おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「鹿骨親水緑道」。谷河内1丁目。千葉街道~京葉道路。(「小岩用水」跡をたどる。その3)

2012-10-09 19:32:43 | 河川痕跡
 千葉街道を越えて南下する「小岩用水」跡。東側にある「柴又街道」とほぼ並行して進みます。このあたりは、かつては田園地帯。田畑に供給する「水路」も縦横に走っていました。「小岩用水」も分岐したり、江戸川からの新たな水路ができたりとはっきりと本流の流路が特定できません。
 すでに明治13年作成の地図でも開発による農業環境をとりまく変化があるように見えますが、特に、戦後の農地解放や統合・区画整理などでかなり流路が変わっています。その傾向は、昭和22年と昭和38年の航空写真との比較でも顕著です(あぜ道などが込み入った田畑の整然とした区画整理状況は、昭和38年の航空写真ではっきりとします)。
 その後、さらに都市人口の流入・増加によってそれまでの農地が宅地化され、それに伴う道路や区画の整備によって流路の変更・廃止(道路化など)がありました。京葉道路以南は昭和38年の航空写真でもほとんどが区画整理された田畑となり、今は、いっそうびっしりと住宅地になっています(道路はその当時の道をそのまま道路化したようで、碁盤の目のように整然となっています)。現在もなお、区画整理の進行している地域が「柴又街道」沿道周辺などに見られます。
 近年、農業用水としての役割を終えて、次第にどぶ川化していった旧水路を、下水道の完備とともに江戸川区では整備し、「親水緑道」として、流れの復活再生事業を積極的に行ってきました。JR小岩駅周辺やその以南にはそうした緑道が多くあります。
 さて、南下した「小岩用水」跡の行方はどうなっていったでしょうか。
 西側を流れていた「東用水」の跡は「鹿本通り」として京葉道路まで続き(その先も)ます。「小岩用水」は、現在の京葉道路手前でそれに合流していた、さらに越えて南西に延びていた、また、少し上流の方で南東の方向へ何本にも分岐し、最終的には旧「江戸川」に注いでいた、などと幾通りか考えられます。
明治13年作成の地図。「旧江戸川」下流付近に注いでいる水路。中央斜めの道は「篠崎街道(市川橋西詰付近で「岩槻街道」に)」。北西からの流れは、「東用水」? 北東からの流れが「小岩用水」(からの分岐水路)? 現在の南篠崎5丁目、江戸川1丁目付近。
千葉街道を越えて街路樹のあるほぼ直線の道になる。
平日の午後のせいか車の往き来は少ない。
来た道を振り返る。
「鹿骨(ししぼね)親水緑道」の案内。ここから親水緑道に。
「興農親水緑道」。旧江戸川から引いた水路跡。
「鹿本親水緑道」。「小岩用水」と「東用水」とを結んでいた水路跡。
「本郷親水緑道」。「篠崎公園」内。戦後に造成。江戸川と鹿骨用水(小岩用水)とを結ぶ。
「鹿見塚」の「説明板」。

 この鹿見塚のある神社は昔から鹿骨発祥の地といわれている。伝説によるとこの地は昔戦国時代の頃、 興亡のはげしい世の中を離れ、 安住の地を求めて石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓し住みついた所といわれる。ある日のこと日頃尊崇している鹿島大神が、常陸の国から大和の奈良に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病で倒れたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられている。
 昭和四十二年八月氏子中によって碑が建てられた。台座はコンクリート三段組で高さ九八・碑石は高さ八一・幅五二・厚さが一三(単位センチメートル)あり表面に「鹿骨発祥の地 鹿見塚」と刻まれている。鹿見塚神社は昭和四十八年に再建築されたものである。
                                     昭和五十二年十一月         江戸川区教育委員会

 このことについて、「発祥の地コレクション/鹿骨発祥の地」(hamadayori.com/hass-col/timei/Sisibone.htm)には次のようにある。
 
 鹿骨東小学校の南に「鹿見塚神社」があり, その境内に「鹿骨発祥の地・鹿見塚」という石碑が建っている。また 神社の鳥居横には 江戸川区教育委員会の建てた 説明板がある。「鹿骨」は この辺りの地名で「ししぼね」と読む。説明板に書かれた文章は 誤解を招きかねない書き方になっている。
 奈良時代(8世紀)、 藤原氏によって奈良の春日大社が創建されるに際して、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、 その途中、鹿が死んだためこの地に葬った。これが「鹿骨」の地名の由来。
 戦国時代(16世紀)になって, 石井長勝や牧野一族などが この地の開拓に入って住みつき, 発展の基礎を築いたとされる。
 この二つのことを一緒に書いたために 話が混乱している、と。
 
「鹿骨親水緑道」の一画にある「親子の鹿」像。
車道と区分された緑道。並木の木陰が心地よい。
「流堀親水はなのみち」。水流に泳ぐ鯉。「小岩用水(鹿骨用水)」から分かれて「東用水(現・鹿本通り)」に結ぶ水路跡。
「はなのみち」にふさわしく草花が水路に沿って。「曼珠沙華」の赤い花も。
左の通りが「鹿本通り」。右からの道は水路跡。なお、「鹿骨親水緑道」はもう少し北側の「鹿本通り」を越えて南下していったようにも見えるが、昭和22年の航空写真では、「鹿本通り」(東用水)と交わっている、現在の「鹿骨親水緑道」になぞらえる水路は存在していなかった。
 戦後の農地改革、それ以降の農地整理、区画整理などによって「小岩用水」など、近辺地域のでの流路変更、新たな用水路の設置など盛んに進められた可能性がある。昭和22年時点では、この水路跡の方が本来の「鹿骨用水」(「小岩用水」の分水?)のようだが。
「谷河内(やごうち)1丁目」。京葉道路と鹿本通り、「鹿骨親水緑道」に囲まれた三角形の土地。昔から集落のあったところのようで、家々の路地もかつての農道のよう。また、ハウス栽培や畑がある。周りの宅地開発の中にあって、まだかつての懐かしい田園風景が残っている(かつてこの周辺は区画整理された田畑が広がっていた。今回行く前は、周囲の田んぼに比べて小高い丘陵のようなイメージがあった。実際は、「谷」「河」の「内」という名称のごとく、江戸時代中期頃、谷あいの湿地帯を開墾した土地。「椿」や「新堀(荒堀)」も同じ頃開墾された、と「江戸川区」関連の資料にあった。)
明治13年作成の地図。まとまった集落であることが分かる。中央上から右下への水路が「東用水」。「京葉道路」によって南北に分かれてしまった。南西には「椿村」。
ハウス栽培。この一画の道は昭和22年、38年の航空写真でもほとんど変化がなく、現在もそのまま。曲がりくねった農道・広いあぜ道の面影がある。
畑地。新しい住宅も多いが、道は昔のまま。
住宅地を抜ける道。

 
コメント
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