竹内政明著「名セリフどろぼう」(文春新書)は楽しいなあ。
テレビドラマの名セリフが取り上げられているのがいいなあ。
つきない楽しさがあるので、身近にしばらく置くことに。
ちなみに、竹内政明氏は昭和30年(1955年)神奈川県横浜市生まれ。
「倉本聰氏『浮浪雲』で、新之助少年(伊藤洋一)が知り合った浪人者の夫婦から食事をごちそうになる。辞去する際の挨拶を、同名のシナリオ集(理論社)より。
新之助 「いただきだちで失礼ですけど、両親が心配するといけないので僕帰らせていただきます」
小学館の『日本国語大辞典』には【いただきだち「戴立」=御馳走になってすぐその席を立つこと】とある。明治維新前後の登場人物がレバニラいためを食べ、ピンク・レディーの歌を熱唱する破調の時代劇だが、吟味された言葉遣いがフザケの解毒剤になり、全編を引き締めている。ドラマづくりにおける【遊び】の骨法に触れた思いがする。
この言葉を知らなかった筆者は社会人になりたての頃、『食い逃げで失礼します』とやって、年長者にやんわりたしなめられたことがある。・・・」(p142)
そういえば、と思い出すのは、
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)の「岩波現代文庫版あとがき」には、こうあったなあ。
「なんと言っても一番の恩人は丸谷才一先生です。『短歌』をごらんになると必ず厳しい御指導の電話があって、それが私の文章修行になりました。たとえば、『いつの間にかお菓子を独占する習慣がついて』なんて、まるで女全学連じゃないですか、『お菓子を一人じめする習わし』でしょう・・・、といった具合。」(p395)
ちなみに、関容子氏は生年非公開。
「東京生まれ。1958年日本女子大学国文科卒業」とあります。
私がはじめて「日本の鶯」を読んだときの印象は、
これは関容子氏による「はじめてのおつかい」だなあ。
という、かってな連想でした。
「はじめてのおつかい」といえば、
青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)に
松山巌】 ・・・お祖父様が直接玉さんをお躾けになるってことはありましたか。
青木玉】 直接は母です。出掛ける前に、祖父の部屋をちょっと開けて、両手をついて、『紀尾井町の大叔母様のところへお使いに行ってまいります』、すると『おや、そうかい。お延ちゃんによろしく言っておくれ』。大概用があって行くというのではなくて、トレーニングのためにやることですから、何回かやらせてて、だんだん慣れてきたなと思えば、今度は、よそ様へ用を言いつけて出すわけです。
松山】 はあ、なるほど。
青木】 テストというか、まあ、瀬踏みのようなものです。翌日ぐらいに、紀尾井町の大叔母様のほうから、その採点結果が出てくるわけですよ。電話がかかってきて、『玉ちゃんも、どうやら大人の会話ができるようになりましたね』ってなれば、『へえ、どうやらお目こぼしにあずかりまして』。
そういうのが幾つかあって、間違いなくこっちの言うことを向こうに伝えてこられるということになってから、今度は、手紙を持って岩波へ行きなさいというような用が言いつけられる。それをクリアしますと、ついでに帰りに何か買ってこい、ということがついてくるという、そういう段取りでございます。使いを往復しているあいだに、だんだん荷が載っけられてくるわけですよ。 (p63~64)
以前に一度、NHKの番組で、青木玉さんの対談を聞いたことがあります。
流れるような話し方でテンポがあり、まるで音楽でも聴いているような気分になりました。
幸田露伴の孫にあたる青木玉は1929年東京生まれ。
テレビドラマの名セリフが取り上げられているのがいいなあ。
つきない楽しさがあるので、身近にしばらく置くことに。
ちなみに、竹内政明氏は昭和30年(1955年)神奈川県横浜市生まれ。
「倉本聰氏『浮浪雲』で、新之助少年(伊藤洋一)が知り合った浪人者の夫婦から食事をごちそうになる。辞去する際の挨拶を、同名のシナリオ集(理論社)より。
新之助 「いただきだちで失礼ですけど、両親が心配するといけないので僕帰らせていただきます」
小学館の『日本国語大辞典』には【いただきだち「戴立」=御馳走になってすぐその席を立つこと】とある。明治維新前後の登場人物がレバニラいためを食べ、ピンク・レディーの歌を熱唱する破調の時代劇だが、吟味された言葉遣いがフザケの解毒剤になり、全編を引き締めている。ドラマづくりにおける【遊び】の骨法に触れた思いがする。
この言葉を知らなかった筆者は社会人になりたての頃、『食い逃げで失礼します』とやって、年長者にやんわりたしなめられたことがある。・・・」(p142)
そういえば、と思い出すのは、
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)の「岩波現代文庫版あとがき」には、こうあったなあ。
「なんと言っても一番の恩人は丸谷才一先生です。『短歌』をごらんになると必ず厳しい御指導の電話があって、それが私の文章修行になりました。たとえば、『いつの間にかお菓子を独占する習慣がついて』なんて、まるで女全学連じゃないですか、『お菓子を一人じめする習わし』でしょう・・・、といった具合。」(p395)
ちなみに、関容子氏は生年非公開。
「東京生まれ。1958年日本女子大学国文科卒業」とあります。
私がはじめて「日本の鶯」を読んだときの印象は、
これは関容子氏による「はじめてのおつかい」だなあ。
という、かってな連想でした。
「はじめてのおつかい」といえば、
青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)に
松山巌】 ・・・お祖父様が直接玉さんをお躾けになるってことはありましたか。
青木玉】 直接は母です。出掛ける前に、祖父の部屋をちょっと開けて、両手をついて、『紀尾井町の大叔母様のところへお使いに行ってまいります』、すると『おや、そうかい。お延ちゃんによろしく言っておくれ』。大概用があって行くというのではなくて、トレーニングのためにやることですから、何回かやらせてて、だんだん慣れてきたなと思えば、今度は、よそ様へ用を言いつけて出すわけです。
松山】 はあ、なるほど。
青木】 テストというか、まあ、瀬踏みのようなものです。翌日ぐらいに、紀尾井町の大叔母様のほうから、その採点結果が出てくるわけですよ。電話がかかってきて、『玉ちゃんも、どうやら大人の会話ができるようになりましたね』ってなれば、『へえ、どうやらお目こぼしにあずかりまして』。
そういうのが幾つかあって、間違いなくこっちの言うことを向こうに伝えてこられるということになってから、今度は、手紙を持って岩波へ行きなさいというような用が言いつけられる。それをクリアしますと、ついでに帰りに何か買ってこい、ということがついてくるという、そういう段取りでございます。使いを往復しているあいだに、だんだん荷が載っけられてくるわけですよ。 (p63~64)
以前に一度、NHKの番組で、青木玉さんの対談を聞いたことがあります。
流れるような話し方でテンポがあり、まるで音楽でも聴いているような気分になりました。
幸田露伴の孫にあたる青木玉は1929年東京生まれ。