和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

口ずさみ口ずさみ行く。

2020-05-16 | 詩歌
読売歌壇5月4日小池光選の第7首目でした。

一年生習いし校歌口ずさみ口ずさみ行く葉桜の道
         神戸市 米谷 茂

はい。小学校も休校で、道も静かです。
GOOブログ「ひげ爺さんのお散歩日記ー3」は、
自己紹介に「広島県出身。定年後12年。大阪在住。
下校見守りと散歩中に見かけた花をメインにアップしています。」
とあります。
花々の写真も、その解説もステキなのですが、
小学校の見守りは、現在『過去の見守り日誌』を
あげておられます。それを読む方としては、
キラキラ輝いてみえ、今ではコロナ禍の楽しみに
なっております(笑)。

うん。せっかくなので、詩と短歌と俳句とを
並べて、今日の雨にも、豊かに晴れやかに。

     幸福    新美南吉

 障子の中で
 リーダーを読んでる
 声のかわった少年が

 ーーWinter is over
           Spring has come

  障子にぱっと
 あかりがさした
 あたたかな蜜柑色に

 --Spuring has come
         Flowers are out

 妹は黙って縫ってるか
 お母さんは風呂を焚いてるか

 ーーFlowers are out
     Flowers are out

 藁屋根にぺんぺん草が生え
 ごらんよ 貨幣(コイン)ほどの一つ星
 
 そう、神様は忘れません
 御自分の創られた傑作の上に
 こうして目印をおくことを

うん。コロナ禍で家で読んでいる声があり、
聴いている家族がいる。ということを想像し
この時期、心を落ち着かせます。

はい。つぎは島木赤彦の短歌

隣室の書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり

つぎは、読んだばかりの中村草田男全集第一巻から
昭和15年とあります。

 涅槃けふ吾子の唱(うた)ひし子守歌


ちなみに、この昭和15年の俳句には、
こちらも、ありました。


 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る


はい。これから来る、夏を思う。




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星に花を供える。

2020-05-15 | 京都
読売歌壇5月4日栗木京子選の8首目でした。

墓まいりする人も今は少なくて造花が目につく彼岸に入りぬ
          山口県 末広正己

うん。もしアンケートがあって、
お墓に花や葉を飾りますか、造花にしますか。
と質問があれば、私は造花と答えてしまいます。
家の仏壇の花も造花です。飾るとすると、生花は
別に花瓶を用意して、脇の棚に置くようにします。

そういえば、地元葬儀式場では、遺影の左右には生花。
そして、駐車場には、造花による花輪が並ぶのでした。

こういう時に、関東の片田舎にいると、
そういうものなのだろうと、ここまでで思考停止。

それが、一昨年2回ほど京都へ出かけたので、
それからは、あれこれと思う楽しみがふえました。

たとえば、白川女(しらかわめ)。
『お花、いらんかぁ』という風物詩だと思っておりましたが、
これも、はじまりは仏さんへの供花などを売っているのだと
思えば京都の暮らしの輪郭がすっきりと浮き上ってきます。

深見きみ著「はんなり京都」(河出書房新社・昭和63年)。
はい。古本で200円(笑)。
そこに、こんな箇所があり、なるほどと腑に落ちます。
第5章「室町問屋町」に、白川女への記述があります。

「白川女は、洛東の銀閣寺の北、北白川から町中に
花を売りに歩く女性のこと。北白川一帯は土地が
花造りに適しているのかもしれませんが、
花といえば、白川女になります。

黒木綿の着物に、手甲、脚絆、そして紅縮緬の襷。
大八車に花を乗せて、『お花、いらんかぁー』と、
売りに来られるのですが、ほとんどは顔馴染みです。

仏さんの供花は、この白川女の花を買います。
白川女の方でも、各々の家の命日をよく承知していて、
その日はこちらが忘れていても、
お花だけは玄関に届いている程です。
花と一緒にお茶も売られていました。」(p118)

ちなみに、深見きみさんは明治34年生まれで、
大正14年に室町の深見氏と結婚したとあります。

はい。大八車に花を乗せて売り歩いていた
というのですから、お得意さんが方々にいたのでしょうね。

話題をかえます。
GOOブログに『京都園芸倶楽部のブログ』があります。
その、2020年5月8日は『卯月八日は天道花で五穀豊穣』
と題して写真と文がありました。そこに

「天道花(てんどうばな)は、京都を含む近畿地方から西の地方を
中心に行われている風習で、細長い竹の竿の先にシャクナゲや
ツツジ、ヤマブキ、フジ、ウツギといった季節の花を挿して
門や家屋の上に立てて飾られます。・・・・・
京都では天道花と呼びますが、大阪では立花、兵庫では高花、
奈良では八日花とも呼ばれるようですね。」

そして、『当倶楽部会員が作った天道花』の写真と
それを庭先で掲げられた写真とを拝見できました。
その印象が、鮮やかだったせいで、しばらくしたら、
わたしには、七夕飾りが思い浮かんできました。

順をおっていきます。
宮本常一著「私の日本地図14・京都」(未来社)の
六角堂を紹介したなかに、こんな箇所がありました。


「この寺の20世の住持専慶は山野をあるいて立花を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、26世専順は
その奥義をきわめた。堂のほとりに池があったので、
この流派を池坊(いけのぼう)とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという、
すなわち生花の池坊はこの寺からおこったのである。

もともと仏前への供花から花道は発展していったもののようで、
とくに7月7日の七夕には星に花を供える儀式が鎌倉時代から
おこり、室町の頃から隆盛をきわめ、『都名所図会』には
『都鄙の門人万丈に集り、立花の工をあらわすなり。
見物の諸人、群をなせり』とある。
このように立花は後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。・・・」(p119)

はい。わたしの小さい頃には、七夕に
市の商店街へ行くと太い竹に、くす玉のような
吹流しが垂れていたのでした。
いまはもう地元では、なくなりましたが、
いまでは、仙台の七夕祭りの模様が思い浮かびます。
『七夕には星に花を供える儀式が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ・・』
その勢いが地方に伝播していって、
いまでは、仙台の七夕祭りとして残っているのかもしれない。
まあ、こんなふうに
『天道花』からの連想で、時空間の変遷を、好き勝手に思いながら、
『京都園芸倶楽部』さん提供写真を楽しく味わうことができました。














