の効用」に「郵便好き」という文。
はじまりは「郵便が好きである。うちにいる日に郵便の来る時刻になると落ち着かない。玄関の方で音がすると飛び出していく。空耳のこともあるが、配達さんとハチ合わせということもある。郵便は一日のハイライトだ。」
福原麟太郎のエッセイに「郵便」と題した文。
そのはじまりは、
「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。返事はなかなか書かないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。私は、九時以後まで宅にいる朝には、きょうは郵便を見て出られると喜び、九時前に家を出る日には、今日は帰ってからの楽しみがあると思って靴をはく。・・・」

ちなみに、これは「福原麟太郎随想全集3 春のてまり」(福武書店)では14ページほどの文となっており、手ごたえあり。



え~と。私はなんでこんなことを書いているのだろうなあ。
じつは、最近「詩集」を二冊いただきました。
一つは、郵送でした。
一つは、直接詩人がもってきて、手渡しでくださいました。
そのどちらにも、私はお礼の手紙を書いていないのでした。
おそらくは、そんなことを無意識に思いながら、このブログを書きこんでおります。


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時代を超える典型。

2011-03-06 | 古典
外山滋比古著「失敗の効用」(みすず書房・2415円・2011年2月1日発行)が届く。短文が続くのですが、その短文を読み進められない。う~ん。たとえていえば、炭。よくできた備長炭を、一本ずつ両手にもって打ち。その音色を聴くような。そんな味わい。
ここは、それ、外山滋比古氏ご本人に語っていただきましょう。
じつは、本が届いて、めくっていたら福原麟太郎の随筆に「失敗について」という文が、そういえばあったことに、気がつきました。うっかりしていたなあ。
その福原麟太郎氏について、外山氏が書いた文がありました。
ということで、このブログの2010年2月11日に「それは、いけない」という書き込みをしていたのでした(本を読んで内容を忘れるように、ブログに本の引用をしても、すぐに忘れますね)。あらためて、その書き込みの最初をここにもってきます。

『 2月9日に米沢市の古本屋より「福原麟太郎著作集」全12巻が届く。
函入り、月報付。それで6000円に送料500円の6500円。
本に蔵書印が各冊についており、見返しに書き込みあり。
そのために安いのですが、本文はきれいで、ありがたい。
一冊だけ赤ラインがひいてあるのですが、気にならない。

ところで、その第8巻の編集後記を外山滋比古氏が書いております。
そこからすこし引用。

「若いときに書かれたものにはするどい個性と才能が表面に出ており、文章も思考も花やかであるが、年とともに円熟し、地味な大いなるもの、典型的なものの世界に関心が移っていっているのが感じられる。・・・・
個性は近代的なものであるが、典型は時代を超える。著者の文業は小さな個性を克服することによって古典的性格を得ることになった。その『おもしろさ』は典型に参入し得たもののみが感じさせることのできる重みと広がりのある『おもしろさ』である。」 』


ここに、外山氏が指摘した福原麟太郎の文章のヒミツ。
この「時代を超える典型」を、私は新刊「失敗の効用」2415円に味わっているのだなあ。などと、数ページしか、読まない癖して、思っております。

また、外山氏は、著書「日本の文章」でこうも指摘しておりました。
『「学生時代からずっと師事している福原麟太郎先生の麗筆は広く知られている。・・・先生の随筆は残らず読んだが、まるで別世界のようで、真似てみようという気も起らない。人間わざとは思われなかった。・・」(p72・文庫) 』


なにか、この味わいが、外山滋比古著「失敗の効用」にもあるのです。もう、ここまででいいですね。つぎ、福原麟太郎氏へとうつります。


 三冊
      福原麟太郎著「人生十二の知恵」(講談社学術文庫)
     「福原麟太郎著作集 7」(研究社)
     「福原麟太郎随想全集 1・人生の知恵」(福武書店)

