墨田区緑3丁目にある石鹸工場。「TAMANOHADA」の縦書きが印象的です。その工場の南側の壁面。写真のように煉瓦造りです。よく見ると、燃えたような地肌がはっきりと分かります。この部分が約7,8㍍ほど残っていて、隣の建物と接しています。ぐるりと工場の周辺を歩いてみましたが、他にはこの煉瓦造りの建物はありませんでした。
家に帰ってきて、昭和22年の航空写真(goo)を見ると、この辺り一面、満足な建物はありません。学校の校舎がぽつんぽつんと残っているだけ。ここは、「東京大空襲」でほとんど灰燼に帰した場所です。そんな中で、この建物らしきものが写っています。他の建物はまだ再建されていない様子です。
すると、この赤茶けた壁面は、おそらくその空襲の痕ではないでしょうか? 地元の人々にはきっと知られていることなのでしょう。
玉の肌石鹸は、1892(明治25)年、本所の地(現在の墨田区緑)に社名「芳誠舎」として誕生し、化粧石鹸の製造を開始して以来、創業115年以上に及ぶ、歴史と伝統を誇る石鹸の専業メーカーだそうです。
会社のHPでは、「長い歴史の中で培われ続けてきた、優れた製造技術に高い評価をいただき、1960年代後半から高級石けんの受託生産を始め、世界的なブランド商品の製造も数多く手がけてきました。そして2003年からは、オリジナルブランド「TAMANOHADA」をスタートしました。」とあります。
さらに、「2007年(平成19)年には、『ミツワ石鹸』の商標権をプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)から取得。翌年4月1日付で、100%子会社のミツワ石鹸株式会社を設立・業務開始。33年ぶりに『ミツワ石鹸』の商品が復活した。」ともあります。
「ワ、ワ、ワ。ワが三つ・・・」というCMで聞き覚えがあります。それを復活させたとのこと。また、「ミヨシ油脂」(ここの石鹸製品は、天然油脂で造っているとかつて聞いたことがあります。)とも提携?しているとか。
こうして、大きな戦災の被害にも立ち直り、こうして地場産業として今も立派に活躍していることに下町の心意気を感じます。
たとえ煉瓦の傷跡が戦災のものでなかったとしても、これから先も、保存してほしいものです。
家に帰ってきて、昭和22年の航空写真(goo)を見ると、この辺り一面、満足な建物はありません。学校の校舎がぽつんぽつんと残っているだけ。ここは、「東京大空襲」でほとんど灰燼に帰した場所です。そんな中で、この建物らしきものが写っています。他の建物はまだ再建されていない様子です。
すると、この赤茶けた壁面は、おそらくその空襲の痕ではないでしょうか? 地元の人々にはきっと知られていることなのでしょう。
玉の肌石鹸は、1892(明治25)年、本所の地(現在の墨田区緑)に社名「芳誠舎」として誕生し、化粧石鹸の製造を開始して以来、創業115年以上に及ぶ、歴史と伝統を誇る石鹸の専業メーカーだそうです。
会社のHPでは、「長い歴史の中で培われ続けてきた、優れた製造技術に高い評価をいただき、1960年代後半から高級石けんの受託生産を始め、世界的なブランド商品の製造も数多く手がけてきました。そして2003年からは、オリジナルブランド「TAMANOHADA」をスタートしました。」とあります。
さらに、「2007年(平成19)年には、『ミツワ石鹸』の商標権をプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)から取得。翌年4月1日付で、100%子会社のミツワ石鹸株式会社を設立・業務開始。33年ぶりに『ミツワ石鹸』の商品が復活した。」ともあります。
「ワ、ワ、ワ。ワが三つ・・・」というCMで聞き覚えがあります。それを復活させたとのこと。また、「ミヨシ油脂」(ここの石鹸製品は、天然油脂で造っているとかつて聞いたことがあります。)とも提携?しているとか。
こうして、大きな戦災の被害にも立ち直り、こうして地場産業として今も立派に活躍していることに下町の心意気を感じます。
たとえ煉瓦の傷跡が戦災のものでなかったとしても、これから先も、保存してほしいものです。