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読売歌壇からの眺め。

2020-05-14 | 詩歌
ひさしぶりに購読した読売新聞。
4月と5月とを、購読してみました。

はい。やっぱり私は、読売歌壇に惹かれます。
ということで2か月分の読売歌壇を読み直す。

コロナ禍の最中は、わたしはGOOブログで
フォローさせて頂いている方を、更新のたび
毎日のように見させていただいております(笑)。

GOOブログ投稿された方々の画面と、読売歌壇との、
その共通点と比較点が鮮やかに浮かびます。
お互いの輪郭がはっきりしてくる、気がします(笑)。

ということで、4月と5月の読売歌壇から引用してゆくことに。
はい。はじまりは、歌壇にも常連がいるということで

 落選が度重なれど挫折せず在庫五千首推敲七回
           八王子市 日比光哉

4月6日の栗木京子選の3首目でした。
栗木さんの評は、
「在庫、すなわち詠んだ歌が
5,000首もあることに驚いた。
しかも推敲を重ねた末の歌である。
漢詩にも似た格調を漂わせる一首。」

うん。GOOブログでの、落選はない(笑)。
好き勝手にブログへと書き込める楽しさ。

 添削し載せてくださりし岡野氏を思いて開く月曜歌壇
        東京都 小林洋子

5月4日栗木京子選の4首目でした。
この岡野氏といえば、
大正13年7月7日生まれの岡野弘彦氏のこと。
はい。私が読売新聞を購読してた時、ちょうど
読売歌壇の選者筆頭が、岡野氏でした
(古くは、土屋文明選というのもありました)。

かねてより歌壇でなじみの詠み人の術後の歌に養生祈る
       町田市 三沢康正

こちらは5月11日栗木京子選の6首目。
「かねてより歌壇で」を、「かねてよりブログで」なじみのと
そのまま、置きかえたくなります。

歌好きの陽気な母がオムツした日から静かに無口になりぬ
       佐世保市 近藤福代

これは5月11日小池光選の4首目。『歌好き』じゃなくとも、
『ブログ好き』の方々のことが想われます。

夫の髪さくりさくりと切るときに詩ごころ沸く春の日だまり
         福岡市 木村 彩

4月20日小池光選の第8首目。
ちなみに、『詩』は(うた)と詠みます。


半世紀床の間に座る福助が白髪の吾をじっと見つめる
        近江八幡市 大川 勇

4月27日栗木京子選の第10首目。

はい。私は、いつごろから白髪まじりだったか?
う~ん。忘れました。

2カ月分の読売歌壇。引用してると楽しめます。
とりあえず、ここまで。



 

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見渡す限り緑。

2020-05-13 | 詩歌
古本で中村草田男全集を買ってあります。
全19巻のうち3冊なしの、16冊で、
2030円+送料1000円=3030円。

こんかい。その古本をひらいていたら、
全巻予約者贈呈付録として『〈萬緑〉句碑拓本複製』が
はさまっていた。東京・深大寺境内、昭和57年2月建立
 
  萬緑の中や吾子の歯生え初むる 草田男

はい。はずみがついたので、それを広げて壁に掛け、
「中村草田男全集」の第一巻をひらいてみました。
第一巻には、第1~第3句集までがありました。

はい。せっかくなので引用

  松風や日々濃ゆくなる松の影

  炎天や鏡の如く土に影


これは夏の句。冬の句にも影がありました。

  冬の水一枝の影も欺かず

へ~。『欺かず』があり、『欺きぬ』がありました。

  木葉髪文藝永く欺きぬ

う~ん。漢字あると、調べなければわかりません(笑)。
木葉髪を検索する。『木の葉髪』の意味は

『晩秋から初冬の頃、木の葉が散るように、
常より多く脱け落ちる頭髪をいう語のこと。』

とある。つい、中村草田男の頭髪が思い浮かぶ。
はい。ひとのことを言える身分ではありません(笑)。

つぎは、第一句集『長子』にありました。

   道ばたに旧正月の人立てる

このあとに続く句が

  降る雪や明治は遠くなりにけり

でした。
それでは、第三句集『萬緑』から
深大寺境内の句碑となった、前後の句を引用して、
今日はおわり。

  桐の花妻に一度の衣(きぬ)も買はず
 
  青雲白雲夏の朝風一様に

  萬緑の中や吾子の歯生え初むる

  赤んぼの五指がつかみしセルの肩

(p125~126)
うん。『セル』も分からないので、検索すると
セル地で「合着用和服地」のことらしい。
そうそう。最後に
萬緑(ばんりょく)の意味でした。

『見渡す限り緑であること。 [季] 夏』


とりあえず、全集の第一巻をパラパラ読み。
はい。すこしでもいいから、ひらく古本です。




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コロナ禍の整然たる通史。

2020-05-12 | 古典
マンゾーニの「いいなづけ」。
その第31章・32章を読んだだけで私は満腹。
他のページは読みません(笑)。

単行本にして40ページほど、
1頁が上・下二段です。途中挿画もあります。
要約は、私にはできないので、名残惜しいのですが
引用は今日でおしまい。ちなみに、第32章の最後は

「ここではまたわれわれが作中人物に話を戻すことにしたい。
なおこれから先は、この物語が終るまで、
作中人物と離れることはもはやないであろう。」

うん。第31・32章が、それこそ、ペストの記述に終始して、
作中人物から離れていた箇所なのでした(笑)。
第31章のはじまりのページにペストについて

「さて同時代の数多(あまた)の記録を検討してみると、
どれか一つの記録だけでそれで当時の様子が
首尾一貫して明確にわかるというものはない。
しかしどの記録にしても当時の歴史を再構成する上で
なにがしかの貢献をしないものはない。・・・・」

「後代の人士でそうした一連の記録類を吟味照合し、
あのペストの歴史について、事件を追って整然たる通史を
書こうと試みた人はいなかたようである。

それだから人々があのペストについて普通持っている観念は、
どうしても曖昧模糊としたものにならざるを得なかった。」

はい。このブログでは、これで、この本は最後にしますので、
もう少し丁寧に引用しておきます。

「人々は漠然とあの大厄は非常に多くの天災と
多くの人災から成る不幸な事件であったと考えている
(実際、天災も人災も想像を絶する数だった)。
だがそれは実際の史実に基いた見方というよりも
勝手な思いこみや判断から生れた見方なのである。

それにその実際の史実なるものもおよそまとまりがなく、
しばしば一番大切な状況についての情報を欠いている。
時間の推移も区分もはっきりしていない。そのことは
とりもなおさず、因果関係や事件の経緯や経過について
ほとんどなにもわからないことを意味する。

