柳田國男の「不幸なる藝術」を読み直したいと思ったわけです。
そこにある「涕泣史談」をね。
そしたら、そこにこうあるのでした。
「・・やや消極的ではあるが、今迄の国の史料の蓄積が、甚だ不完全且つ不精確なものだつたといふことを気づかしめる点にある。さうして其欠陥を補ふべく、翻つて是からさきの五十年乃至百年の為に、もう少し良い『故老』を作ること、即ちさういふ心持を以て、この眼前の人生を観察して置いてくれるやうな若い人を、今から養成して行くといふことの必要が認められる点も大切である。・・・・平家物語や太平記といふ類の古い世の語りものが、事件があつて間も無く、もう行はれて居たといふことを、我々はやや不思議にも感ずるのであるが、誤解や誇張が有るにもせよ無いにもせよ、やがて語り伝へてやろうと思つてじつと観て居た者が、とにかくあの時代には有つたのである。もう一度さういふ人を養成するとすれば、私は歴史の問題も、ただ政治や戦闘だけには限らぬことにしたいものだと思ふ。」
そこにある「涕泣史談」をね。
そしたら、そこにこうあるのでした。
「・・やや消極的ではあるが、今迄の国の史料の蓄積が、甚だ不完全且つ不精確なものだつたといふことを気づかしめる点にある。さうして其欠陥を補ふべく、翻つて是からさきの五十年乃至百年の為に、もう少し良い『故老』を作ること、即ちさういふ心持を以て、この眼前の人生を観察して置いてくれるやうな若い人を、今から養成して行くといふことの必要が認められる点も大切である。・・・・平家物語や太平記といふ類の古い世の語りものが、事件があつて間も無く、もう行はれて居たといふことを、我々はやや不思議にも感ずるのであるが、誤解や誇張が有るにもせよ無いにもせよ、やがて語り伝へてやろうと思つてじつと観て居た者が、とにかくあの時代には有つたのである。もう一度さういふ人を養成するとすれば、私は歴史の問題も、ただ政治や戦闘だけには限らぬことにしたいものだと思ふ。」