おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

101 小林一茶旧居跡

2009-06-28 22:11:13 | 歴史・痕跡
江東区大島2丁目・愛宕神社。創建は不詳。もとは葛飾郡中ノ郷村(現在の墨田区内)の成就院境内に祀られていたが、寛永年間(1624~44)村民の移住に伴って大島へ遷座してきたという。ここ愛宕神社に俳人・小林一茶が享和3年(1803年)から文化5年(1808年)まで仮住まいをしていたとされ、境内には「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」の句碑がある。写真は、その句碑。年表では、一茶40歳の頃のこととなる。神社境内の説明板には「句帳や日記に『本所五つ目愛宕山』と記されており、・・・」と書かれている。(この「五つ目」は今の五の橋通りを指すか)
 小林一茶は、生涯に2万句の発句を作った。生まれ故郷の柏原など、ゆかりの地に多くの句碑が作られている。
 都内には、足立区六月3丁目・炎天寺の「蝉なくや六月村の炎天寺」、「やせ蛙まけるな一茶是にあり」。
荒川区尾久1丁目・浄善寺の「いたれりや佛の方より花衣」。
西日暮里3丁目・本行寺の「陽炎や道灌どのの物見塚」。
そして、ここ江東区大島2丁目・愛宕神社の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」がある。
 特に、炎天寺は、俳句で有名な寺で、毎年行われる「一茶まつり」には、全国小中学生俳句大会が開かれている。(この炎天寺が「成就院」とも号されているので、この愛宕神社との関連が推測できる)
 「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」は、『おらが春』所収、季語は「雀の子」で「春」の句。
 小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名は、弥太郎。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母を迎えるが、義母になじめなかった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出される。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになった。
 一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学び、初め、い橋・菊明・亜堂とも名乗ったが、「一茶」という俳号を用いるようになる。
 29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書く。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版された。
 一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をするが、父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまう。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられている。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続いた。この頃(江戸に再び出てきたとき)、ここ愛宕神社での仮住まいの期間もあったと推測できる。
 一茶は、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてた。貧乏と隣り合わせの暮らしだったが、俳人としての一茶の評価は高まっていく。
 50歳の冬、一茶はふるさとに帰る。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまう。その後、再婚・・・。
 このように、一茶は、家庭的にはめぐまれなかったが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残した。
 1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住む。この年の11月19日、65歳の生涯をとじた。
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