筆者は、なにはともあれ非常な努力をもって、
公刊されたあらゆる報告書や、未刊の幾つかの報告書や、
また多くの(といっても残されたものが少ない割にしては
多くの、の意味だが)いわゆる公文書なるものを調査照合する
ことにより、世間が期待するような物ではないにせよ、少なくとも
かつて書かれたことのないような物を作成すべくつとめた。
・・・・」

これが『いいなづけ』の第31章のはじまりでした。
うん。私の紹介はここまで(笑)。

もう一度、
産経新聞2020年3月19日の文化欄の記事から引用して終ります。
題は「コロナ渦中古典に学ぶ・イタリア文学『いいなづけ』」。
その途中を引用。

「最近話題になったきっかけも、
現在新型コロナウイルスの感染拡大に苦しむ
イタリアでの、あるメッセージだった。

『外国人を危険だと思い込むこと、
感染源の(執拗な)捜索、専門家の軽視、
根拠のない噂話、必需品の買いあさり・・・。
(同作に記された)17世紀の混乱は、
まるで今日の新聞のページから飛び出したようだ』

ミラノの・・・ボルタ高校のドメニコ・スキラーチェ校長は
2月下旬、公式サイトで同作を引用し、過去のペスト流行時と
現在の社会状況に通じる点があると指摘。そのうえで、

『今の私たちには進歩した現代医学がある。
これを信頼し、合理的思考で社会を守ろう』
などと学生に呼びかけた。」

はい。私は、この記事で
この平川祐弘訳『いいなづけ』の
第31章と第32章を読んだのです。
この2章だけなのに、内容豊富で
要約もままなりませんでした。

はい。あとは読むことをおすすめして、
ここまでにします。といっても私が読んだのは
たかだか40ページに過ぎなかったのですが(笑)。

はい。いつの日か、このコロナ禍の
整然たる通史が読めることを期待しております。



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みやわきチャンネル(仮)。

2020-05-11 | 短文紹介
最近ユーチューブを見るようになって、文化人放送局の
「怒れるスリーメン」を、楽しませてもらってます。

そんななかで、ちょっと毛色が変わってるなあ、
と思っていたのが『みやわきチャンネル(仮)』でした。
こちらは、お一人で立ち上げてらっしゃる。
麻雀パイの、中とか北とかを右手にもって、
ときどき『絶望した』とひとりごと。
ご自身のチャンネルが消えてしまったり、
広告はがしにあったりしながらも、めげずに、
『絶望』までバネにして明るく続くチャンネルです。

最初は、それが何だか分からずに、私は見てました。
うん。文章で例えると、文体が独特だなあ。などと思いながら。
それでも、みているうちに、禁止語にひっかかるのを
避けるために、あれこれと健闘している姿なのだと
分かってくる(笑)。

その「みやわきチャンネル」の宮脇睦さんが
雑誌「正論」6月号に文を載せておりました。
そのはじまりに

「今回の騒動が始まった直後、世界保健機関(WHO)から
『インフォデミック』への警告が発信されました。

インフォデミックを日経新聞は
《 ネットで噂やデマも含めて大量に情報が氾濫し、
現実社会に影響を及ぼす現象のこと 》と解説します。」

まあ、こんなふうにはじまった文は、
中国とWHOとの発表日時を列挙しています。
また、遠藤誉氏の指摘を引用し、WHOへ言及しております。

「中国問題グローバル研究所所長の遠藤誉氏は
『ニューズウィーク日本版』で『世界に新型コロナを蔓延させた
真犯人が習近平なら、WHO事務局長は共犯者だ』
と指摘するように、中国を利するかの行動と情報が目立ちます。」
(p173)

その誉氏による共犯者WHOについて、
宮脇睦さんは、さらに指摘するのでした。


「対してWHOの『インフォデミック』への対応は迅速でした。
イタリアのローマで、中国人観光客から陽性反応がでて以後、
感染報告が爆発的に増え始めた2月2日、
デマ情報により正しい情報が伝わりにくくなっていると宣言し、
ソーシャルメディア各社に『検閲』を呼びかけました。

各社はこれに応じて、Googleの検索結果には
WHOなど公的機関の情報が優先的に表示されるようになり、
ユーチューブでは『新型コロナ・ウイルス』との言葉を発した番組に、
広告が掲載されなくなりました。
クリエイターのモチベーションを下げることで、
新型コロナに関する情報拡散を規制したということです。
そこに中国にとって都合の悪い情報を拡散させない目的の為に、
『インフォデミック』という言葉を用いたという疑惑・・・」(p173)

はい。WHOの検閲依頼。
思い浮かんだのは、
マンゾーニの『いいなづけ』。
第31章の最後のページでした。
平川祐弘訳では、こうなっております。

「というわけで当初はペストではなかった。
絶対に、いかなることがあろうとも、違う、というわけで、
その名前を口にすることすら憚られた。

それが次はペスト性熱病になり、
ペストという言葉は名詞では禁句だったが、
形容詞には認められて裏門からはいって来た。
その次に、真性のペストではないが、
まあある意味ではペストだ、ということになった。
本来のペストではないが、
それ以外の名前で呼びようのないものだという。
そしてしまいには、疑いなく、反論の余地なくペストであるという。

だがそうこうする間にそれとは別の考えーーーー
毒を撒く者がいる、とか魔法を使う者がいる、
とかいう考えがその言葉とはなちがたく結びついてしまった。
そうなるとペストという語が意味する内容はどうしても
歪められ変形してしまった。・・・・」(p656)

この章には、
「しかし頑迷固陋な連中は思いも寄らぬ逃げ口上や
便法やさらには仕返しまでも案出するものである。」
(単行本・p651)
なんて箇所もページを割いて紹介されておりました。
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切れ味コラム。

2020-05-10 | 短文紹介
産経新聞5月10日の読書欄「産経書房」。その「新仕事の周辺」に
コラムニスト小田嶋隆氏が登場しておりました。

うん。私の小田嶋さんのイメージは、切れ味鋭いコラムニスト。
という感じを持っております。

「このたびのコロナ禍で、国民が蟄居(ちっきょ)生活を
強いられてから、一カ月が経過している。・・・」
とはじまります。
まずは、まな板にご自身をのせて、こう語ります。

「われらコラムニストは、世界に対して二次的に
(つまり他人の仕事を通して)しか関わりを持っていない。
だからこそ、はじめからないない尽くしの書き手である
コラムニストは、ひと月やそこらの外出自粛要請では、
ダメージをうけないのだ。」

こうして、かえす刀で、バッサバッサと切り込んでゆきます。
そこを、引用してゆきます。

「取材先を失ったスポーツ紙は、瀕死だ。
一面は、慣れない政治ネタで空回りしているし、
後ろのほうは、有名人のツイッター発言を引用した
粗製乱造のコピペ記事で急場をしのいでいる。

