おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

葛飾区・奥戸~江戸川区・菅原橋(「中井堀」跡をたどる。その1)

2012-10-03 22:54:22 | 河川痕跡
 高砂駅北西付近で「東用水」と分岐した「西用水」は南下してしばらくすると、また二手に分かれます。東の用水を「中井堀」と称したようです。新中川によってその分岐点は今は不明となっていますが、新中川を越えて、「西用水(西井堀)」の東側をほぼ並行して南下していきます。「新小岩駅操車場」の東のはずれ、「新金貨物線」がカーブして本線に合流するあたりで鉄橋の下を流れていました。しばらく進み、「菅原橋」(元佐倉道・旧千葉街道)から南に向かっていきます。どんな痕跡が残っているか?
明治13年当時の地図。右下のところで、「西」と「中」とに分かれている。中川の旧水路(広大な河川敷)で囲まれたところは、現在は「環七」が通り、周囲は葛飾区の野球場、温水プールなどのあるスポーツ施設や消防庁の災害訓練場などになっています。下方に見えるカーブした道は、葛飾区内最古の「古代の道」の一部。このあたりは、中川(古利根川)の氾濫流域のため、道は複雑に曲がっていますが、マクロ的に地図を見ると、もともと、西から東へほぼ一直線の道になっています。
環七と新中川にはさまれ、この道沿いにある「区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。
「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。
新中川。このあたりで「西」と「中」に分岐していたようです。
新中川方向を望む。
車の往来の激しい「環七」の一本東側の道。広い道ですが、住宅や営業所、お寺などのある静かな道になっています。
環七との合流近く。水路だった面影はありません。
「環七」に突き当たり、その角地にある思いがけず広くて整った広場。
そこから振り返って来た道を望む。
「環七」と蔵前橋通りとの交差点「総武陸橋下」。元々の水路は斜め左から右上に続いていました。
斜めに渡ったところ。水路跡はそのままJR総武線の方向へ。「案内板」にはこのまままっすぐ行くと「都立小岩高校」へ700㍍で着くかのような表示。
ところがここで行き止まり。さて線路の向こうに行くのは・・・。
 向こう側(南側)に渡る通路はまったくこの付近にはありませんでした。「総武陸橋」は幅の広いJR線を越えるため、長く、急で、高い陸橋。自転車用のレーンもなさそう。たくさんの車が通過するので、その脇を上って行くのはかなり怖いものが・・・。歩道橋はありますが、階段のみ。それも急で、見上げるほどの高さ。
 自転車を通す幅状のものもなく、自転車で行くには上りも下りも担いで上がるしかない! 参った、参った! 後は西に進み、「小松橋」を渡るか、新小岩駅近くでガードをくぐるか、さもなければ・・・。しばしあたりをうろついたあげく、しかたなく自転車をかついで上りました。折り畳み自転車(軽量でも10㎏あり)をたたんでやっこらさ。見ると、普通のママチャリを担いで上っている強者が・・・。
 何とかならないものでしょうか? 環七にはこういう自転車では通りにくい交差点・陸橋があります(足立区内にもあり)。
菅原橋。横切るのは「元佐倉道・旧千葉街道」。水路はまだまだ南東に進み、「一之江」方向へ。
菅原橋近くの「小松川境川親水公園」入り口付近。水しぶきを上げて勢いよく流れ落ちていました。「小松川境川」は、東西・小松川村の境に流れる川だったようです。ちなみに「一之江境川」は、東西・一之江村の境となった流れ。
せせらぎ公園風。よく整備された親水公園になっています。ここからほぼ南方向に。平和橋通り、旧千葉街道、京葉道路、首都高・小松川線などを通り抜けて延々、中川・荒川まで、親しみやすくすてきな緑道になっています。
案内図。
 「小松川境川」用水は、明治以前から幅も広く土手道もあったようで、中川以東の南北道(奥戸からの道を合わせ、新宿・奥戸地域と小松川地域を結ぶ)として農作物などの物流や人の往き来も多かったことを広い道幅で感じさせます。「小松川街道」は、こちらの道を指していたのか?
菅原橋付近。斜め一直線の水路が「中井堀」。左の曲がった水路が現在の「小松川境川親水公園」の北側一部。中央の広い道は「元佐倉道(旧千葉街道)」。
コメント
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