こんかい、興味を持ったのは、著作集と随想全集の月報。

 研究社の第7巻月報(昭和44年6月)では、4人の方が書かれておりまして、私には、最後の宮崎孝一氏の文が印象に残ります。
そこには、外山氏が福原麟太郎の随筆を読んで感じた言葉
「まるで別世界のようで、真似てみようという気も起らない。人間わざとは思われなかった。」がそのままに、あらわれているような気がするのでした。では、読んでご確認願いたいので、宮崎孝一氏の文を、ところどころ引用。


「『若いときは本を読んでいても、後になればもっとよく分かるだろうなどと思って軽い気持ちで過しがちだが、やはり、今感じた所には太い線でも何でも引いてしっかり考えることだ』という意味のことをお話し下さったことがあった。
・・・戦争中のため卒業が半年繰り上げられることになった。卒業論文を提出した後の口頭試問で、先生は私の論文をめくりながらいくつか質問をなさって最後に、『まあ、こんなものだろうなあ』とぽつりとおっしゃった。先生のお部屋を出て、待っていた同級生の一人にそのことを話し、『俺のはどうもだめらしい』と言うと彼は、『ばかやろう、そりゃ褒められたんだぞ』と力づけてくれた。
卒業の後には、すぐ兵役が待っていた。同級生七人ほどのうち、私も含めて三人が海軍予備学生として入隊することになったとき、先生は私たちを御自宅に招いて壮行会を催して下さった。霞が浦の岸に建てられた兵舎にはいってから、私はせっせと先生に手紙を書いた。・・・その都度、先生はお心のこもった御返事を下さった。
戦争がすんで、いなかへ帰ったが、将校だった者は公務につけないということで、私はなすこともなくぶらぶらしていた。ある日、訳者名は忘れたが、センカ紙仮り綴じの『二都物語』の抄訳を本屋で見つけて来て読むうち、文学に対する興味がよみがえってきた。とにかく先生にお目にかかろうと思い立って上京した。先生は私の話を静かにお聞き下さってから、りっぱな装幀のディケンズ全集や評伝などをたくさんに書斎から取り出してお貸し下さった。それから十年ほどたち、ディケンズに関するささやかな論文をまとめて先生の許へ持参すると、先生はゆっくり目を通されて、『ありがとうございました』とおっしゃって下さった。私は胸が迫った。先生はさらに出版社の交渉までなさって下さった。
自分のことばかり書き連ねて恐縮だが、私がアメリカへ留学することになったとき、『あまり勉強しようとしない方がいいな。日記をつけてくるだけでも意味があるのだから』と先生はおっしゃった。お調子もので、むきになりがちな私を、先生はちゃんと見抜いておられたのであろう。・・・先生を心の最大の拠り所として半生を送り得た身の幸せをつくづく思うのである。」


さてっと、こうして引用していると、
古本で著作集全12巻を6500円で、買った甲斐があったような気がしてきます。ちっとも開いて読まないくせしてね(笑)。


あとは、「福原麟太郎随想全集 1」の月報ですが、
こちらは、名前だけにしておきます。
    白洲正子・加藤楸邨・巌谷大四
こちらも、素敵な文なのですが、まあ、ここまで(笑)。
私はまだ「失敗の効用」を読んではいないのでした。
うん。読んでいったら沈黙させられちゃうだろうなあ。
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才能の埋蔵量。

2011-03-05 | 朝日新聞
朝日の古新聞をもらってきました。
さっそく、ページ破り(笑)。
保存するのは、読書欄と文化欄と地方版と「ひと」欄ぐらい。
ちょうど、もらってきた分では、読書欄に佐野眞一氏(64歳)の連載が4回。
その3回目(2月20日)をすこし引用。

「私たちは夥しい情報に囲まれて暮らしている。それは新聞、テレビ、インターネットから日々押し寄せてくるので、その情報をつい周知の事実だと思ってしまう。だが、それは本当に信ずるに足る事実なのだろうか。ノンフィクションを一言で定義すれば、こうした【事実】を丹念に掘り返し、実は何も知らなかったということを読者に気づかせる文芸だといえる。」