雑誌もひどい。聞けば、女性誌は、4月からこっち、スタジオ、
ロケともに、モデルさんを起用したグラビア撮影ができず、
ファッションのページが作れない。
さらに、取材源である各種の商業施設や店舗の閉鎖を受けて、
タウン情報もスカスカになっている。

・・漫画雑誌も苦しい。さもあろう。そもそも漫画という奇跡は、
漫画家と先生と編集者とアシスタントの若者たちが密室に
閉じこもることで生じる『熱』をエンジンに制作されている。
テレワークでは熱が冷めてしまう。

テレビはさらに悲惨だ。というのも、
ワイドショーやひな壇バラエティーが、結局のところ
『三密』に依存した空騒ぎであったことを、
今回のコロナ禍が、逆方向から証明してしまっている形だからだ。
実際、蟄居テレビの画面は、スタジオに密集する
野良タレントの凝縮力を失った瞬間に、空虚さを露呈している。
・・・・・」

はい。バッサバッサと切ってゆくので、
こちらは、あっけに囚われながら引用しちゃいました。

こういう時、どういうわけか、
私に思い浮かぶのは、
徒然草の第229段。

「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。
妙観が刀はいたく立たず。」

うん。小田嶋隆さんの、短いけれど
生きのいいコラムとなっております。

下手に真似すると怪我をしそうな切れ味。
私はこういして引用するのが関の山です。




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「後回し」の「しっぺ返し」

2020-05-10 | 短文紹介
今日こちらでは、雨が降りはじめております。

さてっと、川について思います。
洪水は、堤防の弱い箇所を決壊させ、氾濫してゆきます。
あらかじめ分かっていれば、その箇所を指摘して、
そこを重点的補強しておけば、あとは安心できる。


さて、安心できず、後回しにしていた
『憲法の不備』はどうすればよいのか。

安倍晋三首相は、憲法改正を掲げておりますが、
これからどなたが、これに名乗りをあげるのか。

「東日本大震災時にも災害緊急事態の布告はなく、
重大緊急事態に対処する安全保障会議さえ開かれなかった。

民主党政権の不作為は責められるべきだが、
緊急事態に関する憲法規定が存在しない
という法体系の不備に根因がある。

大震災の悲劇を顧みて、憲法不備が真剣に問われるのかと思いきや、
手付かずのままで今回のコロナ拡散にいたった。」
(雑誌「Voice」6月号の巻末コラム・渡辺利夫)

コロナ収束後になって、話題にも上らなかった
『国家緊急事態を憲法条項に盛り込む』ことが、
果たして可能なのかどうか。

「目を凝らせば、サイバー攻撃があり、
テロリズムがあり、尖閣諸島への中国公船による侵犯があり、
首都直下型地震や南海トラフ地震の発生の危険性が迫る。」

渡辺利夫氏は指摘します。

「後手に回るのも無理はない。
何しろわが国には国家緊急事態に関する憲法規定が存在しない。
平時の備えで対処するしかない。
宣言が出されても、措置の大半は『要請』から『指示』にいたるのがせいぜい、
罰則は例外的であり、私権制限にも『必要最小限』の縛りがかかる。」


うん。コレラ禍の情報蒐集に関しても、おそらく
なんらの権限も付与されない中での収集となるのでしょう。

安倍晋三首相は、議会の手順を順番にすすめようとしておられる。
「重大かつ即座に対応しなければならない」とは、
コロナ禍の収束後の憲法不備に向かっての言葉でなければならない。
のじゃないでしょうか。はい。この意識をもたなければ『山』は動かない。

はい。カッコ内は
雑誌「Voice」6月号の巻末コラム
連載「文明之虚説」の30回目。
渡辺利夫氏の文を引用しました。
5月号の巻末コラムは題して
『国家緊急事態とは何か』とあります。


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SNS時代とメディア

2020-05-09 | 産経新聞
産経新聞5月9日。そこに
共通する3つの話題がありました。

1つ目は、産経抄。
そのはじまりを引用。

「政府や安倍さん(晋三首相)批判のためのデマや
偏向報道はやめませんかーー。
危機管理血液内科医の中村幸嗣さんは8日、
自身のブログで呼び掛けた。

それによると心臓外科医の渋谷泰介さんが7日に、
テレビ朝日番組に関してフェイスブックに記した投稿が
医療界で話題になっている。

渋谷さんは同局の取材を受けた際、
新型コロナウイルス対策に関して
『PCR検査をいたずらに増やそうとするのは得策ではない』
と繰り返し答えた。にもかかわらずインタビュー映像は7日、
PCR検査を大至急増やすべきだとのメッセージの一部として
放送されたのだった。

PCR検査拡充の是非はさておき、
自分の意見が逆さまにすり替えられてはたまらない。
一方で何より伝えたかった
医療現場へのサポート要請については、全てカットされていた。
『メディアの強い論調は視聴者に強く響き不安を煽ります。
(中略)正しく伝えるって難しいですね・・』。
投稿はこう締めくくられていた。
『SNSの時代、デマはすぐに検証されてしまいます』。
中村さんは戒めている・・・・」


うん。途中をカットして、最後を引用。

「・・・・・・・8日のNHK番組は・・・・
出所不明の情報が拡散される恐ろしさを訴えていた。
もっともな話だが、出所が明らかでも
メディアが情報をゆがめては元も子もない。

皮肉にもコロナ禍は、在宅時間が増えた日本人の
ネット利用を促進している。
メディアの意識が一番遅れているのかもしれない。」


2つ目は、「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」から

「『週刊朝日』の連載コラム『田原総一朗のギロン堂』で
・・・『国民は、というより世界中の人たちが恐怖の中で、
どうすれば身を守れるのか、と全身全霊で闘っている。
そうした人々にとって、もちろん私も含めてだが、
今現在の安倍首相叩きの氾濫は、いささか
無神経に思えるのではないだろうか』
田原さん、遅過ぎます!・・・」


3つ目。総合欄に「籠池被告 野党と距離」
はじまりは

「安倍晋三政権が批判された学校法人『森友学園』の
小学校建設などをめぐる補助金詐取事件で、詐欺罪などに
問われた前理事長の籠池泰典被告と妻の諄子被告が、
最近まで歩調を合わせてきた野党や反政権の人たちと
距離を置くようなメッセージを動画やSNS(会員制交流サイト)で
発信し、注目を集めている。・・・・・

