東武伊勢崎線・終点「浅草」の一つ手前の駅が「業平橋」。東武線が浅草まで開通する前は、ここが終点の駅でした。貨物の引き込み線があったり、車両基地があったりと(現在も)そこそこの駅です。
駅名は、当初の「吾妻橋」から「浅草駅」、さらに、隅田川を越えて浅草雷門駅(現在の浅草駅)までの延伸を果たした1931(昭和6)年に「業平橋駅」と改称されました。
現在は、駅の東南、広大な敷地内で高さ600㍍の「東京スカイツリー」の建設が盛んに行われています。完成の時には、この駅が一番最寄りの駅になります。今は貧相な駅のたたずまいですが、おそらく大がかりな改修工事が始まることでしょう。
駅名の由来について、東武鉄道では次のように説明しています。
平安時代に藤原氏の摂関政治の下で、歌人・在原業平は官位を取り上げられ無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われます。
在原業平の「東下り」の故事にちなんで、名付けられたということです。ここにある「地名や橋名」は以前からあった「業平」というものです。
平安時代の作品「伊勢物語」に登場する主人公は、「昔男(ありけり)」という言い方になっていて、業平の名前はどこにも登場しませんが、この「男」が「在原業平」という実在の人物に擬せられているわけです。そこで、「伊勢物語」を別名「在五の中将の物語」とも呼ばれています。
しかし、上述のように本当に業平が東国まではるばるやってきたかどうか、特に皇后に懸想したあたりはさもありなんという感じですが、その罪によって無官になって東国に流されたという史実はどうも疑問です。
一方で、駿河から武蔵までの土地が出て来るのも事実ですし、また、「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」や「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」なども記されて、後世まで名歌として語り継がれ、歌枕として定着していることなどから、何らかの背景があったことは事実でしょう。
はるばる隅田川までやってきた人物が業平かどうかは別として、貴人が遠国に流されるという「貴種流離譚」や、京に住む都人の、遙かかなたの東国への独特の思いが結合して、こうした話となっているようです。
この地域には、隅田川に架かる「吾妻橋」や「言問橋」という橋名があり、「業平橋」は、大横川(現在は埋め立てられ「親水公園」となっています)に架かる橋として今も残っています。この橋の名は、「吾妻橋」の別称とも言われています。また、この付近の地名は、「業平」と呼ばれています。こうしたことから、駅名になったようです。
業平説話に関わっての「業平橋」は他の地にも残されていて、埼玉県春日部市の古隅田川に架かる埼玉県道2号・さいたま春日部線の橋名。おそらく古墨田川との関連でしょうが、いくら業平さんでもここまでは来ることはなかったと思います。
東下りとは関係がありませんが、兵庫県芦屋市の芦屋川に架かる国道2号線の橋の名にもなっていて、在原業平が現在の芦屋市に住んでいたと伝えられていることが、橋の名前の由来となっているとのこと。
また、奈良県生駒郡斑鳩町高安の富雄川に架かる橋の名にもなっています。在原業平が自宅と河内国高安の間を行き来した時に通ったとされる(「筒井筒」という章に記された話に関係するものです)道筋(いわゆる「業平道」)に架かることが由来となっているようです。
写真は、墨田区・浅草通りにある「業平橋」。橋の下には、すでに川の流れはなくて、船を模した遊戯施設があって、水に親しむという目的の親水公園の一部となっています。右手奥に見える何台もの大型クレーンは、「スカイツリー」建設のためのものです。
駅名は、当初の「吾妻橋」から「浅草駅」、さらに、隅田川を越えて浅草雷門駅(現在の浅草駅)までの延伸を果たした1931(昭和6)年に「業平橋駅」と改称されました。
現在は、駅の東南、広大な敷地内で高さ600㍍の「東京スカイツリー」の建設が盛んに行われています。完成の時には、この駅が一番最寄りの駅になります。今は貧相な駅のたたずまいですが、おそらく大がかりな改修工事が始まることでしょう。
駅名の由来について、東武鉄道では次のように説明しています。
平安時代に藤原氏の摂関政治の下で、歌人・在原業平は官位を取り上げられ無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われます。
在原業平の「東下り」の故事にちなんで、名付けられたということです。ここにある「地名や橋名」は以前からあった「業平」というものです。
平安時代の作品「伊勢物語」に登場する主人公は、「昔男(ありけり)」という言い方になっていて、業平の名前はどこにも登場しませんが、この「男」が「在原業平」という実在の人物に擬せられているわけです。そこで、「伊勢物語」を別名「在五の中将の物語」とも呼ばれています。
しかし、上述のように本当に業平が東国まではるばるやってきたかどうか、特に皇后に懸想したあたりはさもありなんという感じですが、その罪によって無官になって東国に流されたという史実はどうも疑問です。
一方で、駿河から武蔵までの土地が出て来るのも事実ですし、また、「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」や「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」なども記されて、後世まで名歌として語り継がれ、歌枕として定着していることなどから、何らかの背景があったことは事実でしょう。
はるばる隅田川までやってきた人物が業平かどうかは別として、貴人が遠国に流されるという「貴種流離譚」や、京に住む都人の、遙かかなたの東国への独特の思いが結合して、こうした話となっているようです。
この地域には、隅田川に架かる「吾妻橋」や「言問橋」という橋名があり、「業平橋」は、大横川(現在は埋め立てられ「親水公園」となっています)に架かる橋として今も残っています。この橋の名は、「吾妻橋」の別称とも言われています。また、この付近の地名は、「業平」と呼ばれています。こうしたことから、駅名になったようです。
業平説話に関わっての「業平橋」は他の地にも残されていて、埼玉県春日部市の古隅田川に架かる埼玉県道2号・さいたま春日部線の橋名。おそらく古墨田川との関連でしょうが、いくら業平さんでもここまでは来ることはなかったと思います。
東下りとは関係がありませんが、兵庫県芦屋市の芦屋川に架かる国道2号線の橋の名にもなっていて、在原業平が現在の芦屋市に住んでいたと伝えられていることが、橋の名前の由来となっているとのこと。
また、奈良県生駒郡斑鳩町高安の富雄川に架かる橋の名にもなっています。在原業平が自宅と河内国高安の間を行き来した時に通ったとされる(「筒井筒」という章に記された話に関係するものです)道筋(いわゆる「業平道」)に架かることが由来となっているようです。
写真は、墨田区・浅草通りにある「業平橋」。橋の下には、すでに川の流れはなくて、船を模した遊戯施設があって、水に親しむという目的の親水公園の一部となっています。右手奥に見える何台もの大型クレーンは、「スカイツリー」建設のためのものです。