こうはじまっております。そして、この文の最後には、黒岩比佐子さんが登場しておりました。その箇所を全文。


「『冬の時代』と呼ばれる社会主義運動弾圧の時代があった。幸徳秋水や大杉栄は、その受難の代表として大抵の人は知っている。では、彼らの生活を支える『売文社』を興した堺利彦を何人が知っているだろうか。黒岩比佐子はそこから始めて、堺の人間的魅力を余すところなく描き出した。『パンとペン』という秀逸な題名に作者の才能の埋蔵量が垣間見える。『冬の時代』の後に『春の時代』が到来しなかったことを歴史は語っている。私はそれを検証するもう一冊を書かねばならない。著者はそう宣言した直後、52歳の若さで亡くなった。次代を嘱望されていた彼女の早すぎる死は、『冬の時代』と言われて久しいノンフィクション界に将来の希望がまた一つ消えてしまったようで、悔やまれてならない。」

ちなみに、この日の読書欄は、筒井康隆著「漂流 本から本へ」を逢坂剛氏が書評して。
山口仲美著「日本語の古典」を田中貴子氏が書評しておりました。

2月27日の読書欄では、江上剛氏が外山滋比古著「失敗の効用」(みすず書房)の書評をしております。そこも気になるので引用。
はじまりは、
「今まで鶴見俊輔さんの『思い出袋』、加藤秀俊さんの『常識人の作法』と80歳を過ぎた方のエッセーを紹介してきた。今回、紹介するのも87歳の外山滋比古さんのエッセーだ。・・・・私は現在57歳。80歳まで生きるには、まだ23年もある。ええ加減にしんどいなあと肩を落としたときに彼らの文章を読むと、なんだか落ち着く。」


ところで、このみすず書房の本は、2415円。ちょっと高いなあ。
でも、新入りのファンを自称する私は、しばしの迷いの後に、やおら注文(笑)。

そういえば、竹内政明著「名セリフどろぼう」(文春新書)に
外山滋比古氏が、ちょいと登場しておりました。

「・・読み間違えられた側には、英文学者の外山滋比古(とやましげひこ)さんがいる。ある女子大に出講していた頃、学生から年賀状をもらった。『先生の名前はいったい何と読むのですか。読めませんから、私たち、ジビフルとお呼びしています』(「ことばの四季」、中公文庫)・・・」

かたや52歳。
こなた87歳。

さてっと、ジビフル氏の「失敗の効用」へは
次回に言及できるかと思います。
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あら、そう。

2011-03-04 | 短文紹介
雑誌「WILL」2011年4月号の対談・田母神俊雄・一色正春。
そこに、こんな箇所(p44~45)。


編集部】 奥様はなんと言われましたか。
一色】  ビデオをYouTubeにアップした翌朝に報告しました。広がるまえまでにはもう少し時間がかかるかなと思っていたんですが、朝起きたらもうテレビで流れていました。『あれ、早いな。これはいい調子だ』と思いました。そして意を決して、『これ、わしやから』と言ったんです。一番先に言っておかないと、『どうして先に言わないの』と言われますし、一番大切な人ですからね。その時、彼女は子供の弁当を作るのが忙しく、事態を理解してなかったのか『あら、そう』なんていわれて、軽く流されました。ただ、事態を詳しく理解した後も、一度も責めませんでしたね。責められないのもつらいんですが。ただ、自分の選択は間違っていなかった、と思いました。
田母神】 そこはうちの女房とは違うね。うちは、『あなたがちゃんとしていれば退職金がもらえたのに。どうしてくれるんだ』と言ってましたから(笑)。ところが、講演や出版依頼が殺到するようになったら、『はっきり物を言ってよかったわね』と(笑)。