諄子氏は
『ふと思い出せば何かおかしい。
「安倍犯罪だ」とか安倍がどうのとか(主張する人たちに)
乗っかっていた』と訴えた。・・・・・・『真っ先に駆け付けたのは
(立憲民主党衆院議員の)辻元清美さんだった』と名指しした。」


3つ共、安倍晋三首相の名が登場。
何だか、象徴的です。

はい。SNS時代の産経新聞。
はい。私は読んでいます。
応援してます。産経新聞。


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マンゾーニさんの指摘。

2020-05-08 | 古典
テレビをつけると、不安に材木をくべるようで、
この頃、ワイドショー番組はまずは敬遠。
見るのは、日本テレビのニュース番組くらい(笑)。

こう不安材料があると、見るのはネットです。
ユーチューブで、数日前の鼎談などを見直すと、
何だか落ちついてきます(笑)。

それでも、不安になると、どうするか。今日は
安倍首相の緊急事態宣言延長会見の新聞記事を
あらためて読みかえしました(5月5日産経新聞)。
はい。テレビをつけるより考える時間を持てます。

そのさいごのほうに

「目に見えないウイルスに強い恐怖を感じる。
そうした不安な気持ちが他の人への差別や
誰かを排斥しようとする行動につながることを強く恐れる。
ウイルスよりももっと大きな悪影響を私たちの社会に与えかねない。」

うん。ここが気になったのでした。ということで、
平川祐弘訳『いいなづけ』の、第31・32章をひらく。

よく吟味照合されたペストの歴史が展開されています。
ここに、著者マンゾーニの指摘が、はさまれております。
たとえば

「人心が戦々兢々としている時によく起こることだが、
そうした時は話を聞いただけで見たような気になるものである。

こうした災難に遭うと人心はとげとげしくなり、
執拗に迫る危険を前にしていらだってくる。
それだけにいとも容易にそうした風説に飛びついた。

というのも怒れる人は常に懲罰を望むからであり、
これに関して才ある人が犀利な観察をしたように、
怒れる人は憎悪の根源を邪悪なる人間性に求めがちなものである。」
(第32章・単行本p661)

この第32章では、ペストの『塗り屋』という実際に起こった
状況を経緯に沿って記録されておりました。
その間に、その記録とともに、挿入された著者マンゾーニの
言葉が示唆的です。もう一ヶ所引用。

「俗世間が思いついた事を種にして
教育のある連中は自分にお誂え向きの考えを引き出した。
教育のある連中が思いついた事を種にして
俗世間は自己流で出来る解釈を付した。

そしてそうした事が合さって集団的発狂とでも呼ぶべき
途轍もない大混乱が発生したのである。」
(p675)

うん。テレビのワイドショー番組は一切見ないことにします。

さて、著者マンゾーニは、第31章の最後に、
その解決策を提示されておりました。
うん。そこも引用しておかなきゃね(笑)。


「なにしろペストなる語には余計なものが
次々に付加されてしまった。だが事の大小にかかわらず、
この種の歪んだ長い道程は、たいていの場合、
回避しようと思えばできることでもあったのである。

それは前々から言われている方法であるが、
話す前にまずよく観察し、よく聴き、比較し、考量する、
という手順をきちんと踏みさえすれば、それでよかったはずである。

だがしかしこの話すということにかけては
これはいかにも人間に独特な能力であって、
右に(注:上に)あげた他の能力すべてを合したよりも
ずっとたやすく出来てしまうことなのである。
・・・われわれ人間一般の咎ということなのだが・・・・
やはり多少大目に見てやらなければならぬものと思う。」
(第31章の文の最後。p656)




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ペスト蔓延前夜。

2020-05-07 | 古典
アレッサンドロ・マンゾーニ『いいなづけ』(平川祐弘訳)。
その副題は『17世紀ミラーノの物語』とあります。

目次には
第30章に「ドイツ傭兵隊が立ち去る。難を避けて逃げていた人々が
故郷へ戻って来る。荒廃と飢餓。」

今回紹介する第31章の目次には
「ペスト。その原因、当初の論争。・・・・」とあります。
その第31章も多岐にわたるのですが、
「ペスト蔓延前夜」と、限定して引用してみます。

ロドヴィーコ・セッターラ博士が登場します。
「当時はもう80に手の届く齢であった・・・・
ある日、カゴに乗って往診の途中、人々がまわりによってたかって、
『こ奴だ。こ奴がペストだ、ペストだとありもしない病気を
無理矢理に作り出そうとする連中の大将だ』と騒ぎ始めた。
民衆は口々に・・・罵声もつのる一方であった。・・・」
(単行本・p646)

すこし先走って引用してしまいました。まず、
この31章の前段から、引用してゆきます。

「もっとも何人かの人々にとっては、この病気は
目新しいものではなかった。その何人かの人々というのは
50年前のペストを思い出すことの出来た年輩の人々のことである。
そのペストは当時イタリアの大半を襲い、とくにミラーノ領内では
猖獗(しょうけつ)をきわめた。・・・・・」

「ロドヴィーコ・セッターラ博士は、そのペストを目撃したばかりでなく、
きわめて果断で積極的に振舞い、当時若輩であったとはいえ、
もっとも有効な救護活動を行なった医師の一人であった。

その人が今回もペストの発生を危惧し、進んで情報を集め、
万一に備えていた。そして10月20日、衛生局に伝染病が
レッコの領内で一番端に位置し、ベルガモ領に隣接する、
キウゾ村で発生したことをまず報告した。
間違いなくペストだという報告であった。

しかしタディーノの報告から察すると、それだからといって
なにか特に措置が講ぜられたわけではまったくなかった。」
(p639)


「ところが実際はなんの動きも生まれず、なんの対策も講じられず、
なんの心配もしなかったのである。当時の記録類になんらかの
一致点があるとするなら、それはまさにこの点についてであった。

前年来の飢饉、兵士たちの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)、
精神上の不安懊悩・・・・そうしたものが重なったので、人々が
余計死ぬのは当り前だと思って別に騒ぎ立てなかったのである。

広場や、お店や、家の中で、危険の到来を口にしたり、ペストが流行
するのではないか、などと言う者は、世間から冷笑され、白眼視された。

しかしそれと同じような態度、いいかえるとペストだと警告する人が
たといいてもそれを信ぜぬばかりか、事態を正視できない精神的盲目、
あらかじめ出来上った固定観念で万事を割切るという態度は、元老院でも
市参事会でも、ありとあらゆる官庁でも、支配的な傾向であった。
  ・・・・・