これを引用しながら、
ああ、そういえば。
竹内政明著「名セリフどろぼう」(文春新書)にこんな箇所があった。


「渡辺和博さんが著書『金魂巻(きんこんかん)』(主婦の友社)で語った名言を思い出す。

  『主張と収入の和は一定である』

会社勤めをやめて心の自由度を百パーセントまで高めつつ、収入を零パーセントまで落とした俳人の転変流浪を思うとき、誰もがうなずく定理だろう。」(p166)


         
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いただきだち。

2011-03-03 | 短文紹介
竹内政明著「名セリフどろぼう」(文春新書)は楽しいなあ。
テレビドラマの名セリフが取り上げられているのがいいなあ。
つきない楽しさがあるので、身近にしばらく置くことに。

ちなみに、竹内政明氏は昭和30年(1955年)神奈川県横浜市生まれ。


「倉本聰氏『浮浪雲』で、新之助少年(伊藤洋一)が知り合った浪人者の夫婦から食事をごちそうになる。辞去する際の挨拶を、同名のシナリオ集(理論社)より。
新之助 「いただきだちで失礼ですけど、両親が心配するといけないので僕帰らせていただきます」
小学館の『日本国語大辞典』には【いただきだち「戴立」=御馳走になってすぐその席を立つこと】とある。明治維新前後の登場人物がレバニラいためを食べ、ピンク・レディーの歌を熱唱する破調の時代劇だが、吟味された言葉遣いがフザケの解毒剤になり、全編を引き締めている。ドラマづくりにおける【遊び】の骨法に触れた思いがする。
この言葉を知らなかった筆者は社会人になりたての頃、『食い逃げで失礼します』とやって、年長者にやんわりたしなめられたことがある。・・・」(p142)


そういえば、と思い出すのは、
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)の「岩波現代文庫版あとがき」には、こうあったなあ。


「なんと言っても一番の恩人は丸谷才一先生です。『短歌』をごらんになると必ず厳しい御指導の電話があって、それが私の文章修行になりました。たとえば、『いつの間にかお菓子を独占する習慣がついて』なんて、まるで女全学連じゃないですか、『お菓子を一人じめする習わし』でしょう・・・、といった具合。」(p395)

ちなみに、関容子氏は生年非公開。
「東京生まれ。1958年日本女子大学国文科卒業」とあります。
私がはじめて「日本の鶯」を読んだときの印象は、
これは関容子氏による「はじめてのおつかい」だなあ。
という、かってな連想でした。
「はじめてのおつかい」といえば、
青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)に

松山巌】 ・・・お祖父様が直接玉さんをお躾けになるってことはありましたか。
青木玉】 直接は母です。出掛ける前に、祖父の部屋をちょっと開けて、両手をついて、『紀尾井町の大叔母様のところへお使いに行ってまいります』、すると『おや、そうかい。お延ちゃんによろしく言っておくれ』。大概用があって行くというのではなくて、トレーニングのためにやることですから、何回かやらせてて、だんだん慣れてきたなと思えば、今度は、よそ様へ用を言いつけて出すわけです。
松山】 はあ、なるほど。
青木】 テストというか、まあ、瀬踏みのようなものです。翌日ぐらいに、紀尾井町の大叔母様のほうから、その採点結果が出てくるわけですよ。電話がかかってきて、『玉ちゃんも、どうやら大人の会話ができるようになりましたね』ってなれば、『へえ、どうやらお目こぼしにあずかりまして』。
そういうのが幾つかあって、間違いなくこっちの言うことを向こうに伝えてこられるということになってから、今度は、手紙を持って岩波へ行きなさいというような用が言いつけられる。それをクリアしますと、ついでに帰りに何か買ってこい、ということがついてくるという、そういう段取りでございます。使いを往復しているあいだに、だんだん荷が載っけられてくるわけですよ。 (p63~64)

以前に一度、NHKの番組で、青木玉さんの対談を聞いたことがあります。
流れるような話し方でテンポがあり、まるで音楽でも聴いているような気分になりました。

幸田露伴の孫にあたる青木玉は1929年東京生まれ。
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引き写すだけで。