すでに見てきた通り、ペストの第一報が届いた時、人々の反応は
すこぶる冷淡で、情報蒐集の努力にも一向に熱がはいらなかった。」
(p642~643)

こうして、最初に引用したカゴに乗ったセッターラ博士の
場面が描かれておりました。

この博士の名前は、あとにも出てきておりました。

「・・・・最初は貧乏人の間だけに限られていたペストが
やがては上流階級の著名人をも侵すにいたった。
その中でも当時もっとも著名な人士は医師セッターラであったが、
この人の名はいまでも特記するに値する。
この老人が気の毒にもペストに侵された時、世間は
この老人が唱えたペスト説が正しかったことぐらいは
少なくとも認めたに相違ないと思うのだが、
実はそれすらもわかったものではない。

セッターラ家では本人も、妻も、二人の子供も、七人の使用人も
ペストに罹って病床に臥した。本人と息子の一人は命を取りとめたが、
残りは全員死亡した。」(p650)


この間に、衛生局の二度の現地視察があったり、
戦争でのミラーノ領の総督となっても、戦争が気がかりで、
ミラーノ領の統治はつけ足しの任務であった情況が
織り込まれております。魔女狩りも語られてゆくのでした。


はい。一度でもって、この第31章の全体を引用できないのですが、
今回、ロドヴィーコ・セッターラ博士のことを
取り出して引用してみました。

もう少し「いいなづけ」のペスト関連をとりあげて
いきたいと思います。




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ペスト避病院の中では。

2020-05-06 | 古典
5月4日の安倍首相による緊急事態宣言のなかに


「・・・医師、看護師、看護助手、病院スタッフは
感染リスクと背中合わせの厳しい環境の下で強い使命感を持って、
今のこの瞬間も頑張ってくださっている。すべては私たちの命を救う
ためだ。医療従事者やその家族への・・・・敬意や感謝、他の人たちへの
支え合いの気持ち、思いやりの気持ち、人と人との絆の力があれば、
・・・恐怖や不安な気持ちに必ずや打ち勝つことができると信じている。」

という箇所がありました。
健康で家に籠っていると、そういう想像力を忘れておりました。

さて。平川祐弘訳「いいなづけ」(河出書房新社)の
17世紀ペストの詳細は31章と32章で取り上げられております。

ここには、調べられた、ペストの避病院の中の様子を
引用してゆきます。

「避病院の中では、人々は毎日・・・死んでいったが、
それでもそこの人数は毎日増え続けた。
そこでの厄介な仕事は収容された人々をきちんと統制下に置き、
かつその人たちの生活の面倒を見るということだった。
規定通りに人々を分離し、そこに衛生局から命令された通りの
秩序を維持する、というか確立することだった。それというのも、
当初からそこではすべてが混乱錯雑の状態にあったのである。

閉じこめられた人々の大半は半狂乱の体であるし、そこで
働く使用人はろくに人の世話は焼かずたいがいの事は
ほっぱらかしにしていたからである。衛生局も市参事会も
一体誰を相手に話をつけてよいかわからず、カプチン会の
神父たちの手を借りることとした。

管区長その人はつい先日死去していたので、
管区を取りしきる管区長代理の神父に頼んで
物の役に立つ人物を寄越してもらって
この避病院という荒廃した王国を治めようとしたのである。
管区長代理はまずはじめにフェリーチ・カザーティという
神父を寄越した。・・・その同僚というか助手として
ミケーレ・ポッツォボネㇽリ・・が付けられた。・・・

衛生局の局長は二人が現場をよく掌握するよう
二人を案内して避病院を一巡すると、下働きの者を
位の上下を問わず中庭に呼び集め、全員を前にして、
これから・・・神父に全権を与える、と宣言した。

やがてこのみじめな場所にみじめな人々が次第に集り、
その人数がふえるにつれて、他のカプチン会修道士たちも
そこへ助けに馳せ参じ、その場所の監督者となり、
聴罪司祭となり、管理者となり、はては看護夫、料理人となった。
それどころか下着置場の始末から、洗濯物の後始末、
要するに必要とあれば下の世話まで引受けたのである。

フェリーチェ神父は・・・ある時は身に粗末な馬巣(ばす)織りの
衣をまとっただけで視察してまわった。その場で問題を解決し、
人々を激励し、騒ぎが起ればそれを鎮め、喧嘩が起れば
理非曲直を明らかにし、あるいは脅し、あるいは罰し、
叱るかと思えば、一方では慰めるべき人を慰め、
悲しめる人々の涙をぬぐってやるかと思えば、また自ら涙を流した。

避病院にはいった当初、神父自身ペストに罹ったが、幸い治った。
それからまた新たなる力を傾けて人々の世話をし面倒に励んだ。
カプチン会修道士の多くはここで命を落としたが・・・・

たしかにこうした特定の個人に全権が委ねられるということは
非常処置として異常である。しかし災害そのものも異常であったし、
時世そのものも異常だった。・・・・・・

なにしろこれだけ大切な管理の職に当たる人が、
もはやどうしようもなくなって、管理を他人まかせにしてしまったのだ。
しかも人まかせにするにしても、職業柄、本来はそんな仕事に
一番縁遠い人に頼むよりほか仕方がなかったのである。

だがそれは同時に、いかなる時世であれ、いかなる事態であれ、
慈愛の情がいかなる能力を人に与え得るかということの一例証
としてみるなら、決して不名誉なことではない。それほど
カプチン会の人々はそうした責務を敢然と果たしたのである。

それにそうした責務を引き受けたということ自体がまことに立派であった。
なにしろほかに引受け手がいないからという理由だけで、
また奉仕するという目的だけで引受けたのである。・・・・

あの修道士たちが果した仕事と勇気とは賞讃と感涙とをもって
回顧されるに値する。人が人に対してした大きな親切に対しては、
われわれは人間としての連帯感から、あのなんともいえぬ
感謝の念を禁じ得ないのである。とくにあの人たちはそのような
感謝を受けることなど念頭におよそ浮べもしなかったのであるから。

『もしこうした神父たちが当地にいなかったならば』
とタディーノは書いている。

『間違いなく市は全面的に壊滅したことであろう。
神父たちがこうした短い期間に公共の利益のために
これだけの事をなし遂げたということは真に驚くべきことである。
神父たちは市当局からほとんど何等の助けも受けなかった。
神父たちはそれでも自分たちの努力、自分たちの配慮でもって
避病院に収容された悲惨な数千数万の人々の面倒を見たのであった』

フォリーチェ神父がその管理に当った7カ月の間に
その避病院と呼ばれた隔離所に収容された人数は、
リパモンティによれば、およそ5万名にのぼったという。
リパモンティはまたもし一都市の歴史についてその悲惨な面を
叙す代りにその栄光の面を語るのが至当であるとすれば、
こうした人物についてこそ語るべきであろう、
という正論をも述べている。」(単行本p648~650)


『いいなづけ』の著者アレッサンドロ・マンゾーニは
この31章・32章を書くはじめに、こう記しておられます。

「筆者は、なにはともあれ・・・・そして将来、
他に誰か人が出てもっと見事にやりおおせるまで、
あのペストという大災害について、さしあたり簡略ではあるが、
虚偽の混らない、首尾一貫した報告を世に提出しようと試みた次第である。」
(p638)と記しておりました。








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読書貯金。

2020-05-05 | 本棚並べ
読売歌壇(2020年5月4日)の俵万智選。
その二番目に取り上げられていた歌は、

貯金箱の貯金のように本棚に今読み終えた本を収める
          東京都 武藤義哉

この俵万智さんの評は
「貯金箱の比喩が、楽しい一首。
本が本棚への貯金であると同時に、
読書は心や頭の中への貯金になる。」

はい。面白かったのです。さて、一日寝て
今日になったら、その貯金をおろし、使いたくなる。
うん。最近の読書の、その貯金の使い道。

ということで、すぐに思い浮かぶ2冊がある。

一冊目は、平川祐弘訳の『いいなづけ』(河出書房新社・文庫も)。

月刊Hanada6月号の平川祐弘氏の「一比較研究者の自伝」に、
さりげなく、こんな箇所があったのでした。

「私もまた外国語の文法を教えて幸福だった。『いいなづけ』は
20余年間、教室で教えて全38章を訳し終えた。」(p358)

うん。その『いいなづけ』のペスト関連の章だけですが、
大学の講義を聴くようにして、丁寧に読み直してみたい。

二冊目は、尾崎一雄著「あの日この日」。

佐伯彰一著「神道のこころ」(教文選書・平成元年)は、
雑誌等に寄稿した文をまとめたものでした。
初出一覧を見ると、本の最後にある「お正月の思い出」は
昭和64年1月6日の北日本新聞に掲載されたとある。うん。
昭和64年は1月1日~1月7日まで。それから平成となります。

昭和63年3月の「尾崎一雄の神道回帰」と題する文が
この本にありました。それは、こうはじまっております。


「晩年の尾崎さんとは、何度かお会いして、
じかにお話をうかがう機会があった。
率直で勿体ぶった所がいささかもなく、
いかにも爽やかな感じの老人であった。
能弁というのではないが、気さくな話好きで、
端的率直にご自分の意見をおっしゃるので、
見方がくい違う場合も、こちらも遠慮ぬきで
おしゃべりが出来た。・・・・尾崎さんの語調から、
話の内容まで、今でもはっきりと思い出すことが出来る。」
(p228)

こうして「私の父は、非常な敬神家だった。
家が代々の神主だから、ということもあるだろう。
子供の頃から神道を吹き込まれたので・・・」
という尾崎一雄の本からの引用をまじえながら、
すすみます。
ここでは、文の最後を引用。

「こうした人間と自然とのつながりを重視した、
いわば自然界の一員としての人間というとらえ方は、
神道の古い祝詞のうちにもはっきりと息づいているものであった。
・・・死者に親しむ心情というのも、祖霊信仰にもとづく死者鎮魂の
儀式が神道の中核をなしてきたことを思い合わせるならば、
尾崎さんを神道につなぐ絆は、いかにも根深いものがあったと
言わずにはいられない。・・・・」(p243)

ここに、尾崎一雄著「あの日この日」が取り上げられていて
手に取りたくなりました。そのまま本棚の肥やしになるかも
しれないのですが、古本で注文することにしました(笑)。

はい。読書貯金箱。本棚積立。







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読売歌壇のたのしさ。

2020-05-04 | 詩歌
1か月だけ購読予定だった、読売新聞を、
5月も引き続き購読することに(笑)。
さて、今日は月曜日。読売歌壇・俳壇が掲載される日。

はい。読売歌壇・読売俳壇のたのしさを語りましょう。
まず、福田美蘭さんの題字デザイン・イラストがいい。
何か、ホッとした空間へと招かれた気持ちになります。

読売歌壇の栗木京子選。
そのはじまりの一首は

ディストピアの入口附近と若者も感じ始めて手洗いをする
           長野市 宮崎雄

評】 ディストピアは理想とは反対の世界のこと。
新型ウイルスの感染拡大が深刻化し、高齢者に比べて
関心が薄かった若者にも危機意識が広がっている。
『入口附近(ふきん)』が鋭い。


もどって、5月の福田美蘭さんのイラストはですね。
各選者の名前の上に描かれた、かわいいイラスト。
その小さなイラストはきわめてシンプルです。
読売歌壇の選者の上には、

小池 光の上に、ランドセルのイラスト。
栗木京子の上に、柏餅のイラスト。
俵 万智の上に、筍のイラスト。
黒瀬珂瀾の上に、雀のイラスト。

というのが、何ともたのしい。・・・・
たしか、福田美蘭さんの一年のイラストは、
月々変わるのですが毎年定番のデザイン。
それらが、読売新聞の月曜日のお楽しみ。

さてさて、読売歌壇は、各選者が各10首を選ぶ。
最初の3首に、各選者の選評がついております。
栗木京子選の、10首目つまり最後の一首はというと、

気付きたり無人の家に燕来ず人居る処が安全なのか
             山武市 川島隆

はい。これには選評は、ありません。

そういえば私に、中村草田男著『蕪村集』がありました。
ツバメということで、蕪村の俳句が思い浮かびます。

  燕啼(ない)て夜蛇をうつ小家かな

この蕪村の句を、草田男は訳しております。
蕪村訳がなければ、私には理解不能(笑)。
では引用

「夜燕がけたたましく啼き立てる。
蛇がその巣に忍び込んだのである。
家人は起き出て、夜陰にもかかわらず
燈を掲げてこれを討っている。
その騒ぎ声や動作の逐一が、小家であるが故に
外からも手に取るようにうかがわれる。

  ・・・・・・・・

しかし、この句に詠われている情景は全然
蕪村の空想裡の所産であろう。
啼き立てるのは燕であり、討たれるのは蛇である。
つまり夜陰に人と燕とが共力して蛇と闘っているのである。
この一種の『気の昂ぶり』---
これがこの句を貫いている『いのち』である。
かかる刺激の強い情景を一句の中に創造してみて、
芸の世界でこの事を自身経験してみることが、
蕪村にとっては非常な歓びであったに相違ない。」