2011-03-02 | 短文紹介
そういえば、この頃、谷沢永一氏の単行本にお目にかからない。
つい最近までは、一年に一回ぐらい、渡部昇一氏との対談が単行本としてあり、楽しみにしておりました。

黒澤引光・竹内薫対談「心にグッとくる日本の古典」(NTT出版)が出ております。
その最初は伊勢物語をとりあげており、「梓弓」「筒井筒」について話されております。
そのまえに、ちょっと竹内氏のまえがきを引用。

「本書は、科学作家の竹内が、恩師である黒澤先生に『教えを乞う』形式になっています。黒澤先生は筑波大学附属高校で38年間、古典を教え続けてきたベテランです。定年退職された今も、あちこちの高校の国語の先生たちに古典指導についてのアドバイスをされたり、いまだに大忙しの毎日です。・・・・38年間、黒澤先生に古典を教わって、巣立っていった生徒たちは、みんな古典が大好きです。それは、速読とは一線を画した、先生の『行間を味わいながら読む方法』により、古典が決してつまらないものではなく、ある種の『絶頂体験』をもたらすものだとわかったからです。」


さてっと、伊勢物語で、その行間を味わうのを妨害する事例を紹介しておりまして、印象に残ります。


「『梓弓』の中に付いているある注に、僕は非常に怒っているんですよ。あの注のために、この話の魅力はほとんど飛んでしまうだろうと思うくらいです。・・・不用意に取り入れて、それが教科書の注にまでなってしまうのは非常に問題だと思うんです。・・・・」(p14~15)

ここでは、具体的なことに触れていると字数がかさむので飛ばします。

黒澤】 ・・こういうことは本当に恐ろしいことなんです。ここにあるのは、僕が大昔に買った『岩波古典体系』の初版で、もう40年以上前のものです。この本では、・・・頭注ではなく補注に載っています。
竹内】 僕のほうは最近のものです。本文の上に注として載っています。
黒澤】 ということは、この三、四十年の間に、この・・・条文が前面に出てきてしまっているということですね。僕の本にはちゃんとこう書いてある。『・・・とあるのをふまえているという』です。
竹内】 『かもしれないね』みたいな。
黒澤】 そうです。・・・
竹内】 ・・・・
黒澤】 この説を書かざるを得ないが、どうもおかしい、ということで、『という』として、いわば断定を避けているんです。しかし、これはケースが違うという反論がちゃんとあったのに、その反論は黙殺されて、いつの間にかこの【説】が前面に出てしまっている。これはよくないとわかっているのに、だんだん事態は進行していってしまう、いまの政治の状態と似ているでしょう?
竹内】 似ていますね。この律令の条文に気づいた人は学者なんですか。
黒澤】 はい。しかし・・・反論は、早い段階でちゃんとあったんです。それがいつの間にか、あたかも決まりきったことのように、教科書の注にまで出てきてしまった。
竹内】 つまり、みんながあまり考えずに、この説を引き写しているだけなんですね。
黒澤】 そのとおり。残念ながら、国語の世界はそういうことがけっこう多いんです。私が初めて『梓弓』を筑波大附属の教室で扱ったのは、いまから20数年前、はるか前です。そのときは、この注はなかったので普通に授業ができた。ところが・・・・・(~p20)


竹内】 話はずれますが、教科書の間違いというのは物理にもよくあります。・・・・・
なのに、そのウソの説明がずっと教科書に書いてあって、だれもそれをチェックしないままだったんです。ある一人の学者が言い出したことを、みんながずっと引き写すんです。引き写すだけで、だれもそれについてまともに考えていないんです。
黒澤】 同じですね。でも、物理の世界はまだ実験して否定できますが、国語の場合はどうしようもないんです。(p21)




ここで。そういえば、と思ったのは谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文芸春秋)でした。この本には索引があるので、探すのに便利。私がまず見たいと思ったのは、中村幸彦での人名検索。38箇所ありました。そこだけ読み返してもグッとくるのでした。
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