ここから、草田男は、正岡子規を登場させます。
これが、草田男の魅力なので引用してゆきます。


「明治時代の子規は、
『生活の意味』をひとすじに探求する人ではなく、
『生活の事実』を感覚的に情趣的にあらゆる方向において
味わい発展さすことに価値を置いていた人であった。

俳句の上でも
『進歩とは変化と多様の謂に他ならず』と宣言している。
したがって、子規にとっては、芭蕉が生活の上で消極者に見え
蕪村が積極者に見えたのである。・・・・・・・・・・

江戸末期の宗匠たちが、誤れる芭蕉崇拝の結果俳句を生活から
遊離した観念的な、晦渋と頽廃とに陥れてしまっていた、
その状態から俳句を救い出し、これに新時代の健康的な活力を
付与するために、子規がだれよりもまず蕪村に着目して、
その視覚的な具体的な作品と、積極的な生活態度とに
学ぼうとしたのは、その範囲に関する限りいかにも
正鵠を得たものであったと言わざるを得ない。」

はい。読売歌壇からひろがってゆく、たのしさ。

ところで、皆さんのGOOブログ写真映像を見せてもらってると、
活字から写真へと飛び上がるような楽しみが味わえるのでした。
歌壇・俳壇ときて、より視覚的な画壇・写壇もありのブログかな。






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神社の簡潔な結構は。

2020-05-03 | 京都
佐伯彰一著「神道のこころ」(日本教文社・1989年)を
古本で読めてよかった。

文中にいろいろ取り上げられてる本はあるのですが、
万事横着な私はそれらの本は、度外視しておきます。

いままで、私の『いつか読もう』本というのは、引用文献の
本へのつまづきが、ネックとなっておりました。文中に、
紹介されてる本は無視。難しい箇所は飛び越してゆく。
その爽快感。これからの私の読書の方針は、これで決まり。
飛ばし読みで、わからなければ、それはそれで一期一会。


さて、この佐伯彰一氏の本で、重量感のある箇所は飛ばして、
避けて、パラパラ読みしていても、残たものに輝く箇所がある。
まずはその輝きを反芻して、ここに引用しておくことにします。

佐伯彰一氏は、大正11年生まれ。
ここでは『大正11年生まれのパワースポット』ということで、
その輝くパワースポットを列挙してゆきます。

「わが身、わが家をふり返って見ると、どうにも仏教徒とはいえない。
わが家は古くから越中富山の居住者であったが、北陸にかくべつ
多い浄土真宗でもなければ、といって天台また禅宗でもなかった。

先祖代々のレッキとした神道の家であり、ささやかながら神職が、
代々の家業でもあった。父の代から、こうした一家伝来の職業から
離れたとはいうものの、家には、大きな神棚があって、
日々必ず神前で柏手を打ち、また供え物を欠かさなかったことは、
幼ない時分から、しかと記憶にたたきこまれている。

こうした思い出と事実を裏切る訳にはゆかない。」(p16)

ここに、「大きな神棚」が出てきます。
つぎ、その神棚が登場する箇所。

「わが家には大きな神棚があって、
祖父と一緒に毎朝必ずたき立ての御飯と水とを供えて拝んだし、
時には祖父の唱える祝詞のおつき合いもした。そして、
毎年の大晦日の夜は、同年輩の子供たちと一緒に
古い神社の社務所に『お籠り』をして、
元旦の朝拝のための準備作業に加わった。

高々とそびえる老杉の並び立つ境内の深夜は、
子供心にも神寂びた森厳さがおのずと伝わってきて、
12月末のしんしんと身に沁み入る寒気とともに、
忘れがたいフィジカルな記憶として、今でも
鮮やかに思い起こすことが出来る。

わが国の数多い神社のローカル、
いわば自然環境とその簡潔な結構は、
やはり宗教的傑作の一つではないだろうか。

おのずと美的秩序があり、浄らかな奥床しさ、厳かさが伝わってくる。
しかも事々しい押しつけがましさ、勿体ぶった威圧感がまるでない。
・・・・」(p57)

「この立山の山麓こそぼくの幼少年期の大方をすごした土地で、
ぼくら佐伯一族が、代々立山信仰を奉じてきたという話は、
祖父から事あるごとにきかされて育った。
 ・・・・・・・

わが家のご先祖は、前にも述べたように、
こうした縁起をいわば絵物語としておりこんだ『立山曼荼羅』を
肩にかついで、冬期には、諸国へ布教の旅に出むいた。
ぼくらの村落(芦峅寺・アシクラジ)では、佐伯三十六坊といって、
計三十六軒の宿坊があり、それぞれ布教の領域がきめられていた。
わが家は、吉祥坊とよばれ、受け持ちの地域は、武蔵と江戸であった。」
(p83~84)


この本「神道のこころ」は、雑誌や新聞に掲載されたものを
まとめた一冊のようです。はやいところでは昭和41年。
それから昭和64年までの文が一冊となっておりました。

うん。断片をまとめる意味でも、最後にこの箇所を引用。

「日本人として、神道の意味を
腰をすえて考えるべき時期ではないだろうか。」(p251)

ちなみに、この本は1989年ですから、
今から31年前の出版です。つづけます。

「神道は日本根生いの宗教というばかりか、
不思議な生命力をはらんでいて、
幾多の変転を耐えしのぎながら、
現在も決して死に絶えていない。
いく度か外来の大宗教の攻撃に圧倒され、
滅びかけながら、もっぱら受け身の、
一見かぼそい力をふるって、わが身を持たせ続けてきた。

たしかに古めかしく、頼りなげな弱さを時折露呈しながら、
今も正月の神社参詣から、季節ごとの祭り、さらには
伊勢や出雲まいりまで、思いがけぬほど深く、
われわれの生活のうちに溶けこんでいる。
お盆ごとの帰郷や墓参なども、
その根をたどれば、神道に行きつくだろう。」(p251)

はい。今回のパラパラ読みは、ここまで(笑)。
一回で読み終える。という傲慢は避けます。
気になれば『いつか読もう』と本の方が輝きだす。
とりあえず、パラパラ読みしてあとは本棚へ。


このgooブログに参加させていただいて、
皆さんが載せていらっしゃる写真を見ています。
花や、動物や風景にまじって、神社仏閣の写真や、
日の出日の入り写真を拝見させてもらっています。

わたしには、これらの見ごたえある蓄積がありました。
GOOブログで発見する、パワースポットのありがたさ。
ということで(笑)。




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